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1.僕と兄ちゃん
キュッ、キュッと、裸足の足裏が冷たい体育館の床にこすれて音がなる。
今は冬で寒かったけれど、僕は汗をかきながら、自分の体を狙って打ち込まれる突きや
蹴りを必死にさばいていた。
「ほら、手を出してこい!」
僕のお兄ちゃんはそう言いながら、容赦ない攻撃をしてくる。
僕と兄ちゃんは、小学校1年生の時から空手を習い始めた。
兄ちゃんは真面目な性格で、稽古が無い日の放課後も小学校の先生に許可をとり、
体育館で練習をしていた。僕が空手を始めてからは、週に数回、その練習を一緒に
行っていた。
今、僕は小学4年生で、兄ちゃんは中学2年生。当然、身長や体重、リーチが違うし、
経験も兄ちゃんの方が豊富だから、兄ちゃんは圧倒的に有利な立場から僕に攻撃して
いる。でも、兄ちゃんは手加減をしてくれない。
普通は上級者の方は手加減をして、あくまでガードのタイミングや当て感を養うことに
重きを置いて組手をするべきというのが、師範の考えだった。だから道場内では、
ガチスパーを除いて兄ちゃんも本気で殴ってくる事は無い。
でも、誰も見ていないこの体育館での稽古は違う。
特に、今日みたいに目に見えて機嫌の悪い日は・・・
バシッ!ドス!
僕の体に攻撃が当たる度、重い音がする。ガードをする手足が痛い。圧力に負けて
防戦一方になってしまう。
「ちょっとはやり返せ!」
ドスッ!!「かはっ!」
兄ちゃんの膝蹴りが僕のみぞおちに突き刺さる。
ギュウ、と内臓が押しつぶされるような感覚がして呼吸を止められ、僕の体は自覚する
間もないままお腹を抱えて崩れ落ちる。
「アゥッ!げぇっ・・・、アッ、グァ、くふぅ・・・」
お腹を押さえたまま床で二転三転する僕を兄ちゃんが見下ろしている。
「オイ!それじゃあ一本負けだぞ!何してるんだ、早く立て!!」
お腹の痛みに言葉で追い打ちをかけられ、泣きそうになる。
それでも僕は滲んだ涙をぬぐいながら、立ち上がろうとした。体に力を入れると、
蹴られたところが鈍く痛む。それをこらえて僕は立ち上がり、兄ちゃんに向かって
構えた。
この根性だけは、兄ちゃんとの組手で養われた僕の唯一の強みだったかもしれない。
「ああああ!!」
声を上げ、気合いを入れて拳を突き出す。
敵わないことはわかってる・・・それでも・・・!
ドンッ!「かぐっ!」
右足の太ももに、振り落とされる下段蹴り。重たい衝撃とともに骨まで衝撃が響いて、
筋肉に痛みが走る。
「アッ・・・ぐ・・・」
きれいに膝上のあたりの急所にあたり、動かす度に痛むようになった。足を効かされて
しまうと、もう攻撃を正面から受けるしかない。
ドシ!ドグゥ!!
突きや蹴りを受けきれない。痛くて後ろに下がってしまう。
「下がるな!負けるぞ!」
檄が飛び、いっそう強く攻められる。
もう無理だ・・・・
心が折れかけたところに、再度足の同じ場所に蹴りが決まる。
ドズッ!!「ぐがっ・・・」
足が曲がりバランスを崩した僕の体を、”倒れさせない”と言わんばかりに膝蹴りが
おそった。
ドムゥ!!
「うげぇっ!!」
兄ちゃんの膝が刺したのは、僕の腹だった。蹴られたら嫌な場所にピンポイントで膝が
めりこんでいる。
くふぇっ、と息が無理矢理吐き出される・・・・
そのまま苦痛に身を任せて、その場に崩れ落ちる。強烈な攻撃に体が内臓を守ろうと
して、勝手に丸まろうとする。
腹を押さえ、体をまるめ、ただただ苦痛が去ってくれるのを待つ。内臓が口から飛び
出そうだ。苦しい。吐きたい。いや、吐けたらまだ楽だっただろう。えずくばかりで、
胃の中のものはでてきてくれなかった。
「へぅっ・・・くぁ・・・アッ・・」
体を転がしながら楽に呼吸ができる体勢を探すが、大して変わらなかった。早く楽に
なれ。早く時間が過ぎろ。苦しい時間が長すぎる・・・いや、以外に自分自身が
そう感じているだけなのかも知れないけれど。
「また腹でやられたな。前もじゃなかったか?もっと鍛えとけよ!」
苦しい腹に兄ちゃんの言葉が響く。うるさい、しゃべるな・・・僕は今ただただ腹が苦しいんだ・・・。
体育館の冷たい床に寝転ぶのは一度や二度じゃない。これまで何度も腹を効かされ、
体を丸めて額を床にこすりつけた。こうしてまた床の冷たさを頬で感じていると、
これまでダウンさせられた思い出が一気に思い出されて、悲しくなる。
なんでこうやって兄ちゃんに殴られて、つらい思いをしなきゃならないんだ・・・
腹の苦痛と心の痛みに支配されながら、僕はより小さく体をまるめ、兄ちゃんに見えないようにこっそりと涙を流した。
僕は兄ちゃんが大嫌いだ。
2.最高の日
「みんな聞いてくれ。今日からみんなの仲間に加わる、クリス君だ。クリス君はアメリカ
の出身だが、10歳の時に日本に来て、以来4年間、日本に住んでいる。日本に来てから
空手を始めたんだそうだ。このたび、お父さんが違う県からこちらに引っ越してきて、
この道場に通うことになった。日本語は問題無く話せるから、みんな遠慮無く話しかけ
て、仲良くするんだぞ。」
稽古の開始時に師範が言った言葉。
今日道場に着いたときに外国人がいるから、僕はテンションが上がった。僕は海外の
アクション映画が好きだけど、僕らの住んでいる地区は田舎で、外国の人なんてALTの
先生しか見たことがなかったからだ。まさか自分の通っている道場に外国の人が
くるなんて。
そっか・・・今日から一緒に稽古するんだ・・・。ここでふと思った。
え、少年部!?いやいやいや、どうみても大人の体のサイズだ。小学生の僕が言うのも
どうかと思うけど、言われて見れば顔は幼い・・・気がする。でも、明らかに他の子に
比べて高さが浮きすぎてる。中学生の先輩達も、クリスくんの胸の高さくらいしかない。
170・・・いや、180はあるんじゃないか。組手とか、もう最強状態だろ・・・。
予想してなかった新しい道場生に、頭の中で色んな事を考えてしまう。僕の周りの同い年
の子達も、「え、でけぇ!」とか「めっちゃ強そう」とか言って盛り上がっていた。
「ハイハイハイ、静かに!じゃあ今日の稽古始めるぞ。」
師範がそんな僕らを制し、いつも通りの稽古が始まる。
準備体操、型、筋力・持久力アップのトレーニング、ミット打ち・・・。クリス君は若干
緊張したような様子だったけど、稽古を楽しんでいるようだった。もともと、別の道場で
学んでいただけあってスムーズにできていたし、分からないことも他の子に聞きながら進
めていった。
そして、稽古も終盤にさしかかった頃、師範が口を開いた。
「お~し、みんな集合!さて、今日は月一回のガチスパーの日だ。誰か挑戦したいやつは
いるか~?」
師範の問いかけに、皆うつむいてしーんとなった。
ガチスパーは普段の練習と違い、大会と同じように本気で攻撃しあうスパーリングだ。
攻撃を効かされてうずくまったり、時には上段蹴りが入って失神してしまうことも
あって、自分から進んでやりたがる子はいなかった。
「う~ん?志願者なしか~?そんなんじゃ試合に出ても相手に押されて負けてしまうぞ。
困難な事にこそ、挑戦する意味があるんだ。」
返事はなし。
「うむむ・・・、そうだ、クリス!お前、どうだ?ガチスパーやってみないか?お互い、本気で攻撃しあうスパーリングだ。前の道場でもやっていたと聞いたし、よければ・・・」
師範が言い終わらぬ内に、クリス君は勢いよく返事した。
「はい!やってみたいです。」
「お、いい返事だな!さて、じゃあ相手は・・・」
師範が僕らの方を見る。そしてみんな下を向く。
だって、クリス君の体格に勝るどころか、同等な子もいないのに・・・
「おう、じゃあ海人(かいと)!指名だ、前に出ろ。」
「え!?・・・あ・・・押忍・・・」
なんとここで指名されたのは僕の兄ちゃんだった。いったん返事につまりつつも、反射的に返事をしまった感じだと思う。明らかに、大柄なクリス君にビビっていた。
二人が向き合うと、その体格差が明確だ。兄ちゃんの頭がクリス君の胸・・・いや、
みぞおちくらいだろうか。あれだけ差があると、僕と兄ちゃんの組手みたいに、クリス君
が膝蹴りをだしたらきれいに兄ちゃんの腹に決まるだろう。
「では二人とも、向かい合って。他の奴らも、ちゃんと見ながらいいところ、悪いところ
を自分で見つけるようにするんだぞ、いいな。」
組手が始まる。
心のどこかで、僕は兄ちゃんが腹を効かされて悶絶する事をのぞんでいた。
兄ちゃんが僕にやったみたいに・・・
「始め!!」
師範の開始の合図とともに、先に前にでたのは以外にも兄ちゃんだった。自分よりも背が
高い相手には距離をつめてボディを攻め、ガードが下がったところで上段蹴りをねら
う・・・というのは、ある種のセオリーだ。そして兄ちゃんはセオリー通りの戦い方をす
る選手だった。
ガゴォッ!「うぐっ!」
突然の衝撃音。
クリス君の中段蹴りが兄ちゃんの体を直撃する。ガードはしているものの、体格差による威力で体ごとなぎ倒されそうになる兄ちゃん。
2、3歩バタバタと足踏みしてこけそうになりながら、崩したバランスを整えてクリス君に向かっていこうとする。でも・・・
バシィッ!!
はぐぅッ・・・
兄ちゃんの歩みを止める、右足へのローキック。蹴り足が食い込んだ太ももがミチミチと嫌な音をたてる。そのまま力任せのような蹴りで兄ちゃんの体を揺さぶりつつ距離をつめると、兄ちゃんの体に手当たり次第に拳を叩き込んだ。
「あぅ!ぐぅ、はぐっ!!、ガァッ・・」
鎖骨、胸、脇腹・・・どこと言うことなく拳がめり込み、兄ちゃんの口から苦しげな声が漏れる・・・
体を丸めて急所への攻撃はもらわないようにしていた兄ちゃんだったけど、勝負は一瞬でついてしまった。
ズムッ!!!
「ゲェ!!」ゴボゴボッ・・・
重たい打撃音とともに、兄ちゃんの体は宙に浮いた。クリス君の右拳が、完全に兄ちゃんの腹に埋まって見えなくなっている。
きれいなくの字の形で浮かばされながら、兄ちゃんはゲロを吐いていた。
吹っ飛ばされ、勢いそのままに背中から床のマットに落ちる。着地と同時に腹を抱えた
体勢でぐるんと横に寝返りをうつと、
「ゲェェェェ!!」
兄ちゃんは激しく嘔吐した。びちゃびちゃと胃の中のものが飛び散るように出てくる。
「海人ォ!!」
師範は驚いた声をあげながら、兄ちゃんに駆け寄った。
「大丈夫か!?おい、大丈夫か!?」と慌てた様子で声をかける。
後ろの方で送迎のために来ていた親達も、ざわざわと騒ぎ始める。
「あ~、みんな、今日はもう終了時間が来ているから、黙想はなしで解散にします。それぞれ、気をつけて帰ってください、また来週の稽古で!」
師範が兄ちゃんの介抱で忙しいためか、道場所属の若い大人の選手がみんなに言った。
僕と兄ちゃんは家が近いため歩いてきていたが、さて今日はどうすればいいだろう。
兄ちゃんを見ると、泣きながら未だにゲロを吐いていた。クリス君も心配そうにそばで
見ている。
普通、自分の兄がこんな姿になっているのを見たら心配したり、悲しくなったりするものだろう。でも、僕はひねくれているらしい。いや、兄ちゃんとの稽古のせいでひねくれてしまったのか。
僕は今とてもすっきりと、清々しい気持ちがしていた。今まで僕につらい攻撃をしてきた人間が、今は逆に吐くほど苦しんでいる。
この時、確信した。やっぱり僕は兄ちゃんが大嫌いだ、と。