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氏裸
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【小説】冴えない父親と娘の親友

勤続二十年。

身を粉にして会社に尽くしてきたが、サービス残業、休日出勤上等の待遇にため息が止まらない。

今日も日曜日だというのに出勤させられ、時刻は二十三時を回っている。

世間ではこういう会社をブラック企業というのかもしれない。

だが、それでもまだちゃんと給料を支払われているだけマシだろう。

仕事はあくまで仕事。

金を稼ぐため、生活を守るためには当然の義務だと考えればこのぐらいは頑張れる。

その分別の場所に癒しを求めればいいだけの話だ。

では私がどこに癒しを求めるのかと言うと……。


「ただいま」

「……遅かったですね。おかえりなさい」

「…………」


少なくともこの家庭ではないようだ。

こちらを全く見ずに口だけで私を迎える妻の紗江子と、そもそも一言も発しない娘の愛美。

どちらも私に対してまるで関心を抱いていない。

いや、それどころか嫌悪感を抱かれていると言っても過言ではないほどに軽んじられている。

私は何も言わずに、ラップがかけられている夕飯をレンジで温めた。

その間に娘はスマホを弄らながらリビングから出ていき、妻もそれに続くように静かに去っていった。


「……いただきます」


私は独り、妻の作った野菜炒めを頬張った。

美味しいが、どこか空しい。

一体どうしてこうなったのだろうか。

いつの頃からか妻は私に関心を抱かなくなり、娘は近寄っただけで嫌な顔をするようになった。

自分の家だというのにあまりにも肩身が狭い。

会社でも家でも心が休まらない私はどこに癒しを求めればいいのだろうか。

最早私が私という人間である限りどこにも救いなんてないかのように思えてくる。

誰でもいいからこんな私を救ってはくれないだろうか。

そんなことを考えていたそのとき。

不意に固定電話の着信音が鳴り響いた。

普段家にいない私には聞き馴染みのない音に少し驚く。

私はその場で少し待ったが、誰かが取る様子はない。

廊下に顔を出すと、妻の紗江子はどうやら風呂に入っているらしい。

娘の愛美に取る気はなさそうだし、これは私が取るしかないのだろうか。

仕方なく受話器を取って耳に当てる。


「はい、もしもし?」

『あ、もしもし? 堂島剛志さんですか?』


聞こえてきたのは若い女の子の声だ。

私の名前を知っているようだが、こちらとしては声の主に覚えがない。


「そうだが、そちらは?」

『わたし、愛美ちゃんのクラスメイトの黒江有栖っていいます』


愛美の友達か。

それなら愛美のスマホに直接かければいいものを、何故わざわざこんな夜中に家の固定電話にかけてくるのだろうか。

内心苛立ちを覚えながら、それを抑えてなるべく角を立てないように言葉をかける。


「娘を呼べばいいのかな? 少し待っていてくれ」

『あ、違うんです。わたしはお父さんの方に用事があって』

「私に?」


娘の友達が私に用事?

なにがなんだかわからない。

怪訝に思う私を他所に、黒江さんは言葉を続ける。


『大事なお話なんですが、直接お話ししないといけないので、明日の朝、二丁目の公園まで来てもらえますか?』

「なんだって? 待ってくれ、急にそんなことを言われても……」

『よろしくお願いします。それじゃあ』


そこでブツっと電話は切れた。

なんだ今のは。

娘の友達がいきなり私に用事があるから明日の朝会ってほしいという旨の電話をかけてきた。

言葉にするとなおさら訳がわからない。

悪戯だろうか。

愛美もグルになって私を揶揄おうとしているとか。

……いや、普段の愛美の態度を思えば私に関わることすら嫌がるのにそんな悪戯をするとは考え難い。

では、本当に黒江さん本人が私に用があると?

何故?

考えても答えは出ない。

ツー、ツー、という無機質な音が鳴る受話器を私はただ見つめていた。




────────




翌朝。

私が朝食を食べにリビングへ行くと、既に愛美が食卓についていた。

紗江子と話していたようだが、私が入ってきた途端、不機嫌そうに黙り込んだ。

よっぽど私のことが嫌いのようだ。

思春期の娘は父親を嫌うものだと言うが、こちらとしては嫌われるようなことをした覚えがないので困惑するしかない。


「チッ……」


ついその顔を見つめてしまったせいか、愛美はこちらに聞こえるように舌打ちすると、自分の食べ終わった食器をさっさと片付けてリビングから出て行った。

昨日の電話のことを話そうと思っていたのだが、これでは取り付く島もない。

仕方ないので私は紗江子の方に相談してみることにした。


「なあ、少しいいか?」

「……なんですか?」


紗江子はこちらを見ず、朝のニュース番組がついたテレビの方へ顔を向けながら聞き返してきた。

その声からは明らかにうざったいという感情が透けている。


「……いや、なんでもない」

「そうですか」


結局私は話すのをやめて朝食に向き合った。

まるで針のむしろだ。

この家では私には発言の権利すら認められていないのかもしれない。

私は居た堪れない気持ちのまま朝食を食べ終えるとそのまま早々に家を出た。


「はぁ……」


朝からため息が止まらない。

今日に始まった話ではないが、あまりにも息が詰まる。

昔はこうではなかったはずなのだが。

紗江子とは夫婦らしい会話をしていたし、愛美だって父親に懐く可愛い娘だった。

そんな数年前の日常が遠い過去のように思えてならない。


「おっと、今はそんなことより……」


もう戻らない日々を懐かしむより今は目の前のことに向き合うべきだ。

二丁目の公園はここから最寄り駅までの道の途中にある。

寄ったところで会社に遅刻するほどの距離ではないのだが、あんな一方的な約束を聞く必要があるのだろうか。

だが、愛美の友達を無碍に扱ってしまえばただでさえ悪い愛美から私への印象がさらに悪化してしまうことにもなりかねない。


「仕方ないか……」


私は愛美の友達、黒江有栖さんが待つという公園へと急いだ。

自宅から数分の距離を歩くと、公園が見えてきた。

入り口からそっと中を覗き込むと、制服を着た女子高生らしき姿が見える。

その佇まいは凛としており、うちの娘と同級生というのが信じられないほどに可憐な美少女だった。


「あ、来ていただいてありがとうございます」


少女はこちらの方を向くと、天真爛漫な微笑みを浮かべていた。

きっと普通の人なら好印象を抱くであろうその様子に、私は何故か底知れない威圧感を覚えた。


「愛美の父の堂島剛志です。私に話があるということだったが」


私が努めて冷静に振る舞うと、黒江さんは笑顔のまま私の方に近づいてくる。

何故だか、ただこちらを見ているだけの女子高生相手に私は気圧されそうになっていた。


「お父さんにお願いしたいことがあるんですよ。きっとお父さんにも悪い話じゃないはずです」


溌剌とした澄んだ声で語りかけてくる黒江さん。

年頃の女の子なんて娘で慣れているはずなのに、この子と話していると異様なほどに緊張感が漂う。


「そのお願いしたいことというのは?」

「はい。お父さんには、わたしと入れ替わってほしいんです」


黒江さんはにっこりと微笑みながらそう言った。

私は言っている意味がよくわからず聞き返す。


「入れ替わってほしいというのは、どういうことだい?」

「そのままの意味ですよ。その身体を交換してほしいってことです。ドラマとかアニメとかで見たことありませんか? 人の身体が入れ替わるお話とか」


黒江さんは急に訳のわからない話をしてきた。

もしかして妄想と現実の区別がつかないタイプの子なのか?

女子高生にしては異様な空気感の子だと思ってはいたが、それは単に言動がズレていて周りから浮いているだけなのかもしれない。

なんだか途端に馬鹿馬鹿しくなってきた。


「悪いがお遊びに付き合っている暇はないんだ。今日も仕事なんでね。それじゃあ失礼するよ」


そう言って立ち去ろうとすると、黒江さんは私の腕を掴んで引き留めてきた。


「待ってください。本当にいいんですか? わたしと入れ替われるんですよ?」

「何を言って……」

「よく考えてください。会社では精神が磨耗するほどこき使われ、家庭内では娘からも妻からも蔑ろにされ、そんな冴えない中年男性としてこのまま過ごすより、わたしのような女子高生になった方が幸せだと思いませんか?」


黒江さんのあまりにも失礼な物言いに、しかし私は何も言い返すことができなかった。

全てその通りだ。

昨日私が思っていたことと同じ。

このまま惰性で冴えない日々を送るより、この子になった方がよほど幸せそうだ。

だが、そんなのは所詮妄想の話。

できるわけが……。


「できるんですよ。入れ替わりは」


黒江さんは懐から飴玉のようなものを取り出した。

手に二つ持っており、それぞれ赤と青の飴玉のようだ。


「これを舐めてください。そうすればきっと、あなたの望む通りになります」


黒江さんが青い飴玉を差し出してくる。

私は一瞬迷った末、包みを開いて口に含んだ。

別にこの子の言うことを信じたわけではない。

ただ、私の内心を言い当ててきたこの子の言葉には、人を従わせる力があった。


「ありがとうございます。では、わたしも」


黒江さんも持っていた赤い飴玉を口に含んだ。

これで何かが起きると言うのだろうか。

ただ口の中に飴玉の甘さが広がるだけだが。

しかし、この飴玉かなり美味しい。

ソーダ味だろうか。

舐めているとつい他のことなんて全てどうでも良くなってこの甘さに集中していたくなってしまう。


「……?」


あれ、何かおかしい気がする。

でも甘いからどうでもいい。

もっと、この甘さを味わって、いたい……。

身体の力が、抜けていく。

視界も、霞んでいく。

でも、甘いから、きにならな……。




────────




……なんだか、意識が朦朧としていたような気がする。

飴玉を舐めていただけなのに、何故か頭がぼーっとしてまともに思考が回らなくなっていた。

子供じゃあるまいし、なんで飴玉にこんなに夢中になって……。


「……?」


飴玉の味が、変わった……?

いつの間に飴玉の味がイチゴ味のようなものに変わっている気がする。

少なくとも舐め始めたときはこんな味ではなかった筈だ。

というか、さっきから何か違和感がある。

急に視点が低くなったような……。

そう思って自分の身体を見て、私は驚愕した。

会社に行くためにいつものようにスーツを着ていた筈だが、今私が着ているのは誰がどう見ても女子高生の制服だった。


「な、なんだこれは!?」


思わず叫んだ私の声は、中年男性のものではなく、高く澄んだ若い女の子の声だった。

何が起きている?

混乱しながら周りを見回すと、こちらを見ている男と目が合った。

その男はスーツを身にまとい、微笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

鏡の中で見たことがあるその顔は、紛れもなく私だった。


「だから言ったでしょう? 入れ替わりはできるって」


目の前の私がそう言う。

まさか、本当に身体が入れ替わったと言うのか?

それじゃあこの目の前にいる私は黒江さんで今の私の身体は……。

私は自分の身体を触ってみた。

色白で小さな手が、細く華奢な腰や肩に触れる。

年相応の女子高生らしいこの身体は、間違いなくさっき見ていた黒江さんの身体だった。


「ふふっ、自分の身体が勝手に動いてるのって変な感じですね。すごい焦ってて、まるでわたしじゃないみたいです」

「いや、こんな……これは現実なのか……?」

「はい、もちろん現実ですよ。今のわたしは中年男性で、今のあなたは女子高生なんです」


黒江さんは当たり前の事実かのように言うが、そんな簡単に受け入れられることではない。


「こ、困る! こんな身体で、会社になんて言えばいいんだ!?」

「会社? 何を言っているんですか? あなたが行くのは会社ではなく高校ですよ。あなたはもう会社員ではないんですから会社に行ったって仕方ないでしょう?」

「いや、でも私には仕事が……」

「それはこれからは私の仕事です。あなたがするべきことは、高校生らしく勉学に励むことですよ」

「今更私が勉強なんかしてどうするんだ! 家族も養わないといけないのにそんなことしてる暇は……」

「何を勘違いしてるんですか?」


すると急に黒江さんが私の目の前までやってきて両肩を掴んできた。

力強く抑えられ、動くこともできない。

こちらを見下ろしながら黒江さんは口を開く。


「愛美ちゃんも紗江子さんも、もうあなたの家族ではありません」

「な、何を言って……」

「今のあなたは黒江有栖。あなたと愛美ちゃんはもう血が繋がってないんですよ」

「そ、そんな……」

「愛美ちゃんはわたしの娘で、紗江子さんはわたしの妻です。いいですね」


威圧的にそう言われ、私は何も言えなかった。

もう私の家族じゃない。

その言葉が頭の中をずっとぐるぐると回っていた。


「ごめんなさい、あまり怖がらせる気はなかったんですが、つい。それに安心してください。その身体だって悪いものじゃありませんから」


そう言いうと黒江さんは踵を返しその場を立ち去ろうとした。


「ま、待ってくれ! どこに行くんだ!?」

「どこって会社に決まってるじゃないですか。あなたも早く学校に行った方がいいですよ。遅刻してしまいますから」

「学校って、どうやって行けば……」

「それは、その身体が教えてくれますから大丈夫ですよ。それじゃあ」


そう言って黒江さんは駅に向かって行ってしまった。

身体が教えてくれるってどういう……。

すると、頭の中に急に道順が浮かんできた。

知らない筈の記憶が、私に高校への行き方を教えてくる。

これは、まさか黒江さんの記憶?

確かにこれなら行けるかもしれないが、でも本当に私が学校に行くのか?

もう二十年以上も前に高校を卒業している私が?

女子高生として改めて学校に行くと?


「…………」


そんな馬鹿な話があるか。

恥ずかしいどころの話ではない。

しかし、この身体で自宅に帰ったところで言うことを信じてもらえるとも思えない。

他に行くべき場所もわからない。


「行くしかないのか……?」


私は仕方なく記憶に従って高校に向かった。

別に行きたくなんてないが、学生の学舎という懐かしい場所に心が浮つくような気持ちも少しある。

……もしかしたらこの非現実的な状況に現実逃避をしているだけなのかもしれないが。




────────




「有栖! おはよう!」

「お、おはよう……」

「黒江さん、おはよう」

「おはよう……」


学校に着くと、何人もの生徒から挨拶をされる。

私が学生だった頃は地味な生徒だったのでこんなに挨拶をされたことはない。

黒江さんは学校では人望があるようだ。

まあ見た目がそこらの女子高生とは比べ物にならない美少女なのも関係してるだろう。

そんな人間に今私がなっていると言うのだから不思議な話だ。

私の足は自然と二年B組の教室へと向かっていた。

きっとここが黒江さんのクラスなのだろう。

教室の中に入ると、パッと見ただけであそこが自分の席なのだと直感でわかった。

声をかけようとしてくる周りの生徒たちをやんわりと受け流しながら自分の席につく。

……やはり落ち着かない。

この身体はこの教室に来ることに慣れているのかもしれないが、私は初めて来たのだ。

周りにいるのも歳の離れた少年少女ばかりで何を話せばいいのかもわからない。

一体こんな状況でどう過ごせと言うんだろうか。


「あーりーすっ!」

「うわっ!?」


いきなり後ろから誰かに抱きつかれて飛び上がりそうになる。

振り向くと、そこにいたのは私のよく知った顔だった。


「……愛美……?」

「おはよっ、有栖。……え、なにその顔? そんなびっくりした?」


私の娘の愛美が、ニコニコしながら私に話しかけている。

愛美のこんな顔を見たのはいつ以来だろうか。

家にいてもいつも不機嫌そうで近づこうものなら舌打ちしかしないあの愛美が、まるで親しい友達にでも会うかのよう顔で私に接してくれている。

そのことが私の胸に強く響いた。


「え……有栖泣いてる? わっ、ど、どうしたの!? あたしなんかした!?」

「い、いや、違っ……」


じわじわと目から涙が溢れてくる。

こんなことで感極まってしまうとは思わなかった。

もしかしたらこの身体のせいかもしれない。

だが、娘と普通に話ができるこの状況に私が感動していたのは本当だった。


「誰かになんか嫌なことされた!? もしそうならあたしに言って! ボコボコにしてやるから!」


しかも愛美が私のことを心配してこんなことまで言ってくれるなんて。

普段の態度からは考えられない愛美の言葉にありがたみを感じながら、私は涙を拭った。


「いや、大丈夫だ、なんでもない」

「本当? なにかあったなら本当に相談してね? 約束だよ?」


私の手を握りながら目を見てそう言ってくれる愛美。

この身体でいるのも悪くないかもしれない。

私は少しずつそう思い始めていた。




────────




高校生の授業なんてと侮っていたが、改めて聞いているとなかなか新鮮だった。

一度習ったことだとは思うのだがあまりに昔のことすぎて覚えていなかったため、普通に聞いていて感心してしまう。

もしかしたら今と昔では教えていることが違うのかもしれないが、私の年代の人間でもこうして改めて学校の授業を聞くのも悪い体験ではないように感じる。


「……ふぅ」


三限目の古典が終わり、昼休みまで授業はあと一つ。

次の授業はなんだったか確認しようとしていると、後ろから声をかけられた。


「有栖、次体育だよ」

「あ、愛美……ちゃん」


近づいてきて愛美に返事をする。

黒江さんは普段愛美にちゃん付けをしていたようなので変に怪しまれないように私もそれに倣っているが、年頃まで成長した娘をちゃん付けで呼ぶのはなかなか慣れない。


「ほら、着替え持って更衣室行くよ?」

「ん? ここで着替えるんじゃ……」

「有栖、なに言ってんの? こんなとこで着替えられるわけないでしょ。男がこんだけいんのに」


愛美の言葉にハッとする。

そうか、今の私は女子なのだから男子とは別の場所で着替えるのか。

当たり前だが男子の前で服を脱ぐわけにはいかないだろう。

……ん?

ちょっと待て。


「えっと、更衣室って、女子更衣室……?」

「……いや、当たり前でしょ。本当にどうしたの? もう……」


愛美が体操着を持って歩き出す。

……困った。

まさか中年男性の私が女子高生たちの着替える女子更衣室に入るわけにもいくまい。

今は私も女子高生の身体をしているとはいえ、流石にそのまま女子更衣室に入るのは倫理的に問題がある。

一体どうするべきか。


「ほら、なにしてんの? 早く行くよ」

「わっ、ちょっと……!?」


愛美は私の手をを引っ張って更衣室に向かっていく。

まずい。

このままでは本当に更衣室で着替えることになってしまう。


「有栖? どうしたの本当に? ……もしかして具合悪いの? 朝も変だったし……ごめん、あたし気づけなくて……!」


私の様子がおかしいことに気づいた愛美が足を止める。

心の底から心配をしているような表情で私の顔を覗き込んでいる。


「いや、別に具合が悪いわけじゃない……よ。大丈夫、元気だから……」


そんな顔をした娘に嘘をつけず、つい正直に答えてしまう。


「……そうなの? ならよかった。あー、もう心配させないでよー」


すると、愛美は再び私の手を引っ張り更衣室の扉を開いた。

あ、駄目だこれは。

そう思った瞬間、私の目に飛び込んできたのは……。


「今日マラソンでしょ? だるー……」

「男子だけ走らせとけって感じだよねー」


そんな雑談に興じる、下着姿の女子高生たち。

外では決して見ることのない、男子禁制の空間。

あちらを向いてもこちらを向いても、下着と肌色が目に入る。

うら若き少女たちのこんなあられもない姿など、当然私の人生では目にするはずもないものだった。


「有栖、なにぼさっとしてるの? 早く着替えないと遅れるよ?」

「……!」


そう言っている愛美も既にワイシャツを脱いでおり、ブラジャーに包まれた柔らかそうな胸が私の目の前にあった。

心臓の音が大きくなっていくのがわかる。

お、落ち着け。

私は決して娘にドキドキしているわけではなく、この男ならば入れない空間に足を踏み入れてしまったことに焦っているだけなんだ。

そう自分に言い聞かせながら私は、さっと愛美から視線を外し自分の制服を脱ぎ始めた。

早く着替えてこんなところからは早く抜け出さなければ。


「……あ」


そこで、またもや私は問題に直面する。

この身体は黒江さんの、女子高生の身体だ。

その身体で着替えるということは、当然下着も素肌も見ることになる。


「…………」


私はなるべく見ないように目をつむりながらワイシャツのボタンを外していく。

そして、そのまますぐに体操着を手に取り腕を通そうとした。


「有栖、やっぱり胸大きいよね」

「ふぇっ!?」


いつの間にか私の周りにいたクラスメイトたちが私の胸を凝視していた。

その視線に釣られて自分も見てしまう。

フリルのついた白いブラジャーに包まれた、女性らしい乳房を。

こ、これが……私の胸……。

誰がどう見ても女性の胸だ。

それが、今朝までただの中年男性だった私についている。

その事実を認識しただけで、心臓の音がどんどん加速していく。


「なに食べてたらそんな大きくなるの?」

「いやいや、こういうのは生まれ持った遺伝子によって決められてんのよ」

「はぁ? アタシは諦めろってこと? 違うよね有栖、アタシだって胸大きくなるよね?」

「い、いや……その……」


顔がどんどん赤くなっていくのがわかる。

自分が女性になったということを理解したつもりでいた。

しかし、こうして実際に見せられるまで、私はこれっぽっちも理解できていなかった。

この柔らかくて、か弱くて、全く男性らしさのかけらもない身体が今の私なのだ。

改めて気づいた自分の状態の異常さに、私の頭はどんどん熱を帯びていく。


「ほらほら、あんたたち邪魔だって。有栖が着替えられないでしょ?」


すると、既に体操着に着替え終えた愛美が周りのクラスメイトたちを追い払っていた。


「有栖、大丈夫? あいつらデリカシーないよねー」

「あ、ああ……大丈夫、だよ……」


まだ心臓がドクンドクンと跳ねている。

目をつむって一気に体操着に着替えた。

これは、非常に危険だ。

あのまま自分の身体を見続けていたら変になってしまいそうだった。

自分が自分ではなくなっているという事実がこんなにも刺激の強いものだとは思わなかった。

なんだか途端に今後の生活が不安になってくる。

私は一体どうなってしまうのだろうか。




────────




「有栖、帰ろっ」

「ああ……いや、うん」


授業が全て終わり、放課後になった。

席を立とうとしたところで愛美が声をかけてきたため、一緒に帰ることになった。

どうやらこの二人はいつも一緒に帰っているようだ。

思えば私は父親だというのに娘の交友関係を何一つ知らなかった。

それがこうした形でも少しずつ知れるというのは素直に嬉しい。


「愛美……ちゃんは、最近、どう?」

「え、なに? 藪から棒に」

「いや、ほら、学校楽しいかな、とか、大変なこととかないかな、とか……」


愛美のことがもっと知りたいと思い聞いてみたが、変に思われただろうか。


「有栖のおかげで毎日楽しいし、大変なことなんて別にないけどー?」


愛美はご機嫌な様子で答えてきた。

その答えに親として安心する。

愛美はいい友達を持ったようだ。

まさかその友達が自分の父親と入れ替わってるとは思わないだろうが。

私は更に気になっていたことを愛美に聞いてみることにした。


「愛美ちゃん、家ではどう?」

「……んー? 家?」


急に、空気が冷えたような感覚がした。

愛美は笑顔のままだが、心なしか圧を感じる。


「いや、その……家族とはどうなのかなって……お母さんとか……お、お父さん、とか……」

「…………」


返事が来ない。

居心地の悪い間が開き、私は質問したことを後悔していた。


「……別に、相変わらずのクソ親父だよ。今朝なんかこっちのことジロジロ見てきて本当キモかった」

「そ、そう……」


愛美はそれだけ言うとまた黙ってしまった。

辛辣な言葉に私は軽く落ち込む。

ご機嫌な様子だったし少しはいい返答が聞けるんじゃないかという希望があったが、そんなものは粉々に砕け散った。

愛美は仲の良い友達の前でも私を嫌悪する姿勢を変えないようだ。


「有栖、あたしの家族の話聞くの相変わらず好きだね。そんな面白い話でもないと思うけど」

「え? そ、そう……かな……?」


黒江さんは普段から愛美に家族の話を聞いていたようだ。

そういえば私の名前も知っていたし、わざわざ私と入れ替わろうとしていたぐらいだから家族である愛美に色々聞いていたのだろう。

そういえば、どうして黒江さんは私と入れ替わろうなんて思ったのだろうか。

今までそんなことを気にする余裕もなかったから考えていなかったが、よく考えればおかしな話だ。

まだ若い女子高生がわざわざ私のような冴えない中年男性と入れ替わろうなんて思うだろうか。

一体なんのために……?


「それじゃあ有栖、また明日」


いつの間にか家の近くまで来ていた。

二人はいつもここで別れているのか。


「あ、うん。また明日……」


手を振りながら愛美が家の方へと歩いていく。

本当はその先にあるのは私の家でもあるのだが、この身体では帰れない。

なんだか少し寂しい気分になりながら、私は別の方向へ歩みを進めた。

足が覚えているのか、家に帰ろうと思うだけで勝手に足が動く。

愛美と別れた場所からそれほど遠くない場所に、黒江さんの家はあった。

私の家よりも一回り大きな家だ。

なんだか負けたような気分になる。

私はポケットの中にある鍵を取り出し、扉を開く。

そして中へ入ると、小綺麗な玄関が広がっていた。

丁寧に掃除されているのがよくわかる。

すると、近くにあるドアが開き、奥から落ち着いた雰囲気の綺麗な女性が出てきた。


「有栖、おかえりなさい」


この人が、黒江さんの母親か。

年齢は、私より下で紗江子よりは少し上だろうか。


「どうしたの? ぼーっとして。疲れちゃったのかしら」


そう言うと黒江さんの母親は私のことを抱きしめながら頭を撫でてきた。

咄嗟のことに反応できず、私はされるがままだった。


「有栖はいつも真面目に頑張っているけれど、休めるときにはしっかりと休まないと駄目よ?」


初めて会った女性にいきなり抱きしめられたというのに、何故だか身体が落ち着いていく。

なんだろう、この安心感は。

まるで母親にあやされているかのような気分……。

と、そこまで考えて気づいた。

そうか、今はこの人が私の母親なのだ。

私より歳下に見えるこの女性が、私のこの身体を産んだ母なのだ。

今の私とこの人は血の繋がった家族なのだ。

それを理解した途端、じんわりと幸福感が頭に広がっていく。


「あ、ぁ……」

「ん? どうしたの有栖? 大丈夫?」


呼ばれる名前が頭に響く。

有栖と言う名前を母親に名前を呼ばれると、私の中にその名前が深く浸透していくように感じる。

まるで私が生まれたときから有栖だったかのような錯覚に頭が揺さぶられていく。

私は、この人から産まれたのか……?

わたしは、この人の娘なの……?


「……っ!」


私は慌てて身体を離した。

……危ない。

飲まれてはいけない何かに飲まれそうになっていた。

私が私でなくなっていくようなその感覚に私は身震いした。


「有栖?」

「だ、大丈夫です……!」


キョトンとした顔でこちらを見る黒江さんの母親から目を背け、私は急いで自室へと入った。

後ろ手でドアを閉めながらなんとか呼吸を整える。


「落ち着け……私は黒江有栖じゃない……」


自分に言い聞かせるようにそう呟きながら、ふと顔を上げると部屋の中の様子が目に飛び込んできた。

白を基調に整えられ、若者らしい雑貨や小物が置かれた女の子の部屋。

そうだ、ここは黒江さんの部屋なんだ。

女子高生の部屋に無断で入ってしまった動揺が急に襲ってくる。

ついここが自室だという認識をしてしまったが、よく考えれば中年男性が勝手に入っていい部屋ではない。

慌てて部屋を出ようとしたとき、部屋の隅にあった姿見が目に入った。

そこに映り込んでいたのは、制服を着た美少女の姿だった。

この部屋の主人である、黒江有栖だ。


「あれが、私……」


この部屋にいてもまるで違和感がない。

そんな少女が今の自分なのだというのを実際に私はこの目で見てしまった。

自己認識がまた揺らぎ始める。

私は、誰なんだ?

本当に中年の男性なのか?

鏡に映っているのは若々しい少女なのに?


「……っ……はぁ、はぁっ……」


息が乱れ始める。

鏡から目が離せない。

鏡に映った少女とずっと目が合い続けている。

当たり前だ、鏡とは自分を映すものなのだから。

私が鏡を見ている以上、鏡に映った私もこちらを見てくるに決まっている。

ならば、あの少女は正真正銘、紛れもなく私の姿なのだ。


「はぁっ、はぁ……んっ……」


私が手を動かせば、鏡の中の少女も手を動かす。

私が胸に触れば、鏡の中の少女も胸に触る。

私がスカートの中を弄れば、鏡の中の少女もスカートの中を弄る。

もう目の前の少女が自分であるということになんの疑問も浮かばない。


「んんっ、あっ……」


身体の火照りが治らない。

手が自然と動き、身体を慰めていく。

胸を撫で、乳首をくすぐり、秘部を指で這う。

私が、わたしを弄ぶ。

わたしがわたし自身なのだと証明するように快楽に貪る。


「あっ、あっ……あぁッ……!?」


身体がピクッと跳ねた。

軽く絶頂に達してしまったようだ。

これが、少女の身体。

少女の快楽。

わたしの身体の、気持ちよさ。

目の前のわたしも気持ちよさそうに微睡んで……。


「……って、わたし、何してるの……!?」


ハッとなったわたしは、自分のしていたことに困惑していた。

いきなりこんな、オナニーに夢中になっちゃうなんて……。


「駄目駄目……意識をしっかり保たないと……」


わたしは本当は黒江有栖じゃないんだから。

あくまで一時的に入れ替わってこの身体になっているだけ。

そのことをちゃんと胸に刻んでおかないと、本当に自分が自分じゃなくなってしまいそうだ。


「でも……いつまでこのままなんだろう……」


入れ替わったときの黒江有栖のことを思い出す。

まるでこれからは自分が堂島剛志として生きていくんだとばかりの言い方をしていたような気がする。

まさかもう戻るつもりがないなんてことはないよね?


「わたし……これからどうなるんだろう……」


お母さんに名前を呼ばれただけで自分がわからなくなりそうだったのに、いつまでも自分を保てるんだろうか。

いつか、身も心も完全に有栖になってしまうような、そんな気がしてならない。

いや、もしかしたらわたしが自分で気づいていないだけで、もうそうなってしまっているのかも……。




────────




翌日、わたしは昨日と同じように学校に来ていた。

学校に来る前に一応あの公園に寄ってみたけれど、わたしの元の身体は現れなかった。

わたしが来るよりも早く会社に行ってしまったらしい。

向こうが何を思っているのかわからないけれど、本人から話を聞けないなら愛美ちゃんからその様子を探る以外に今のわたしにできることはない。


「愛美ちゃん、その……昨日、家でなにか変わったことなかった?」

「……変わったこと? ……まあ、あるにはあったけど」


愛美ちゃんは少し不機嫌そうな顔をしながら話し始めた。


「うちのクソ親父が、帰ってくるなりあたしとお母さんに頭下げてさ。『今まで自分は駄目な父親だった。今後は心を入れ替えるから許してほしい』とか言い始めて。わけわかんないでしょ?」


わたしは呆然としていた。

わたしの身体で、なに勝手なことを……。


「それで今までのお詫びとか言ってケーキ買ってきてさ。そんなんで今更懐柔されるわけないじゃん? 本当バカみたいだよねあのクソ親父。まあ、買ってきたケーキは結構オシャレで美味しいやつだったから、そういうセンスは意外とあるんだって、少しだけ見直したけど」


照れくさそうにそう言う愛美ちゃんを見て、わたしはどこか虚しい気持ちになっていた。

ここ数年間ずっと目も合わせてもらえなかった娘が、わずか一日でこんなことを言うようになるなんて。

わたしには到底できなかったことを簡単にやられてしまった事実が、わたしの自尊心を著しく傷つけていた。


「そのケーキ屋さんさ、最近有名になったところみたいで今は並ばないと買えないみたいなんだけど、美味しかったから今度二人で行かない?」

「う、うん……いいね……」


愛美ちゃんの言葉があまり耳に入ってこない。

わたしには変えられなかった家族との関係が、たった一夜で変わり始めた。

あの子は、わたしのいない間にいったいなにをするつもりなのだろうか。

わたしは心の中がざわざわと波立っていくのを感じていた。




────────




『なんかあのクソ親父今度は映画に行こうとか言い始めてさ。次の休みに。まあ、あたしも気になってるやつだったからいいんだけど』

『ねえ有栖聞いてよ。昨日映画行った帰りになんか焼肉に連れてかれてさ。結構高いとこ。あたしあんなとこいくの初めてだったから柄にもなくテンション上がっちゃったよ』

『旅行行くならどこがいいって聞かれたんだけど、有栖ならどうする? あたし家族旅行なんてほとんど行ったことなかったからあんまりピンと来なくて』

『うちの両親、昨日結婚記念日だったらしくてさ。あたしも初めて聞いたんだけど、そしたらあの父親、なんか高そうなバッグをお母さんにプレゼントしてて。そういうとこに気が回せるようになったんだって驚いちゃった』

『転職ってやっぱり大変なのかな。いや、なんかうちの父親が今働いてる会社相当ブラックらしくて、もっといい会社に転職を決めたみたいなんだけど、上手くいくのかちょっと不安で。まあ、父さんが決めたんなら子供のあたしがとやかく言うようなことじゃないんだけどさ』


日に日に変わっていく愛美ちゃんの父親への評価を聞くたびに、わたしは心が擦り切れるような気持ちになった。

入れ替わる前と後で、堂島剛志という人間は別人のように変化していた。

それも、周りから見ればいい方向への変化だ。

事実、愛美ちゃんは今の父親を確実に見直している。

でもそれは同時に、わたしという父親がどうしようもなく劣った人間であったことをなによりも示していて、愛美ちゃんの言葉は鋭いナイフのようにわたしの心を傷つけていた。

これ以上は耐えられない。

そう思ったわたしはあの日黒江有栖がしたのと同じように、この公園に堂島剛志を呼び出していた。


「おはよう。久しぶりだね。黒江さん」

「……どうも」


わたしの前でにこやかな笑みを浮かべているのは、元のわたし、堂島剛志の身体をした本物の有栖だ。

長らく見ないうちに顔つきが少し変わったような気がする。

なんか凛々しくなったというか、前はもっと冴えない顔だったと思うんだけど。


「それで、私に何か用かな?」


とぼけたようにそう尋ねてくる有栖に、わたしは手を強く握りしめながら静かに切り出した。


「……わたしの身体で、勝手なことをするのはやめてください。愛美ちゃんから聞いてるんですよ。家族に対してあれこれ余計なことをして、いったいどういうつもりですか?」

「どういうつもりも何も、私は自分のすべきことをしているだけだよ。家族を大切にする。父親として当たり前のことだと思うが?」

「あなたの家族じゃなくてわたしの家族でしょう! もうこんなこと終わりにして、早く元に戻りましょう」


わたしがそう言うと、有栖はくつくつと笑い始めた。


「妙なことを言わないでくれ。君の家族じゃない。私の家族だ。まだそんな気でいたとは驚きだな。もう元には戻れないと言うのに」

「……え?」


有栖の言葉に頭が真っ白になる。

もう、元には戻れない……?


「あの飴玉は一生で一回しか使えない。二回目は舐めたところでただの飴玉さ。そもそも手元にもうないのだから舐めることすらできないが」

「そんな、それじゃあ……もう一生このまま……?」

「別に構わないだろう? 君だってそれだけ身体に馴染んでいるんだ。今更戻ったって逆に困るだろう」

「え……? 馴染む……?」

「気づいていないのか? 君はもう身も心も立派な黒江有栖になっているよ。今となっては私より君の方が本物の有栖らしく振る舞えるだろう」


わたしが、有栖に染まっているなんて、そんな……。

でも、思い当たる節はいくらでもある。

いつの間にかわざわざ記憶を遡らなくても愛美ちゃんや周りの人間と話せるようになっていた。

第一、愛美ちゃんもお母さんも他の人も誰もわたしに違和感を抱いていなかった。

わたしの中に有栖らしく振る舞おうなんて意思は全然なかったのに。

無意識でわたしは有栖らしく振る舞えるようになっていたのだ。


「それに、だ。君だってその身体でいる方が幸せだろう? この身体は君には向いていなかった。そういうことなんだと思って諦めてくれ」


確かに、入れ替わる前の鬱になりそうな心境を思い出すと、今の方が何倍も幸せなのは間違いない。

愛美ちゃんと話すのは楽しかったし、お母さんに優しくされるのは嬉しかった。

元の身体では得られなかった感情がたくさん今のわたしにはある。

でも……。


「……どうして……」

「ん?」

「どうして、こんなことを……? なんで、わたしと入れ替わったりなんかしたんですか……?」


わたしはずっと疑問に思っていたことを口にした。

どうしてそこまでしてわたしの身体に固執するのか。


「なんだ、まだそこは思い出せていないのか? まあ、私の秘められた感情だったから簡単には思い出せないようになっていたのかもしれない。仕方ない、教えてあげよう」


有栖が空を見上げながら語り始める。


「私はね、好きな人がいたんだよ。でもその人は結婚していて娘もいる。そのまま交際しようなんてしたらそれは不倫になってしまうだろう? だったらその人の夫と身体を交換すればいい。私はそう考えたのさ」

「それって、まさか……」


わたしは息を呑んだ。

まさか、有栖の本当の目的は。


「そう、紗江子さ。私の妻のね」

「ち、違います! 紗江子さんは、わたしの妻です!」

「いや、私の妻だよ。女子高生の君の妻であるはずがないだろう」

「それは、身体が入れ替わってるだけで、本当はわたしの……!」

「そうだとしても、あんな冷え切った関係しか築けなかった人間に今更そんなことを言われたくないね」


そう言われると、わたしは黙るしかなかった。

わたしがどんなに言ったところで、今の状況では負け犬の遠吠えにしかならない。


「今の君はただの女子高生。紗栄子とは何の関係もない人間だ。私は紗江子の夫であり、私と紗江子の間に産まれた愛の結晶が愛美だ。私たち三人は家族で、君は無関係な存在でしかない。そのことをちゃんと認識してくれ」

「……っ!」


わたしは目の前の男を睨みつけることしかできなかった。

それを受けて有栖はニヤリと笑う。


「強情な子だ。ならばはっきりさせるしかないな。今晩うちに泊まりに来るといい。いいものを見せてあげよう」

「……え?」


有栖はそれだけ言うと公園から立ち去っていった。

いったいどういうつもりなのかわたしにはわからない。

でも、とてつもなく不吉な予感がしてならなかった。




────────




「それで、どうしたの急に? うちに泊まりたいなんて」

「たまにはね、いいんじゃないかなって思って」


わたしの突然の申し出を愛美ちゃんは快く受け入れてくれた。

久しぶりの、元我が家。

慣れ親しんでいたはずの帰路を通ってたどり着いたその家は、何故だか知らない人の家のように感じた。

愛美ちゃんが玄関の扉を開けると中から一人の女性が出迎えてくれた。


「いらっしゃい、有栖ちゃん。ゆっくりしていってね」


紗江子さん。

その顔を見た途端、熱い想いが胸の中から込み上げてくる。

数日ぶりに会った妻の姿が、ずっと恋焦がれていた想い人のように思えてならない。

これが、妻に対する堂島剛志の気持ちなのか、憧れの人に対する黒江有栖の気持ちなのか、今のわたしにはよくわからない。

家に上がったわたしは、それからしばらくの時間を愛美ちゃんと共に過ごした。

夕食の時間には愛美ちゃんと一緒に紗江子さんの作ったご飯を一緒に食べた。


「有栖ちゃんのお口に合うといいんだけど。あ、そうだお茶淹れるの忘れてたわ。ごめんなさいね」

「お母さん、あたしも!」

「あなたは自分で淹れなさい。まったくもう……」


本当は家族であったはずの三人なのに、今はどこかわたしだけ距離を感じてしまう。

当たり前か。

今は他所様の娘でしかないのだから。

寂しさに胸が痛む。

するとそのとき、玄関扉の開く音がした。

帰ってきた。

あの男が。


「ただいま」

「お帰りなさい、あなた」

「おかえり」


堂島剛志の身体になった有栖がリビングに入ってくると、紗江子さんと愛美ちゃんが二人揃ってそちらに顔を向けて迎えた。

……わたしが父親をしていたときではあり得ない態度だ。

この時点で既にわたしは強い敗北感を味わっていた。


「おや、友達かい?」


有栖が白々しい言い方をしながらこちらに目を向けてきた。

それに愛美ちゃんが反応してわたしを紹介する。


「あ、あたしの友達の有栖。有栖、あれがあたしの父さん」

「……どうも、お邪魔してます」


わたしは笑顔で挨拶をしたけれど、内心は穏やかではなかった。

この人はいかに自分が家族に受け入れられているかをわたしに見せつけるつもりなのだ。

……認めない。

わたしはあの人を、愛美ちゃんの父親とも、紗江子さんの夫とも認めない。

挨拶もそこそこに有栖はスーツから着替えるためにリビングを出て行った。

するとその直後、スマホにメールが届いた。

登録されていないメールアドレスだけど、これは前の身体で使っていたスマホのアドレスだ。


『今日の深夜、私の寝室を覗きなさい』


その一文だけが書かれたメールを見て、わたしの中の不吉な予感はさらに強く掻き立てられていた。




────────




「ん……あり……す……すぅー……」

「…………」


夜。

愛美ちゃんが寝静まったのを確認してわたしはそっと静かに布団から抜け出した。

なるべく音を立てないようにゆっくりとドアを開け、廊下に出る。

愛美ちゃんの部屋は二階にあり、両親の寝室は一階にある。

ゆっくりと、ゆっくりと階段を下り、寝室の前までやってきた。

わざわざご丁寧にドアが少しだけ開いている。

ここから中の様子を見ろということだろう。

わたしは軽く深呼吸をしてから、ゆっくりと中を覗き込んだ。

その中にあったのは。


「んっ、あっ、ああッ!」

「紗江子……紗江子……ッ……愛してるっ……!」


激しく絡み合う男女の姿。

上に被さっているのはわたしの身体で、その下で喘ぎながら淫らな表情を浮かべているのは紗江子さん。

一瞬にしてわたしの頭はフリーズした。


「わたしもっ、愛してる……んっ、ちゅっ……」

「んっ、あむっ……」


体が繋がったまま、二人は濃密なキスをした。

愛し合う者が行う濃密で熱いキスを。

それを見ているだけでわたしの目からは涙が溢れていた。


「……っ……っ……んっ……」


ボロボロと溢れる涙が止まらないというのに、わたしの目は二人に釘付けだった。

愛していたはずの人が、憧れの女性が、目の前で性行為をしている。

その事実にわたしの頭の中はぐちゃぐちゃになり、わけのわからない行動をわたしにさせた。


「……っ、あっ……んっ……」


下着の中に指を滑り込ませて、秘所を何度も弄る。

悲しいのに、苦しいのに、すごく気持ちいい。

淫らによがる紗江子さんの声に合わせて指を動かすと、わたしも快感に喘いでしまいそうになる。

なんで、どうしてこんな……。


「ふっ、ふっ……私が、この世で一番、紗江子を愛してる……」

「わたしもっ、あなたがこの世で一番、すきぃっ……」

「あっ、ああっ……紗江子さん、紗江子さん……っ……」


わたしはどうしようもなく理解してしまった。

男として、夫として、父として、人として、わたしは負けたのだと。

自分の好きな人が別の人間と愛し合う様を見ながら惨めにオナニーすることしかできないただのひ弱な女子高生。

それがわたしなんだと。


「あっ、ああっ、んッ……!!?」


ビクンッと、大きく身体が跳ねた。

今までの黒江有栖の人生の中で一番大きな絶頂だった。

その瞬間、わたしは堂島剛志の身体への執着を全て失ってしまったような気がした。

あの人だった事実を認識してはいてもあの人だったときの感覚を全然思い出せない。

わたしは、完全に黒江有栖になってしまった。


「あっ、んっ……あなたっ……」

「紗江子っ、紗江子っ……!」


今もまだ二人は行為を続けている。

わたしはそれを見ながらオナニーを続けた。

今のわたしは黒江有栖。

人妻に横恋慕して惨めに自分を慰めることしかできない惨めな存在。

それは今のわたしに相応しい在り方だった。




────────




「有栖ってさ、うちのお母さんのこと好きだよね」

「ふぇっ……!?」


ある日、唐突に愛美ちゃんに切り出された。

予想外の追及にわたしは変な声を思わず上げてしまった。

なんとか呼吸を整えながら、わたしは愛美ちゃんに聞き返した。


「ど、どうしてそう思うの?」

「ん? なんかやたらうちの家族のこと聞きたがるし、お母さんの前だと猫被り始めるし。この前うちに泊まりきたのだって、あれお母さんに会いたかったからでしょ?」


当たらずとも遠からずというところだけど、まさか愛美ちゃんに気づかれていたなんて思わなかった。


「まあ、好きっていうか……好きだった、かな」

「え? 過去形? 今は?」

「うーん、諦めた、って感じ。だいたい、紗江子さん人妻だし、わたしが好きになっていい相手じゃないでしょ?」


あれから少しずつわたしは現実を受け止めていた。

入れ替わってこの身体になって、想いはまだあるけれどそれは叶わないものだっていうのはわかっている。

前の身体で夫婦だったなんていうのも、今となっては関係のない話になってしまった。

だったらしっかりと割り切らなければいけない。


「ふーん、そっか。それじゃあ、あたしにもチャンスあるかな?」

「……え?」


愛美ちゃんはそう言いながらわたしにしがみついてきた。


「あたしさ、ずっと有栖のこと好きだったんだよね」

「ふぇっ……!?」


またもわたしは変な声を上げてしまった。

こ、これは本当に予想外。

愛美ちゃんが、わたしのことを……?


「有栖がお母さんのこと好きなら諦めるしかないかなって思ってたけど、今はそうじゃないって言うならあたしはどう? ほら、一応あの人の娘だし」


愛美ちゃんは顔を赤ながらこちらに迫ってくる。

わたしは軽くパニックになりながらも、その気持ちをとても嬉しく感じていた。

わたしだってずっと愛美ちゃんのことを大切に思っている。

それは父親だったときから今も変わらない。

でも、娘とそういう関係になるのっていいのかな?


「有栖……あたしじゃ、ダメ?」


まあ、いっか。

もうわたしは父親じゃないし。

血が繋がってないんだからどう付き合おうが関係ないよね。


「ううん、わたしも、愛美ちゃんが好き」


それを聞いた愛美ちゃんは嬉しそうに強く抱きしめてきた。

……あっちだって人の身体好き放題やってるんだから、わたしだって好きにやらせてもらおう。

自分の大事な娘を他人に取られる気持ちを、少しは味わえばいい。


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