NokiMo
メランコル
メランコル

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汚れたいだけ

夜7時過ぎ、閑静な住宅街の一軒家のインターホンのボタンを押す男の指。


「夜分遅くに申し訳ありません」


夕食の支度を終えたばかりの母さんがインターホン越しに応える。


「こんな時間にどちら様でしょう?」


「私、株式会社パラレルの高田と申します」


「ええと…パラレル…?」


「ああ、すみません。洋服ブランド・メルやアプレリカなどを全国展開させて頂いているアパレル関連総合企業とご説明するのが一番ご理解頂きやすいでしょうか?」


「ああ、アプレリカさんはたまに私も利用させて頂いてます。あのお店の…大元?元締め?本社の偉い方とか、そんな感じの…」


「ええ、はい。そういう認識で概ね問題ないと思います」


「なるほど…そのアプレリカさんの、何さんでしたっけ?こんな時間に一体どのような御用で?」


「パラレルの高田です。その、うちで、先日、まあよくあるちょっとした万引き事件がございまして」


「ええ…はい」


「非常に申し上げづらいんですけど…前述の件でおたくの息子さんと少しお話させていただければ、と。もちろん親御さんもご一緒で構いません」


「じゃあ…今出ますので、少々お待ちいただいても…」


「ええ、ゆっくりで構いません」


「雅史、ちょっといいかしら?なんか、今アパレルなんとかの方、洋服屋さんの偉い方が見えてらっしゃって、雅史に話聞きたいんだって」


「僕?」


「雅史じゃねーよ雅美って呼べって何度言ったら理解すんだよ」


「いいよお姉ちゃん。そういう話、母さんには理解できないってわかってるから」


「良くねーんだよ。あと雅美も人前だからって僕とか言うんじゃねーよ。似合ってねーからまじ。一人称僕も、そのウンコみたいなソフトマッシュも」


「ごめんお姉ちゃん」


「謝るんじゃねーよ。別に怒ってるとかじゃねーし。ただ雅美に素直でいてほしいだけ」


「ごめん」


「や、あたしが悪かったって。言い方いつもキツくてごめんな。こうゆう言い方しかできんくて。でも、嫌なんだよ。あんたがそうやって、偽物の形にすっぽり収まってお行儀よくしてんの、すんごい気分悪いの。別にあんたを責めてるんじゃないよ。その、あたしもバカだから上手く言えねーけど…とにかくやなんだよ」


「だいじょうぶ、分かってる。知らない人と話す時は『僕』のほうが楽なんだ。複雑なんだ。お姉ちゃんなりに汲んでくれてるのは理解ってるよ。いつもありがとう」


「そーゆうのキモいから!母さん待ってるし早く行け!」


「うん、行ってくる」


お姉ちゃんに背中を小突かれて、下の階に降りる。

階段を降りたら既に玄関の扉は閉じていて、玄関扉の内側に母さんと、スーツ姿の知らないおじさん。整えられた髭に白髪が混じってる。多分50代くらい。


「あ、雅史。この方があなたに聞きたい事あるんだって」


「うん。あの、僕に聴きたいことってなんですか?」


「君が、雅史くん?」


「あ、えと、あの、私が雅史って呼んどいてあれなんですけど…雅史じゃなく、雅美って呼んであげて頂いてもよろしいですか?今って、あの、ジェンダーとか、色々あるじゃないですか。うちの子も、その、所謂そういう…」


「いいよ母さん。話、余計混乱するだろうし。雅史でいいです、僕の呼び方」


「え、あ、ああ。じゃあ『キミ』でいいかな?私も少し混乱してしまってね。不慣れって訳じゃないんだ。私が長年勤めてるアパレル業界には当事者の方も多くいるからね」


本音を言えば、おじさんがもっと「無理解な人」であってくれたほうが、都合が良かった。

少し、がっかりした。


「はい、大丈夫です」


「うちで先日、というか実際には数ヶ月前になるんですけど、万引きがありまして」


「ええ」


母さんが神妙な顔で相槌を打つ。


「それが発覚したのが、つい先日の棚卸しのタイミングという訳です」


「なるほど…それとうちの雅ふ…雅美にどういった関係が?」


「万引き自体はよくあることで、正直この種の商売においては日常的にと言っても過言じゃありません。今回お伺いさせて頂いたのは、少し、確認したい事がありまして。というのも…証拠が出てきちゃったんですよね…」


「証拠…?」


ぽかんとした顔で、母。


「うちでは、商品の返品を受け付ける際に、基本的に領収証で対応してるんですけど、領収証がない場合、身分証の提示をお願いしてるんです。一応返品詐欺などへの対策として、という感じですね。増えてるんですよ。最近。

模造品を返品して、払ってもいない代金を返金させる、みたいな詐欺がね」


「あー、ネットで見ました。マイフォンとかで増えてるらしいですねぇ。そういう詐欺」


「まさにまさに。よくご存知でいらっしゃる」


「で、ざっくり申し上げますと『お買い上げ頂いた記録が無い商品の返品』を数ヶ月前に受け付けてしまっていた事が先日の棚卸しで発覚した、という次第で」


「ふむ…」


「棚卸しでは、品番から各商品毎の『売れた枚数』と『在庫の枚数』を確認します。売れた分だけ在庫は減る、単純な引き算です。この数字が一致しない場合、その商品は盗難に遭った可能生が高いという事ですな」


「なるほど」


「これ自体は全然よくある事なんですよ。あーあ、またやられてしまったね、で終わる話です。いちいち被害届を出したところで盗まれた品が戻ってくる可能生は0に近いですし、被害届の手間暇を考えたら、一定の割合で盗難に遭うのは仕方ないものとして、割り切って収支を組み立てていく方が合理的なんですよね」


「ええと…話がいまいち見えてこないんですけど…」


「ああ、すみません。つまり普通の万引き程度なら我々も一々動きません。ただ『容疑者』が判明してしまった場合には、動かないわけにはいかなくて」


ぽかんと口を半分開けたまま、母さんが僕を見る。


「いや、あの、お母さん、どうか早合点しないようお願いします。まだこの子が万引きしたという確証はありません。なので、一応念の為確認にお伺いにあがったという次第なのです」


僕はおじさんの目を覗き込む。

どこかから切り抜いてきてそのまま貼り付けたような不気味な笑顔。

この男の真意はなんだろう。

僕を犯人に仕立て上げること?

僕の無罪を証明すること?

このおじさんは、どういうスタンスで僕の家にやってきたんだろう。

それによって、僕も対応を変えなきゃいけなくなる。

いまいち、読めない。

のらりくらりと、どっちつかずのポーカーフェイス。


母親の警戒心を和らげ、より踏み込んだ探りを入れる為に「息子さんが窃盗犯だと決まった訳では無い」なんて茶を濁す詭弁並べて、確定的な証拠を引きずり出そうとしてるのか。


それとも、僕が犯人なわけじゃないと本気で思っちゃってる、高校1年生のちょっとした小細工に簡単に出し抜かれる、ただのマヌケ野郎なのか。


「君は、メルというブランドを知ってるかい?」


おじさんが僕に向かって笑顔で尋ねる。

真意が読めない不審な笑顔。苦手。


「知ってはいますけど」


正直に答える。


「訪れた事は?」


「駅前のショッピングモール内の店舗なら」


これも正直に。


「ありがとう」


意味不明。何に対してのありがとう?

こんな陳腐なやりとり、幾らだって嘘つける。

僕がもし「知りません」「行ったことありません」と答えたならそれで終わっちゃう話。

彼の質問にも、僕の返答にも、何の意味もない。


「身分証明証の件に話を戻しましょう。

うちのコピー機古くて…画質しょぼくて申し訳ないんですけど、これ、君の学生証で合ってますか?この学生証の住所を頼りに今夜こちらにお伺いした、という形なんですけども」


「はい、僕のです」


「じゃあ、やっぱり雅史が…」


「あの、お母さん、いいですか?これを証拠と断定するつもりなら、私は今ここにいません。一応私もね、これでいてそれなりに忙しい身でして、暇じゃあないんですよ。学生証が犯罪の確定証拠として有効なら警察の方に丸投げして終わりです。軽犯罪犯した少年少女達に説教垂れるのは私共の仕事の範疇ではありませんから。この子が犯人なのかどうか、断定出来ないから、私が今ここにおるわけです。あと、これも仕事の範疇を逸脱した出しゃばりの意見と自覚してはおりますが、罪が確定したわけでもないのにご自身のお子さんを、犯人扱いするような目で見る母親の姿は、正直、胸が痛みます」


「え、あ…申し訳ありません」


「私じゃなく、この子に」


「ご、ごめんね、雅史」


「雅美ちゃん、ですよね」


「いいよどっちでも」


「ごめんね、雅美…」


「君にとってはどっちでもよくても、我々にとっては非常に重要なんです。細部のディティールがね」


「僕が、窃盗犯なのかどうか、確証を得るためですか?」


「そうとも言えますし、ただ、それだけでもない、というのが今の私の率直な考えです」


”率直”なくせに”安直”ではない。

本当に厄介な大人だ。まさかここまで面倒くさい奴が出向いて来るとは想像してなかった。

想定外。

不愉快。

とっとと話を切り上げたいけど、それを許さない会話回し。

悔しいけどこのおじさんは会話の組み立て方を熟知してる。

自分の狙った方向に物事が転がるように、場を支配できる話し方っていうのを心得てる。

きっと、やろうと思えば一手で僕に王手かませるのに、敢えてそれをしてこない。

蛇のように絡みついてきて、だけど一撃で致命傷を与えない、最悪にいやらしい性格。

いやらしい笑み。

本当に不愉快。


「さっきからぐだぐだぐだぐだうるせーな!あたしこれでも成績優秀で通ってんだよ。勉強の邪魔すぎるしとっとと話片付けて帰れよおっさんさぁ!」


お姉ちゃん登場。

これは想定通り。

お姉ちゃんの性格を考えれば、僕が詰問されてる状況にずっと耳をそば立てて全部一部始終聞いてたんだろう。

我慢の限界だったんだろう。

僕の一番の理解者。同時に僕の一番の障害物。


「本当に申し訳ありません。ご迷惑おかけしてしまって。ただ、重要な事なのでね、話にオチがつくまで私も引き下がれんのです。察してやっていただけると…」


「うるせーっつってんだろおっさんさぁ。そういうまどろっこしいのいらねーから。まじで。3ヶ月前っつったらこいつが丁度学生証紛失した時期だよ。うち共働きで日中親いないからあたしが代わりに書類書いて手続き行って学生証の再発行手伝ってやった」


「なるほど」


「そうなの?私、聞いてないわよ?」


「言ったら『なんでまた学生証無くすのよ』とかグダグダこいつに説教垂れんだろ。あんたらいつも家にいねーくせに偉っそーに説教こきたがるじゃん」


「人様の前で…そんな言い方…!」


「人前でだけ温厚な母親ぶってんじゃねーよ。このおっさんにもバレてるから意味ねーよ良い人ごっこ」


「あの、お姉さんのほうはなんとお呼びすれば?」


やばげな空気察したおじさんが例の笑顔で割って入る。


「てめぇみたいな怪しいおっさんになんで名乗んなきゃいけねーんだよ」


「申し訳ありません、では、お姉さんでよろしいですか?」


「いちいちお伺い立てんな。あとあたしが一番ムカついてんのは母さんだし、あんたも話まどろっこしくてウザいけど一々謝んな。余計ウザい」


「わかりました。じゃあ巻き気味に話を進めさせていただきますね。

映像がね、残ってたんですよ。

防犯カメラの映像、4ヶ月毎の棚卸しのタイミングで一応ざっくり確認して、記録用ハードディスクをリセットするのがうちのやり方で。

3ヶ月ほど前に『件の商品を返品に訪れた少年の姿』が映像として残っていたので、その映像データを切り抜いて、タブレットの方にコピーして持参させていただきました。ご確認頂いてよろしいですか?」


おじさんが四角い黒のカバンからタブレットを取り出して起動する。

うちに来る前の段階で起動だけしてスリープモードにしてたのか、起動は一瞬だった。

手際よく画面をタッチして映像を再生する。


「雅史…」


母さんの口からこぼれる僕の名前。


「確かに似てるっちゃ似てるけど、ちげーよ。別人」


咄嗟に遮るお姉ちゃん。


「だってこの頃まだ雅美ロングだったじゃん。服装だってもっと全然女子だった。これどうみても男子じゃん。雅美じゃねーよ」


「なるほど?」


おじさんが画面の中で繰り返し再生される少年の姿と、僕の顔を何度も見比べる。そこに映ってるのは紛れもなく僕自身だった。


「こいつちょっと前に失恋したんだよ。クラスメイトの男子に惚れてる事バレて、その相手に『自分はゲイじゃないから男とは付き合えない』って拒否られて、そんで自暴自棄になって髪バッサリ切って、あたしがあげたお下がりの女物の服とかも全部捨てちゃってさ」


「お姉ちゃん…最悪。それさ…アウティング」


「わかってるよ。当事者じゃない人間が勝手に人の繊細なセクシャリティゲロってんじゃねーって言いたいんだろ?でもあたしが言わなきゃあんた黙って自分が罪被って話終わりにするつもりだったろ?一番むかつくんだよそーゆうの」


「確かに…そういったナイーブな事情を知らなければ、映像の中の『少年』が『君』であると私も安直に判断し、君も、きっとそれを、罪を、認めるつもりだったんでしょう。違いますか?」


本当に、不愉快。でも必要な儀式だ。耐えるしか無い。


「…何が言いたいんですか?おじさんの目的、一体何なんですか?」


「ふむ」


「犯人探しがしたいなら、最初からこの動画僕らに見せて、もちろんお姉ちゃんが割って入ってモメただろうけど、僕が罪認めたらそれで済む話じゃないですか。確定的な証拠だってあるんだから」


「でも、この映像の、これは、君じゃないんですよね?」


「僕だよ」


「ざけんな。お前じゃねーだろ。あんたこの頃まだ髪長かったし、バッサリやった時だってここまで短くはなかった。あとお前が『僕』っていうのマジ違和感しかねーから。あたしの前で僕とか言うな」


混沌。

エントロピーは増大し続ける。宇宙の法則。


「お姉ちゃんさ、理解ったつもりになんないでよ」


「あ?あたし?なんだよ急に」


「さっきも言ったじゃん。人前では『僕』の方が楽なの。演じてるとか偽ってるとかじゃなくて。分かんない。演じてるだけかもしんないし偽ってるだけかも。でもそうだったとしても、そっちのほうが楽なんだよ。お姉ちゃん以外の人の前では」


「わかる…けどさ、あたしの前ではいつもおまえ一人称『わたし』じゃん。あたしは、あたしと話してる時のお前しか知らねーから、、違和感はんぱねーんだよ」


「それはお姉ちゃんの側の事情じゃん」


「あの…」


割って入るおじさん。


「あなたたち…」


割って入る母さん。


「うるせーてめぇら黙ってろ」


二人を問答無用で黙らせる、姉。


エントロピーの増大。

つい、笑いそうになってしまうのを必死に我慢する。

演出、大事。


「どうせまたクラスメイトに虐められて、盗品返却して金作ってこいとか脅されたんだろ?正直に言えよ。お前にそれ強要したやつ、あたしがきっちりシバきに行くから」


「じゃあ僕を殴りなよ。全部自作自演だから」


「あ?」


お姉ちゃんの呆気に取られた顔、カメラで撮って永久保存しときたいくらいウケる。

人生で初めて、無駄に頭だけいい「優しい姉」を出し抜く事に成功した瞬間。


何年もかけて積み上げてきた欺瞞が、秒で瓦解するカタルシス。


「コスプレ好きの友達からウィッグ借りた。服も。返品要求する時学生証求められるの知ってたから男の格好で店に行った。返品した商品は僕が自分で盗んだ。メイクして、女子の格好でさ。知ってると思うけど、メル、女子向けのブランドだから。髪、ロングだったの頃の僕なら試着室にも普通に入れたし、盗難防止ブザー外すやつも普通にネットで買える。服何枚か持って試着室入ってブザー外して一着だけ自分の服の下に着込んで、残りの服のポケットにブザー入れて陳列棚に戻して、そのまま店を出れば簡単に盗める。おじさん、本社の偉い人ならもっと盗難対策ちゃんとしたほうがいいよ。あんなの何の対策にもなんない」


「雅美…お前、何言って…」


狼狽えてるお姉ちゃんが面白すぎてマジ動画撮りたい。母さんは呆気に取られすぎて無言。どうでもいい。この母親と父親に理解なんて求めてない。何も求めてない。どうでもいい。ただの制度上の保護者ってだけの存在。生きる為に必要な環境とご飯とお金だけ提供してくれたらそれ以外何もいらない。


「ははっ、実に君の言うとおりだね。もっとちゃんと盗難対策しなきゃなぁ。君が教えてくれた情報持ち帰って、次の会議の議題として提出させてもらうよ。ありがとう」


「お金払えばいいんですか?警察にでも突き出します?」


「いやいや、大人の世界の汚い話ですけどね、服の1枚や2枚盗まれようがその分の代金が戻ってこようが『私のような身分の人間』にとっちゃ鼻くそみたいなもんなんです。正直言ってどうでもいいんですよ。薄給で必死に業績叩き出してくれてる現場の人間にとっちゃ『商品管理能力』も自身の査定と給料に響きますから、棚卸しなんていう不毛な労働で躍起になって帳尻合わせするわけですけど」


「ずっと思ってたけどさ、おじさん、性格悪いよね」


「バレてましたか。君、賢い子だなぁ」


「子供扱いやめてもらっていいです?普通に不愉快なんで」


「不快にさせてしまい申し訳ありません。若者との接し方には不慣れなもので…」


「じゃあ一体おじさん何のためにわざわざ来たんだよ。僕を警察に突き出すためでも、盗んだ商品返品してくすねた金取り戻す為でもないなら、一体何しに来たの?」


「それが知りたくて来たんですよ」


「ごめん何言ってるか分かんない」


「見たことがあるんです。この顔を」


「僕を?」


「あ、いえ、すみません。極めて、著しく、思い詰めた人間の顔を、です」


本当に、まじ、不愉快。


「それは、本当に悲しい覚悟です」


一瞬、キレそうになる、自分を、必死で抑え込む。


「あのさ、もういい。やっぱいい。警察に突き出すとか金せびるとかじゃないなら、もう帰ってもらっていい?ほんと不愉快だから」


部屋に戻ろうとする僕の腕をお姉ちゃんが掴む。

姉とはいえ、所詮女の腕力。僕が本気で振りほどこうと思えば簡単に振り解ける、けど。


「待てよ雅美!ここで終わっていい話じゃねえだろ!あたしはなんで雅美がこんな事したのか知りたいよ。でも、今、この瞬間逃したら、あんた絶対もうあたしにも誰にも心開いてくんないだろ?わかるよそんくらい、あたしにだって」


お姉ちゃんの肩越しに、おじさんと目が合う。

本当に、厄介。

なんなんだよこのおじさん。

全部めちゃくちゃだ。

計画台無し。想定外の展開。


「君は、お金欲しさにこんな手の込んだ窃盗と返品をしたわけじゃない」


「お金の為だよ。それ以外に何があるって言うのバカバカしい」


「嘘をつくなら最初から貫くべきでした。

君は私の問いかけに対し常に正直だった。

だから、もう、誤魔化せません。

今の君の言葉は、嘘です」


「おじさんに何が理解るんだよ。色々『汲める系』ならさ、もう放っといて欲しいって僕の気持ちも汲んでよ」


「それを選んで訪れた結末を、踏み込むべき場面で怯み躊躇した自分を、不甲斐なさを、私は今この瞬間もずっと悔いています。失われた命は戻りません。だから、今、私はここにいます」


「なんなんだよ…おじさん。全然意味…わかんない」


お姉ちゃんは、こういう時に限って助けてくれない。

だから嫌なんだ。

薄っぺらい綺麗事感覚で、支えるとか助けるとか守るとか。

何一つ本当には理解できないくせに、僕を理解したがる。そんなの全部無駄なのに。わかりきってるのに。お姉ちゃんだって分かってるはずなのに。全部無駄なことくらい。


「私が若い頃、まだLGBTという言葉は世間に広まっていませんでした。ネットもない時代でしたから。トランス女性はオカマと嘲られ、テレビの中でも笑いもの扱いで、心の性への尊重や理解など全くない時代でした」


「あの、長い話になりそうなら…お茶でも入れてきましょうか?」


「母さんも黙って聞け!そうやって毎回のらりくらり逃げんじゃねーよ。このおっさん、最悪にウザいけど…でもこのおっさん、本当の事言ってる。そのくらい分かれよ。察しろよ。あたしも雅美もあんた達に『親』なんて求めてねーから、でも別に恨んだりもしてねーから、せめて最低限『人』でさえいてくれりゃいいんだよ。現実と向き合う事から逃げんな」


「お姉さん、あなたは本当に聡明な女性だ。きっと雅美さんにとって最も頼れる存在なのでしょう。しかしあなたの正しさが、雅美さんを追い詰めてしまう場面というのも、あるのかもしれません」


「続けろ。ちゃんと聞くから」


「ありがとう」


「僕の問題、僕の話だったはずでしょ?なんで勝手に話進めてんだよ…もうやめてよ本当に…」


「お前が始めた『話』だ。雅美。姉ちゃんが何言ってるか、理解るよな?」


ほら、これ。

いつものやつ。

理解るよな?攻撃。

理解らないバカでいられたなら、きっともっと色々全部楽だった。


「まさに、それです、お姉さん。今の。一番慕ってる、信頼してる人間からそんな風に言われたら、この子は反論も抵抗も出来ません。心は行き場を失い追い詰められるだけです。あなたがどれほど正しくても」


お姉ちゃんがおじさんを睨みつける。

ピクリとも笑顔を崩さないおじさん。

数秒の沈黙。


「くっそ……認めたくないけど、おっさんの言うとおりだ…と、あたしも思う。謝るよ。ごめん。雅美。姉ちゃんが無自覚にやらかしてた…かもしんない。ずっと。ごめんな」


「謝んないでよ…」


余計に苦しくなるから。


「私が、お姉さんが、ご家族が、ご友人達が、どのように取り計らったところで、結局はあなたの心を追い詰めてしまうのかもしれない。私に、チャンスを頂けませんか?」


「何のだよ…」


「友人の抱える苦悩を察しておりながら、寄り添う勇気を示せずに、大切な、特別な友人を失った、臆病で無力で愚かな男が、あの時、もし別の選択をする事が出来ていたなら、別の、いや、分かりません、私がどのような選択をしたところで、結局…わかりません」


「もういいよ…わかった。おじさんの事情も、言わんとする事も、なんとなく理解ったから。白状する」


手放す頃合いなのだと察した。

僕がしがみついていたかった、自分自身の惰弱さを。


「汚れたかっただけ」


おじさんも、お姉ちゃんも、僕の言葉を肯定も否定もせず、続く言葉を待ってる。母さんだけは僕と目を合わそうとしない。僕が髪や爪を伸ばすようになってからの父さんと同じように。


「お姉ちゃんに嫌われたかった」


「どうし…」


いつもみたいに威圧的なトーンで『会話の主導権』を握ろうとするお姉ちゃんを、おじさんが手でそっと制止する。


「ごめん…続けて」


「もう全部やだったんだよ…耐えらんなかった。両親に理解されない哀れなトランスジェンダーでいるのも、優しい姉に守られるだけの軟弱な存在でいつづけるのも、なんかもう全部しんどくて」


「うん」


「お姉ちゃんには話したけど、好きだった男子に気持ち見抜かれて、二人きりで、告白するしかない雰囲気になって、伝えた。自分はゲイじゃないから付き合えないって。断られた。でも悪いやつじゃないんだよ。本当に、真剣にごめんって。自分は同性愛者じゃないから、おまえのこと本気で大切な友達だと思ってるけど、恋愛的な意味では付き合えないって。半端な態度で曖昧に濁して、自分なりに友達として示す友情がお前を傷つけ続けてるんだって考えたら耐えられなくて、俺がちゃんと振れば、おまえが前に進めるんじゃないかって、俺をスッパリ諦めて、おまえをありのまま愛してくれる誰かを見つけられるんじゃないかって思ったからってさ。優しいやつなの。だから好きになったの」


「うん」


「でも、彼にとっては、やっぱ僕は『男』判定で、髪伸ばしても、メイク覚えても、爪伸ばしても、お姉ちゃんの服借りて休日だけ女子っぽく過ごせても、学校ではメイクもネイルも出来ないから、しょうがないじゃん。彼の中で、僕が男に映っちゃうのはしょうがないんだよ。誰も悪くない。彼が悪いわけじゃない。でも、僕だって、ゲイじゃない。違うんだよ。『女として彼が好き』なんだよ。だけど、彼にとって僕は男で、僕の肉体は男だし、ホルモン治療も反対されて」


「だって、まだ…子供だし…そういうのはもっと大きくなってから…ほら、だって思春期って色々悩む時期だし…」


「お母さん、聞いてあげてください」


このおじさんの表情、なぜ読めないのか、今更ようやく分かってしまって、うっかり泣きそうになる。けど、我慢する。


「男して生まれたくなんてなかったよ。女の体に生まれることが出来たなら、あいつだって僕を女として認識してくれて、そしたら、わかんない、普通に振られるかも。でもそれでも女として振られるなら全然耐えられた。あいついいやつだもん。好きになった自分を後悔しないって思える。振られたって、女としてなら、耐えられる。でも…」


「我慢、しないでください」


おじさんの一言で、決壊するみたいに、ぼくの眼から涙が溢れる。だめ。止めらんない。


「つらかったんだよ。ずっと」


「うん」


「女になりたいのになれなくて、男だからっていう理由で交際却下されて、いっそそれなら、もう、全員が『わたし』を否定してくれたら、全部諦められるのに、人生放り投げて、家出て、新宿で身体でも売って、お金貯めて、法律とか無視して、海外で手術して、ちゃんと、全部壊れることができるのにって」


「うん」


「でも、お姉ちゃんだけが理解ろうとしてくれちゃうから、『わたし』をいつだって1ミリもブレる事無く女子として扱ってくれちゃうから、お姉ちゃんの前でだけ、わたしでいて許されちゃうから、自暴自棄になるのも出来なくて、もう全部捨てたいのに、お姉ちゃんのせいで捨てれないんだよ。だから、嫌われたかった」


「うん」


「犯罪とかして、信頼裏切って、お姉ちゃんにちゃんと嫌われる事が出来たら、ちゃんと汚れる事ができたら、ちゃんと壊れる事できるのにって、人生ちゃんと諦められるのにって」


「うん」


「ほんとは、こんなおじさんじゃなくて…ごめん、こんなおじさんとか言っちゃって…そうじゃなくて…そういう意味じゃなくて、もっと普通の、ただの大人、駄目な意味で普通の大人が来ると思ってて、僕を警察に突き出すとか、そういう」


「そう…ですよね」


「そしたらちゃんとぼくは犯罪者になって、お姉ちゃんはきっとそれでもいつもみたいに僕の味方しようとして、だから『僕はあんたが信じてるような善良な弟でも妹でもねぇよバーカwこっちが本性だよw徹頭徹尾パーフェクトに騙されてくれてありがとうバカ姉貴w』って全力で笑ってやるつもりだった。そこまで徹底的にやり通せたら、、、お姉ちゃんに本気で嫌ってもらえるかなって」


「うん」


「もうそれしか無いって、、、思ったんだよ」


「…ごめんな」


「謝んないでよ。自分が悪いわけじゃないのに謝んじゃねーよってお姉ちゃんいつも言ってんじゃん。お姉ちゃん何も悪くないんだよ」


「ごめん、違うの。聞いて」


お姉ちゃんの目にも、涙。


「あたし、ずっと隠してた事ある。あんたにも、誰にも。本当の事なんて自分の中にだけあればいいって勝手に思ってた。あたし、初恋の相手、女子だった。今好きな子もそう。でも、あたしの場合、あんたと違って、自分の身体が嫌とかそうゆうのなくて、性別違和とか無くて、でも、好きになる子いつもいつも同性ばっかで、好きな相手にさ、気持ち伝えることすら出来ないやるせなさ、あたしは分かるから、理解ったつもりになって、あんたの苦しみ、理解してやれてるつもりになってて、、、」


今まで、一度も考えた事すらなかった。

自分自身が「当事者」なのに、自分の身内に別の形の「当事者」がいるなんて、想像もしてなかった。

自分の苦しさと向き合うだけで精一杯で、お姉ちゃんが何を抱えて、何に苦しんで、今まで何も、知らなかった。知ろうとすらしなかった。


自分の事を理解ってほしいと願うばかりで、理解ろうとする努力全然してこなった自分に今更気付いて恥ずかしくなる。


「お姉ちゃん…ごめん」


「なんであんたが謝るんだよ。あたしが勝手に隠してただけであんた何も悪くない。むしろあたしが『これはあたし個人の問題だから』とか伏せないで、あんたにちゃんと自分の心情話せてたら、もっと違う形で、もっとちゃんと、対等の目線で、あんたの苦しみにも向き合えたのかなって。偉そうにいっつも姉貴面して、でもあんたみたいに自分の本当の気持ち曝け出す度胸がなかっただけなんだよ。このおっさんにさっき言われた事、ほんと図星すぎて耳塞ぎたかった。強い自分維持するために、あんたの繊細さとか鬱屈を都合よく利用して、優しい頼れるお姉ちゃんごっこして自分を慰めてただけなんだって今日ようやく気づいた。ほんと、ずっと、ごめん…」


「雅美さん、そしてお姉さん、正直な心を打ち明けてくれてありがとう。

私の友人は…雅美さんと同じトランス女性でした。しかし私の時代には『男は男らしく、女は女らしく』という風潮が非常に強くて、トランスジェンダーを公言する事を社会が全く容認していませんでしたから…彼女は、自分の本当の姿をずっと隠したまま、徹底的に男を演じて、そうして社会を生き抜いていました。敢えて付け加えるなら私自身も同性愛者です。なので、同僚として察する部分はありました。しかし私も彼女も互いの真実を語り合うだけの勇気を持ち合わせていませんでした。私も当然相応に苦しみましたが、私にとって『男として生きる事』自体は苦痛ではありませんでした。しかし、彼女にとってはきっと…生きている事それ自体が地獄だったのでしょう。せめて、語り合う事が出来ていたなら、支え合う事が出来ていたなら…それが出来たとて同じ結末だったかもしれません。彼女の自死を止めることは出来なかったかもしれません。ただ、私はずっと、自分を許せないままでした。今も。ずっと。だから私は、今日、ここに」


おじさんは涙を流さない。

ずっと、最初にこの家を訪れた時から全く揺らぐこと無く笑った顔のまま。

だけど、最初から徹頭徹尾変わらない笑顔の奥に彼だけの痛みがずっと揺蕩ってた事を感じて、きっと、僕なんかが何かを言っていいわけなくて、でも。


だけど。


それでも。


「おじさんのこと、何も知らないのに、キモいとか言っちゃって、ごめんなさい」


冷静に思い返せば、心の中でキモいおっさんとか思っちゃってただけで一度も言葉にはしてなかった気がする。

すごく重要な場面で、墓穴掘った気がする、、、

いつもいつも毎回自分で墓穴掘って、自分で仕掛けたトラップに引っかかって、マヌケすぎて恥ずかしすぎて本当にもういっそ消えてしまいたくなる。

…けど、でも。


「ありがとう」


少しだけ、ほんの少しだけ、ずっと、貼り付けたみたいに変化のなかったおじさんの笑顔が、少しだけ、ほんのわずかに。


「私の人生は、ずっと恥を忍ぶ人生でした。

私自身も当事者として、アパレルという業界で、少しでもLGBTQ当事者の方々にとって働きやすい環境を作り上げる事に心血を注いできましたが、まだまだそれが然るべき水準に達したとは言えません。お恥ずかしい限りです。

私達の世代の至らなさによって、払拭しきれなかった呪いを、あなた方の世代の生きづらさとして強いてしまっている現実を心から悔しく、申し訳なく思います。

監視カメラの映像を、君の伏せられた慟哭を目の当たりにした時、誰にも本音を打ち明けられなかった、最期、遺書にのみ記された彼女の本当の慟哭が、私の魂を鮮烈に穿ちました。

傲慢だと自覚しています。無節操だとも自覚しています。

ただ、お話をしたかったんです。君たちと、本音で」


世界は、残酷だ。


わたし達に「生きたい姿で生きる事」を許してはくれない。


時々全部、投げ出したくなる。


全部捨てて逃げ出したくなる。


耐えられない気持ちになる。


耐えられなかった人達の気持ち、自らの命を絶ってしまった人達の気持ち、理解るなんて軽率に言えない。だけど。


このおじさんが、なぜ自らの誠実を指して「傲慢」と呼ぶのか、わたしにはなんとなく、わかるようで、わからない。けど。でも。


わかりたい、と思う。

だけど「理解る」とは言っちゃいけない、とも思う。

それはきっと彼の、彼だけの尊厳を、心の所在を、踏み荒らすことのように思うから。


理解ってほしいと思う気持ち。

理解られたくないと拒む気持ち。

自らを傲慢と分別する姿勢。

尊重し合う姿勢。


父は、わたしが髪と爪を伸ばし始め、姉に教えてもらいながらメイクをするようになった頃から全く口をきいてくれなくなった。

露骨にわたしを避けるようになった。

わたしがリビングに行けば父はそっとリビングから離れる。

わたしたちと入浴時間が重ならないように、必ず夕方か深夜に風呂に入る。

父にとってわたしは、存在してはいけない種類の生き物なのだとなんとなく察した。

同じ家に住みながら、生活圏を完全に分割することでお互いの摩擦を避けた。

わたしもそれに暗黙の同意を示した。

父とは最後いつまともに話したか覚えてない。


母は父ほど露骨じゃなかった。

テレビとかでLGBTQ関連の特番がやってても「全然こういう人達がいたっていい」と口では言う。

でも「あなた達に限っては違うわよね」という圧。

わたしが髪や爪を伸ばし始めても「トランスジェンダー的な意味ではない」と母は思いたかったんだと思う。

うまく言えないけど、母の言動や態度の節々から、なんとなくそう感じられた。


『マイノリティが近所に住んでたって全然気にしない。でも自分の子供がそうだったら困るし嫌だ』


そんな雰囲気を母の言動や行動や態度から常々感じてた。


髪を伸ばしたり爪を伸ばすことは許してくれても、ジェンダークリニックに通うことは許してくれなかった。

「まだ、もう少し、大人になってから」と。


こうしてる間にも、わたしの骨格は日々「男」としてどんどん成長していってしまう。


ネット上のトランス界隈の知人達…親の理解や支えを得てホルモン治療を行ってる子達、性別適合手術を終えた人達の話を聞く度に、少しずつ、だけど産毛とは呼べないくらいに生えるようになってしまった髭をピンセットで一本ずつ抜いてる自分が惨めで、だけどどこにも逃げ場がなくて、死んで消えたくなる。


お姉ちゃんに貰った服、化粧品、全部捨てて、伸ばしてた髪バッサリ切ったのも、好きだった男子に振られた事だけが理由じゃない。

男になりたくなんてないのに、無事声変わりを果たしてしまって、髭をピンセットで抜く度に、声を発する度に、自分の肉体がもう中性ですらいられない、男の身体になっていっしまう事を感じて、それなのに「少しでも女性らしくありたい」と思ってしまう自分に耐えられなくて、もう全部諦めて捨てるしか無いって思った。


可愛い服が、お姉ちゃんの匂いのする化粧品が、視界に入るのが嫌だった。

それを着たいと思ってしまう自分を捨てたかった。それに彩られたいと思ってしまう自分を捨てたかった。

じゃないと、どんどん男になっていってしまう自分の肉体に耐えられないと思った。

だから捨てた。

でも結局何も割り切れないまま、中途半端なまま、ぐちゃぐちゃのまま、状況だけ、どんどん悪くなってく。


父は聞こうともしてくれなかったから母に必死に訴えた。無駄だった。響かなかった。何も。響かない実感だけが不愉快なほど克明にあって、だから、余計死にたくなっただけだった。


わたしは、本音を隠してるわけじゃない。

訴えたけど、却下されただけ。


姉がいたから、いつだって姉が多くの事に理解を示してくれたから、臆せず自分の本当の気持ちを訴える事が出来た。


けど、毎回それは周囲に却下されて、死にたくなった。


姉がいなければ、わたしはこんな環境を捨ててどこにだって逃げ出せるのに、身体を売る覚悟も汚れる覚悟も地獄に落ちる覚悟もあるのに、姉がそれを許してくれない。


全部壊すしか無いって思った。

全部壊して逃げ出すか、自分が壊れるか死ぬか。


「話してくれてありがとう」


どんだけ切実に訴えても響かなかった言葉、感情、苦悩、やるせなさ、死にたさ、今日会ったばかりのおじさんに、全部、見透かされてた。


「ううん、来てくれてありがとう」


ほとんど無意識に、おじさんに抱きついてた。

姉のおかげ。姉が甘え方をわたしに教えてくれたから、こういう時、こういう場面で「臆すること」より「心に従うこと」を自然と選べるんだと思う。


この人を抱きしめたいと思ったから、そうした。


おじさんの手がわたしの頭をそっと撫でる。


姉の、女性の手とは違う、ごつごつした大人の男性の手。


わたしはずっと、呪われた心地で生きてた。

自分は不運だったと感じてた。


無理解な両親、閉ざされた可能生、全てから逃げたくても、逃げることを許してくれない優しすぎる姉。


望む性で生まれることが出来た幸運な人達、自分より恵まれた境遇や条件のトランスジェンダーの子達を心の底から妬んで、親の理解や支援を得られないなら、せめて全ての鎖を引きちぎって新宿とかそういうところで身体とか売ってお金沢山稼いで「彩る事を許された彼女たちの側」に行きたかった。


汚れて、壊れて、どうしようもないくらい、惨めとも感じなくなるくらい、とことん徹底的に汚れる事ができたら、ちゃんと壊れて汚い人間になれたら、自分がどれだけ不運だったにせよ「どうせ自分は汚い人間だから」と割り切れる気がした。


だから姉に嫌われたかった。

姉という最後の命綱を失えばどこまでも自由落下できる気がした。


姉に「逃げるな」と咎められて渋々この場所に留まってる母だけ「今この場で何が起きてるのか」を相変わらず全然理解出来てない様子だった。


「理解なんて求めてない。でも別に恨んでもない」


言い放った姉の言葉。

7割同意。

3割やっぱ恨んでる。それが本音。


姉は強い人だと思う。

わたしが一番憧れてる人。

わたしが一番尊敬してる人。

わたしが一番遠く離れたかった人。


わたしにしがみつかれ、わたしの頭を撫でる、悲しそうに笑うおじさんの事は、人類の中で2番めに尊敬してあげてもいいかなと思う。

一番はやっぱり揺るがない。


「いつか、僕が、人前でも『わたし』って言えるようになって、学校卒業して、そしたら、あなたの会社で、できたら、メルで、働いてみたい…って思っても、いい?盗んだ分のお金も、その時ちゃんと返すから」


「なるべくあなたという人間を在りのまま、受け入れられる環境を、支えられる環境を築いていけるよう最大限励みたいと思います」


「おじさんさ、良い人すぎるよ」


涙を流さないこのおじさんの涙はどこに消えてしまうんだろう。

笑ったまま、優しいまま、死んでしまった人形を連想する。


涙の墓場。


わたしはきっと、未成年という期間を通り過ぎ、全ての物事の決定を自分自身に許される日まで、ホルモン治療も性別適合手術も受けられないまま、どんどん男性らしく成長していく自分の肉体と向き合っていくしかないんだろう。


この人が切実に示してくれた真心でさえ動かない冷淡な現実が母の横顔に映り込んでいて、だから、何も、期待しない。


それでも。


目標が出来た。


学校を卒業して、このおじさんの勤める洋服会社で働いて、お金貯めて、ホルモン治療も手術も、きっと「手遅れ」なのはわたしだけじゃない。


わたしはわたしの宿命のようなものを死ぬまで呪い続ける気がする。

望んだ性で生まれることが出来なかった、少しでも男としての成長に抗いたい、けど、それも許されない。

両親はいつだって優しい人間を演じるけど、わたしに、姉に、何も許してくれない。

姉はそんな両親からわたしを守る為に強くなった。

誰もよりも強くなった。


お姉ちゃんも、一人で泣く日とかあったのかな。

きっとあったんだろうな。

ずっと一方的に甘え続けるだけだった自分を不甲斐なく思う。


人と人は、きっとどこまでいっても完全に解り合えるなんて事無くて、きっと、だけど、それでも。


理解りたいって思い合えたら、それだけで、きっと。


そんな傲慢を、きっと愛って呼ぶんだろう。


わたしはきっと色々な事を許せないまま、耐えられないまま、自分だけのやるせなさを引きずりながら今日を生きていく。


お姉ちゃんも。おじさんも。それぞれの荷物抱えながら、多分、きっと、生きていく。


この世界を素晴らしいなんて思わない。

産んでくれてありがとうとも思わない。


生まれてこないで済んだならきっとそっちのほうが良かったとか思いながら、明日を生きていく。


全然綺麗でも素晴らしくもない世界だから、見つけた宝物を大切にしたいって思う。


ずっと汚れたかったわたしにわずかに残された、残酷に噛みちぎられた白い紙の切れ端を、そこにわたしが描いた絵を、いつかそれを必要とする誰かに手渡せたらと思う。


汚れたかっただけ。


死にたいまま生きるわたしの記録。


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