NokiMo
メランコル
メランコル

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一と七の境界 1

間延びした退屈達を延々と敷き焚べた煉瓦坂みたいな毎日に埋没。埋没したら息出来ないから酸素と呼ぶに相応しい特別を探す。探して見つからなければ捏造。なんだっていい。それっぽければそれでいい。大差ない。誰に鑑定され幾らと勘定される為の思い出じゃない。私の物語だ。


順序立てるべきか、エモさ重視で入れ替えるべきか、今更すぎる勘案、どっちでもいい、誰も気にしない。誰に読まれる為の物語でもない。


水の降る日が多かった。生身の彼女と生で会う日は。雨女の称号を彼女に授けるべきか、私が授与するべきか、二人で均等に分かつべきか、既に道分かたれた今それを論じてもしょうがない。既にいない。過去のこと。遠いような近いような、いうほど近くない、遠いと程遠いの間くらい。


向こう側が透けて見えそうなくらい透明すぎる肌が羨ましかった。率直に伝えた。ナチュラルメイクが得意なだけだよと笑って言ってた。


「それよりまつ毛半分よこせ」


彼女は褒められた分だけきっちり必ず褒め返す律儀な子だった。


わたしが、まつ毛の長さ褒められるのを喜ぶタイプだとなぜか知ってた。


「最近のデパコスのマスカラ侮れない」


「どうみても地毛じゃん」


「マスカラやて。地毛ぽくみせるコツがあるねんて」


不毛な謙遜と不毛な正解と汚職政治家みたいな答弁。


彼女は本当っぽく嫉妬する。本当じゃないって理解ってる。本当っぽく嫉妬しなきゃ、わたしのまつ毛が褒めるに値しないってバレちゃうから、彼女は嘘を丁寧に執拗に重ねたがる。バレてるのに。


「いつから?」


「なにが?」


彼女はいつも主語を省く。多分海外ドラマの観すぎ。


「あたしの彼くんが新宿で見たって」


「誰を?」


「とぼけんなって」


「あんたの彼くん新宿とかで遊ぶ人?」


「仕事」


「わたしとほぼ同業ってこと」


「はい言質取ったりー」


「てかホストとかいい加減卒業しなよ。あいつらに愛なんて概念搭載されてないってあんたもとっくに知ってるしょ」


「愛がないって理解ってるからいいんじゃん。愛に擬態した欲望をさあ、欲望じゃない体で擦り付けられて、愛として受け取るごっこ遊びのほうがよっぽどクソじゃん」


「分からんくないけど」


「どこまで売ってんの?」


「全部」


「だよなー。お前、やるとなったらとことんみたいなとこ変わらんよな昔から」


「どうせ同じ時間不快な思いするなら給料いいほうが得じゃん」


「差額分の対価ちゃんと持ってかれるって気付いてるよね?」


「全部持ってかれる覚悟なきゃ飛び込まないよ、あんな世界」


「そういう覚悟あたし嫌い」


透明過ぎる彼女の肌、嘘をつけない肌、率直、嫌い、嫌われた。わけじゃない。理解ってる。彼女が嫌うのは、わたしの愚直な気質。彼女は、わたしの一部を嫌いになったって、それを理由にわたしという多面体を全部まるごと嫌いになったりしない。そういう子だって理解ったから心を許した。友だちになった。


「嫌い幾つ分で絶交?」


理解りきったこと、あえて聴いてみたくなる。性格悪い。自覚ある。


「んん」


透明過ぎる横顔が珍しく真面目に考え込む。こういう場面で即答しないところが好き。安直じゃない。大概の人が脊髄反射で「そんなことで嫌いにならないよ」とか言う場面。彼女はいちいちバカ正直に自分の回答をほじくり出そうとする。だから虐めたくなる。真剣な顔が似合わなすぎるから、透明を汚したくなる。


「どうなんだろ。幾つかな?」


「わたしに聞かれても」


「よな」


ここで打ち切ってもいい場面。脳が自動的にジャッジする。けど。


「友達を嫌いになるってどういう感覚なんだろ」


彼女の意向に従う。彼女のことが好きだから。脳のジャッジは却下されました。


「友達、嫌いになったりしたことないの?」


「なくはない、と思う」


待ち合わせたのは町田だけど、町田は人多すぎてしんどかったから、二駅移動して相模原。駅の拓けてない側の遊歩道にある謎の木陰のベンチ。


なくはないと思う。不思議な言葉だ。人を嫌いになった記憶がきっと透明な彼女の中にあるのに、断定できない、綺麗な人間を演じてるわけじゃない、演じないから透明なんだ、彼女は。わたしと違う。だから憧れる。彼女のそういうところに憧れる。透明すぎて眩しい。


「思い出せない?」


「頑張れば」


「頑張んなくていーよ」


「頑張りたい」


「頑張るトコ間違えすぎで草」


「いや、ここは頑張りたいとこなんよ、あたし的に」


何かが彼女の中で引っかかるんだろう。彼女の地雷、うっかり踏んじゃったんだろう。わたしが。意地悪した罰だ。付き合おう。


「今お前にさあ、聞かれるまで考えた事もなかったんだよ。友達を嫌いになった事あったっけって。友達じゃない人なら当然嫌いになったことあるっていうか嫌いだから友達にならんわけで、だからそれは除外じゃん。で、友達でしょ?嫌いになる場面、嫌いになったこと、なくはないと思う」


「思い出せないくらいレアな時点であんたやっぱ透明だよ」


「その透明っていうの好きじゃない」


「褒めてんだよ」


「足の臭さが好きって褒められて嬉しい?」


「逆に嬉しいかも」


「あ、分かる気がする。あたしが間違えた」


「うけるw」


わたしは幾らだって思い出せる。友達だと思ってた人を、嫌いになった場面。この子は、この子にも、きっとある、この子はそういう嘘をつかない、だからきっとある、だけど思い出せない、それもきっと嘘じゃない、嘘じゃないって分かる、だからこの子は信用できる、好き。


「でもお前のこと嫌いになる為に必要な値は多分相当高めだから安心していいよ」


「ごめんちょっと何言ってるかよくわからん。もっかいIQ3のわたしに理解るように言ってもろて」


「お前急に唐突にIQ下がるよな」


「仕様です」


「知ってるが」


「じゃあIQ3向けにおなしゃす」


「まじめんどいなお前w」


「まじめんこいなに聞こえて一瞬惚れそうになった」


「惚れていいよ」


こういうところ、嫌い。彼氏いるくせに。ホストの。顔も知らんやつ。紹介されてない。半年くらい前に直接生で紹介された彼氏から、今の新宿ホストくんまでに何人いたんだろう。わたしと知り合ってから今日までに、何人の男がこの子を抱いたんだろう。考えたら吐きそうになる。思考停止。


「言葉の重みが不安定」


「お前の機嫌も不安定」


「あんたのせいだっつーの」


「あたしに惚れてんだ?w」


「そうゆうとこ」


「どうゆうとこ?」


「グーでいっていい?」


「パーの方で」


この子は心得てる。人を楽しくさせる技も、不愉快にさせる技も、それを許される術も。洗練されたコミュ力の塊、無償で傾けて貰えることが嬉しかった。嬉しいとか思っちゃう自分がしんどい。


グーはやだ、パーならいいというからパーで彼女の額を軽く弾こうとしたら彼女が秒で察してわたしのパーに自分のパーを的確にジャスト位置でぶつけてくる。ぱちんと無駄に良い音が響いて、呆気にとられる。想定外。反射神経えぐい。本当に人間なのか疑りたくなる。人間なのだろうけど、自分と同じ人間とは思えない。透明すぎて。


「仕事何時から?」


「夜」


「時間聴いてんねん」


「まだ気にする時間じゃないよ」


「気にするよ」


「なんで」


「お前が他の男に抱かれてる時間、きっちり正確に1秒も漏らさず現実逃避に埋没しときたい」


腹が立つ。自分は他の男に簡単に抱かれるくせに。わたしが金で抱かれる事は嫌とか、不公平過ぎる。


「一生埋まっとけ。わたしあんたの所有物じゃないし」


「所有物とか思ってたらあたしら『こう』じゃないよ」


「分かるから苦しいんじゃん」


「ごめん」


急に素直。心得過ぎなんだよ。つぼ。狙ってないって分かるから、好きになっちゃうじゃん。どうしようもないじゃん。透明すぎるんだよ。いちいち。うんざりするくらい。こんな無垢な生き物を丁重に愛でない男達、肉便器扱いして性欲の捌け口にする男達全員屠殺したい。まじで。


わたしのほうが絶対幸せにできるのに。


「お金、困ってるん?」


「あんたからは絶対もらわんよ」


「や、あげないけどさ、聞いただけ」


「代償」


「あー。そうゆうこと」


察しが良すぎて草。

彼女ほどわたしという複雑構造体の原理原則を的確に理解してる人間、他にいない。

彼女に嫌われたくない、と心底思う。

でも彼女がわたしを嫌ってくれたら、とも思う。

二律背反。


一生涯報われない事が確定してる好きほど不毛できつい感情って無い。


「飲み物買ってくる。何がいい?」


「自販機とかあったっけ?」


「病院のとこにあった」


「よく覚えてんね。てか病院て?」


「線路渡ったすぐのとこ、こっち側だからすぐだよ」


「線路のこっちってもわりと距離ない?一緒いくよ」


「いいよ、待ってて。太陽光に汚染される個体は一つで十分」


「じゃあわたしが行くよ」


「お前がこれ以上汚染されるのがやだっつってんの。察しろよ」


何も言い返せない。彼女の、多分ほぼ新品のミュールが背中を向いて、土と小石と葉っぱを無節操に踏んでコツコツ遠ざかってく。


言い返すべきだった。今更だけど。

だって、先天性の病気で既にテクスチャ死んでるわたしの肌なんかより、彼女の透明のほうが断然保護するに値する。


彼女の透明が損なわれるより、既に損なわれたわたしが毒を浴びるべき、そのほうが合理的、彼女を言い負かすチャンスだった、チャンスを逃した、また勝ちを持ってかれた。屈辱。いつもそう。彼女はほとんどまともに学校もいってないくせにわたしより全然頭の回転早くて、でも冷静に考えたら彼女の屁理屈叩き潰す程度の知能はわたしにだってあるのに、いつも彼女に先手取られて言いくるめられて取り残されて一人になって勝敗が確定した後になって勝算があったことに気付く。


いつだってそう。わたしはもっとその事について真摯に反省すべきだった。真摯に取り組むべきだった。奪い取るくらいの覚悟で挑むべきだった。彼女に勝利を譲るべきじゃなかった。負け癖がついて、彼女の勝利とわたしの敗北が定型化して、抜け出せなくなって、だから結末は決まってた。きっとあの日の相模原で。既に。わたしが選ばなかったから。鈍かったから。ばかだったから。後悔してももう遅い。全部、これは、ただの思い出話。筋書きは変更できない。起こった事をただありのまま綴るだけ。都合よく手を加えた分だけ虚しくなる。本当じゃなくなっていく。書き残す意味も損なわれてく。でも願った事だけは、こうじゃない結末を、もっと違う未来を、そんなの考えるだけ死にたさが増すだけだけど、でも、考えないわたしはこれを綴らない。願ったこと。


「どっち?」


「紅茶」


「えーやだ、だめ、あたしも紅茶がいい」


「じゃあ聞くなし」


「いいよ、あげる、紅茶のほう」


「別にいいよ。どっちって聞かれたから紅茶って言っただけ。どっちでもいいよ」


「遠慮すんなよほれほれ」


紅茶をわたしの頭に乗せてヘラヘラ笑う彼女。透明な不揃いの歯を見せて、笑う、歯列矯正なんて必要ない、だって彼女は完璧だった。左右違う耳たぶの形も、並びの悪い歯も、左右で幅の違う独特な二重も、つむじが多分ふたつあるっぽいところも、ほくろが右顔面にだけ密集してるところも、別に大して顔がいいわけでも喋りが上手いわけでもない寄りすぐりのろくでなしとばかり付き合うところも、丁寧にちゃんと全部歪で、恥ずかしいくらいあけすけで、生命のあるべき姿を巧みに体現した一級品。


わたしは彼女を所有したいと思うのに、彼女はわたしを所有したがらない。一方通行。


わたしは、ノーマルでもないけど、ビアンでも無いと思う。男性に恋とかしたことないし、イケメン俳優とかアイドルに惚れた事もないけど、じゃあ女性が好きかって言われたら別に女体を求めるような感覚もない。


性別とか関係なく、好きだと感じる個体が好きなだけで、それ以外の個体は男でも女でも全部どうでもいい。いらない。興味ない。


性別違和は昔からある。でも手術をしようとかは考えたことない。「男になりたい」とかじゃなくて、「女の肉体である事が漠然と嫌」っていうだけ。手術したところでどうせ…みたいな諦めもあるし、単にお金がないのもあるし、わたしが体だけ男になったところで、彼女好みの顔面に整形したところで、きっと彼女はわたしに靡かない。むしろ今のままでいるより嫌われてしまうような気がする。だからこのままでいい。


頭を前に少し傾けて、見事なバランスで頭頂部に乗せられたペットボトルの紅茶を落とす。落ちてきたそれを両手でキャッチする。紅茶のボトルは逆さまになっていい具合に手と手の間に収まる。彼女が買ってきてくれた紅茶をうっかり落とさずに済んで安堵する。わたしの正面に立ったままニヤニヤわたしの挙動を眺めてる彼女の前で醜態を晒さずに済んだ。きっとわたしが手を滑らせてそれを取りこぼしても彼女はニヤニヤ笑うのだろうし、上手くキャッチしても同じようにニヤニヤ笑うんだろう。どっちにせよニヤニヤ笑うんだろう。成功しても、失敗しても、どちらにせよ笑う彼女。暗喩。終わらない事を漠然と願ってた。終わるならせめてこの笑顔を最後に瞳に焼き付けたかった。でも叶わなかった。祈りが却下される事には慣れてる。だけど散々無下にされてきたんだから、ひとつくらい叶えてくれよって思った。祈り。叶わなかった。現実なんてそんなもん。知ってる。彼女がわたしに泣いてほしくなさそうだったから泣いた。もし何かが違ってたら、そんな事考えるだけ不毛。虚しくなるだけ。悲しくなるだけ。『もしも』はいらない。『もしも』なんてなくたって心臓は止まるまで動き続ける。わたしの意思なんて関係ない。だから『もしも』はいらない。


「愛について考えたんだよ」


「なんて?」


「愛」


「あい?」


「ラブ」


「ああ」


「ラブについて考えてた。歩きながら」


「風流やねぇ」


「そういう茶化しいらない」


「ごめん」


急に不機嫌。機嫌を損ねた。不機嫌でも濁らない透明がずるい。不機嫌くらいちゃんと黒くあるべきだ。透明な不機嫌なんて誠実過ぎて嫌だ。そんな誠実さは人も自分も誰も幸せにしない。どう伝えれば彼女にそれを理解させられるのか、最後まで分からないままだった。


「誰かといる時の一人って、あたしにとって一番思考が滞りなく巡る感じあるっていうか」


「うん」


誰かといる時の一人。彼女の言葉回しはわたし以上に複雑怪奇で、だけど言わんとしてる事は理解らなくない。細部に突っ込んだらまた不機嫌が加速する気がするから、うん、とだけ返す。


誰かと一緒に過ごす日の、ふと一人になる時間ってこと。わたしを一人ベンチに置き去りにして、飲み物買いに行く、そういう時間のこと。多分。憶測。


「本当の独りの時はそんな余裕なくて」


「わかる」


誰かといる時の、ふと一人になる瞬間じゃなく、部屋で一日中独りで過ごす夜、とかそういう意味。多分。憶測。


「歩きながら考えてた。適度なんだよ。距離。近すぎなくて、遠すぎなくて、考えるのに丁度いい尺で」


「うん」


愛について、考える尺。このベンチから駅前の病院の脇の自販機まで、行って買って帰ってくるまでの距離。時間。尺。


「でもよく分かんなかった」


そりゃあそうでしょう、と言いかけて咄嗟に紅茶ごと飲み込む。紅茶口に含んでるタイミングでよかった。セーフ。そうじゃなければうっかり言っちゃって余計機嫌損ねてた。多分。


「彼氏の事、多分好きなんだよ。ちゃんと。恋愛的な意味で。他の女にガチ恋とかされたら泣くし。でもあいつホストだしさ、だからあたし以外の女とも普通に飲んだり遊んだりするし、でもガチじゃないって分かるから別に痛くも痒くもなくて、その辺はどうでもよくて、なんなら客の女と寝てても許せる範疇っていうか、彼の中の一番があたしならそれでいーやって思うし」


「うん」


「でも、彼氏からさ、お前の事歌舞伎町で見かけたって聞いて、あたしのスマホの待受これだから」


彼女とわたしが無様にギャルピースしてるやつ。普通に恥ずい。でも突っ込んだら多分怒られるやつ。その程度のお察し能力はわたしにだって備わってる。だから黙って聞く。


「うん」


「あたし彼氏に強く出れるタイプじゃないから、普段なら、他の事なら普通にヘラヘラ聞き流すけど、なんか、そん時は抑えらんなくて、その子どこに向かった?って彼に問い詰めて、下って言ってて、風俗的な意味。一瞬頭真っ白になって、いやいや見間違えでしょって思いたかったけど、お前なら勢いでやりかねないなって思って、急にいきなし呼び出してごめんって思うけど、確認しないでいれなくて」


「わたしを、心配してくれたんだ?」


「心配っつか、なんだろ、止めないよ。否定できないもん。お前がそうしたいっていうならあたしに止める権利ないし、意思、尊重したいし、ホス狂のあたしが風俗どうこう言うのも筋違うって思うし、でもお前が、なんだろ、そうゆう店でさ、想像したら吐きそうになった」


なんだろ、なんだろ、彼女は自分の中で整理付かない感情を吐露する時、頻繁に使う。なんだろ。


もしかしてあんたもわたしに惚れてんの?wとか、ヘラヘラ冗談返すべきだったのか、きっと彼女は茶化すなって怒るだろうけど、でも、わかんない。きっと幾つもあった。兆し。機会。不吉な予兆を感じ取って、最悪を回避するチャンス。あった、と思う。全部しくじった。だから失った。


「なんか、ごめん」


きっと、間違えた。わたしがこの時口にするべき言葉は浮ついた「ごめん」なんかじゃなかった。それだけははっきり分かる。もっと別の何か、もっと、正直な、本当の、彼女みたいな透明な、そういう言葉、わたしの中にある感情、言葉、透明に吐き出せたら、でも、出来ない、わたしは彼女みたいに透明じゃない。言い訳。


「なんで謝るし。むしろ変な詮索してごめん。でも、違うんだよ、ほんとに。そういう仕事やめなとか、言う気なくて、ほんとに、なんだろ、そうじゃなくて」


「わかってるからだいじょぶだよ」


「分かるんじゃねえよ」


数分前まで紅茶が乗っかってたわたしの頭頂部付近にゴツンと硬いものが当たる。


彼女の頭。ほんの僅かだけ遅れて、彼女の薄い茶色の髪がわたしの瞼の横に垂れて、その髪の感触で、私の頭部にゴツンときたそれが彼女の頭部なのだと理解した。メーカーは分からないけど、多分安物じゃないシャンプーかトリートメントの匂い。道とか並んで歩いて彼女と肩がぶつかる瞬間、時折感じる彼女の匂い。


彼女の平たい胸元がわたしの顔面に接近して、平たいから一瞬胸と胸の間の骨ばった肌が見えて、うっかり見てしまってごめんみたいな気持ちになって、でもそれをしたのは彼女だから、わたしが謝る義理はないなとも思って、彼女の細い両腕が私の肩を抱くのを渋々許す。


夜に店でわたしを抱く腕とは全く太さも形状も質感もちがう、全く別の生命体の腕。この世で唯一愛おしいと感じられる腕。胸。頭。髪。体温。


こんなに透明な生き物を、欲しいと思ってしまう自分が不潔に感じられて、名前も知らない男たちに抱かれた汚れた体だからとかそういうことじゃなくて、わたしという存在そのものが彼女の透明性を害する毒のように感じられて、だから、嬉しいと不快が2つ、均衡を保って、バランスが大事、均衡保てなくなったら、きっと、良くないことが起こる。不安。近づきすぎたら、多分全部壊れてしまうから、わたしの両手は彼女がくれた紅茶を、彼女の、愛についてが込められた、答えのない紅茶を握って動かないまま、一方通行。


僅かにでも揺らせば簡単に均衡を失い瓦解してしまう、そう分かるから、ヘッドライトで照らされたネコみたいに、微動だにしない、置物みたいに、彼女の細胞と彼女の衣服と彼女の匂いに包まれる。右にも左にも傾かないように、頭の中を真っ白に保つ事だけ考えて時間を過ごす。


彼女がわたしの上半身を解放して、わたしが顔を上げた時、彼女の瞳が泣いてるのか、乾いてるのか、泣いていてくれたほうが嬉しいのか、乾いていてくれたほうが嬉しいのか、考えないようにする。考えないようにしないと、考えてしまうから。


「お金のためだったらいいなって、思った」


正直すぎるんだ、この生き物。


「そんならあたしにだってどうにかできるじゃん。お金とか、そういう問題なら」


透明じゃなきゃ通れない構造の複雑怪奇な隙間をノーミスで全部くぐり抜けて、わたしに触れようとする。


「触れられないんだよ」


悔しそうに言わないでほしい。揺れちゃうから。


「いつだってとどかないんだよ。どんだけ手伸ばしても」


願いたくなっちゃうじゃん。


「お前ここにいるのに、いなくて、いつも」


心臓が痛くなる原理、原理を突き止めないと、痛みを止められない。こんなに痛いまま、あとどれくらい耐えられるだろう。わたしは自分の強度を信じない。


「消えないでって思うのに」


消えたいと思ってしまってごめんなさい。


「どうしたらいいのかな、あたし」


よりにもよってわたしにそれ聞いちゃうかなぁって感情的に突き飛ばす事も、彼女の透明過ぎる残酷さに屈服して愛おしさで抱き返す事も、きっと選んじゃいけなくて、選んじゃいけなかったのかな、ほんとうに?わかんない、もし選ぶ事が出来たなら、その瞬間オセロみたいに全部裏返って、黒が白になって、鎖も牢獄も全部粉々に弾け飛んで、原子レベルまで分解された呪い達の鱗粉が太陽光を反射して、愛について、その先を、わたしは、もしもの後日談、痛いだけ。痛い女。救いがない。救いとか今更いらない。


「ごめん、頭バグってる」


ゆっくりと彼女の体温が離れてく。


未曾有の脅威から開放された安堵と、特別な大切から物理的に遠ざかる寂しさ。天秤を揺らさない事だけ、それだけ、彼女の顔は見ない。わたしの顔を見せれない。


心臓、痛いと思っちゃいけない。痛いは好きの証明だから。

彼女が選ばないなら、わたしも選べない。

勝手に一方的に好きになったのがわたしで、透明過ぎて逃げ場を失って追い詰められたのが彼女で、だからわたしのどんな選択も、彼女の人生に致命傷を与える凶器になる。


彼女の透明が、わたしの牙と毒を浮き彫りにして、だから、選べない。臆病者の言い訳。


陽が傾いていて、仕事の時間が迫っていて、だけど当然彼女には言えなくて、わたしがどういう風に穢れを贖うのか、空洞を何色で満たすのか、彼女は知ろうとしてしまうから、わたしの痛みを知ろうとしてしまうから、わたしは彼女の透明が好きだから、それはきっと必ず彼女の透明を侵蝕して汚すから、夜の仕事なんてバックレたっていくらでも他の店はあるし、彼女の時間が進み出すのをただぼんやりと待つ。


「あ、ごめん彼氏から」


彼女が慌ててスマホを取り出す。

これは痛くていいやつ。心臓。

嫉妬なんて普通に誰だってする。


彼女の一番になりたいのに、一番じゃない現実に安堵する。

自分が何を考えてるのか、何を望んでるのか、自分でももう分からない。

わたしにはわたしの事なんて分からない。


「なんか、今日はごめん」


彼女がわたしに謝る。


「なんで謝るんw」


理解りきった事、分からない事にする。そういうのは得意。ただのいつもの日常。


「だって、なんか」


「つーか腹減った!」


だって、なんか?とは尋ねない。

その先に続く言葉は仄暗い道に続いてる。透明を汚す暗がり。だから遮る。


「夜飯一緒食べたかったけど彼氏が」


「いいよ、わたしももうすぐ仕事だし」


「あ、うん」


あ。

やらかした。

気まずい空気。

だけど多分、ギリセーフ。

お互い、色々整理する程度の時間は稼いだ。

充分とは言えないけど最低限の時間は稼いだはず。

彼氏からの電話がボーダーライン。ギリ乗り越えた。セーフ判定。

彼女の透明な暗闇を慰めてくれる人がちゃんといる。彼女を待ってる。


消えて無くなりたいと思ってしまうことを、少しだけ許された心地がする。


そのための儀式へと向かう門出に彼女のやるせなさを見ないで済む。顔も名前も知らない彼氏くんに感謝。嫉妬は今だけ横に放置。


「彼氏、車で迎え来てくれるって言うから」


「うん」


立ち上がって、彼女の横に並んで、背中を一回大きく伸ばして、駅がある方角に向かって歩き出す。

ずっと木のベンチに押し付けてたお尻が少し痛い。

駐輪場と植え込みの横を二人でゆっくりぽつぽつ歩く。


色と別の色が複雑に混ざりすぎて最早何色か判んなくなった大きめの感情が、肋骨の内側を撫でるように滑落して、おへその下をゆっくり通り過ぎて、子宮を通り過ぎて、太ももの内側を無抵抗に伝って、踵から厚くも薄くもない、若干擦り減ったヒール越しにコンクリートの地面を打ち付ける。


歩く自分の影はもう見えない。夜が近い。相模原の街から自然の光が失われて、浮かび上がる人工の光に新宿のそれみたいな過剰な刺激は宿ってなくて、心許ない穏やかな郊外の灯りは痛みを全然消してくれなくて、だけど新宿の夜の光は痛みをまるごと飲み込んでくれるから、もうすぐ痛くなくなるから、何も感じなくなるから、何も心配ない。


「今日はありがとうね」


「ううん、こっちこそ」


彼女はわたしと出会ってから今日に至るまで、別れ際は毎回欠かさず律儀に「ありがとう」を言う。


分別ある大人達が別れ際に使う社交辞令みたいな「今日はありがとう」じゃないって理解る。


彼女のありがとうには心が宿ってる。別れ際の寂しさが音階に宿ってる。人を慈しむ体温が吐息に宿ってる。演技とか、そういうアレじゃないって理解る。受け取りたいと思える種類のありがとう。透明。汚したくない。綺麗じゃなくても、尊くなくても、不純物のない透明が彼女の命の有り様を顕していて、吸い込まれてしまいそうになるから、完全に姿が見えなくなるまで目を逸らさずわたしを見送ってくれるその透明な生命に背を向ける。


境界線の向こう側と、こっち側。


歩くことは失うことで、歩き続ける眼前に昨日はなくて、今日を過ぎれば明日がひとつ昨日になって、いつか全部ちゃんと昨日になるから、そうなるように、間違いを積み重ねて、後悔を敷き連ねて、いつかふと思い出した時、暖かい痛みを放つ欠片がひとつ残ればいい。


わたしが、あなたが、耐え難い夜を乗り越える道標、スティグマになればいい。


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