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パナパウから来た少女 〜クレンターニャの秘術〜 #5 イムレとの生活

 ログレスの下町であるローダン地区は、出稼ぎの労働者や移民たちが多く集まる、活気にあふれた地域だ。  古びた石畳の路地が迷路のように入り組み、どの建物も壁や窓に年季が感じられる。  狭い通りや広場には、周辺国や、世界中に点在する王国の海外領土の言葉や訛りが飛び交い、雑貨や食材などを売る個人商店が所狭しと並び、賑わいに満ちていた。  その一角にある古いアパートメントの狭い一室で、ナシラは目を覚ました。  狭い寝台、質素な家具、古びた壁に囲まれた部屋。  そこは、つい先日までの生活とはまるで違う環境だ。  一瞬、自分が今どこにいるのか分からずに、きょとんとした後、少しずつ自分の今の境遇を思い出し、ナシラはゆっくりと寝台から体を起こした。  ナシラが寝台から身を起こすと、隣のベッドに座っていた同居人のイムレがすぐに気がついて、軽く微笑んだ。 「おはよう、ナシラ。昨夜はよく眠れた?」 「おはよう……」  ナシラは少しどぎまぎとしながら、気だるい声で挨拶を返した。  この部屋でパナパウ人の少女であるイムレと同居する生活にはまだまだ慣れたと言えない。  生活に慣れるという以前に、自分がこの場所でどのように振る舞えばいいのかすらもわからない。  なにしろナシラは見た目以外は真っ当な少女ですらないし、パナパウ人でもないのだ。  だが、イムレはそんなナシラの不自然さを少しも気にする様子もなく、ごく自然な様子で接してくれている。  イムレが語ったところによれば、彼女は数年前に家族と共にログレスに移ってきたらしい。  それから両親や兄弟と支え合ってログレスでの生活を送ってきたが、今はエレアの手配したこのアパートメントに移ってきたというわけだ。  要するに、今の彼女の仕事はナシラの教育係なのである。  ナシラが見た目通りのパナパウ人の少女として生活できるようにサポートし、少女としての振る舞い方からパナパウの言葉や文化、庶民の生活の基本までもを教え込むための指導役として雇われているのだ。  したがってイムレは、ナシラの正体までは知らないにしても、ログレス人であるということは知っており、恐らくは本当は見た目通りの少女ではないということも何となくは分かっているはずであろう。  身支度を整えて、イムレを手伝いながら用意した簡単な朝食を済ませたあと、イムレはナシラの肩を軽く叩いて言った。 「じゃあ、今日の予定を始めようか。最初は掃除からよ。慣れないから大変と思うかもしれないけど、一緒に少しずつやっていこう」  ナシラは神妙な顔で、小さく頷いた。  だがいざ掃除道具を前にすると、ナシラには何をどうすればよいのかが判らず、固まってしまった。  それも当然の話で、これまでの生活で、ナシラは自ら雑巾がけをすることなど一度もなかったのだ。  呆れながらもイムレが示した手本の通り真似をしてやってみるものの、雑巾を握る手にはどこか不慣れな力が入り、床に当てる動作も実に覚束ないものであった。  ラグラウス邸では使用人に任せるのが当たり前であったとしても、ナシラの立場では自分自身が何でもやらなくてはならない。  ここ数日でナシラはやっとそのことを現実のこととして捉え始めていた。  覚束ないナシラの様子にも、イムレは何ということはないといった風で、やんわりと微笑んでナシラにやり方を教えた。 「ねえ、ナシラは慣れていないんだから仕方ないわ。初めてのことはみんな同じよ。雑巾をもっと広げて、力は軽く抜いて……こうやって滑らせる感じで拭いてみて」  ナシラはイムレの言葉に従い、少しずつ力を抜いて布を動かした。  少しずつ手元の動きは滑らかになり、なんとか様になってきたようだ。  少しずつ動作のコツが見えてくるにつれ、物事に上達していくことへの達成感のような気持ちが芽生えてくる。 「だんだん様になってきたわね」  懸命に床を拭くナシラの様子を見て、イムレは満足そうに頷きながら言った。 「朝のうちにこの調子で掃除を終わらせていきましょう」  イムレの言葉に励まされ、ナシラは雑巾を持つ手を一心に動かした。  部屋中の掃除を終え、昼食というのはあまりに簡単過ぎる間食を終えると、イムレはナシラに向き直り、少し真剣な表情を見せた。 「さて、ナシラ。今日からあなたにパナパウの言葉を教えてあげる。少しずつでいいから覚えていって。すぐに流暢に話すのは無理にしても、少なくとも普段の会話が少しずつできるようにしていこうか」  イムレの言葉にナシラは思わず背筋を伸ばした。  ひとつの言葉を覚えるというのは、大きな挑戦だ。  ナシラがうなづくと、イムレは思い出したように付け加えた。 「あ、そうだ。ナシラ、これからはログレス語を話すときも、あまり流暢に話さないように気をつけてね」  一瞬戸惑いを覚えたナシラだったが、すぐにその意味を理解した。  確かにナシラが普段の調子でログレス語を口にすれば、違和感は大きい。  もしナシラが誰かの前で自然に……見た目の通りのパナパウの少女として見られたいのであれば、拙い言葉遣いの方がはるかに自然であろう。  それも意識して片言のような言葉遣いを心がけた方が、ボロが出ないに違いない。  ナシラが頷くと、イムレは満足そうににっこりと微笑んだ。  イムレはまず自分がパナパウ語でしゃべってみせ、それを真似てみるようにナシラに促した。 「私の話し方をよく聞いて真似をしてね。パナパウの言葉はログレスの言葉よりずっと柔らかいの。だからパナパウの子がログレス語を話す時も、ずっと優しい感じになるのよ。言葉が流れ過ぎないように。少しゆっくり……こんな感じよ」  そう言ってイムレは、実際にパナパウの訛りを強調した発音で言葉を紡いでみせた。  ナシラもイムレの真似をして、まるで歌うような調子のパナパウ訛りのログレス語を口ずさんだ。   「ゆっくりでいいわ。最初から完璧を目指す必要はないの。焦らないで、少しずつ慣れていけば自然と馴染んでくるわ」  そんなふうにイムレはナシラを優しく励ましながら、声調のレッスンを続けた。  イムレの指導を受けながら、ナシラは何度も訛りのある発音を繰り返し、自分の中で少しずつ馴染ませていく。  音に違和感があるとイムレはナシラを励ましながら気長に修正を加える。  言葉を繰り返すたびに、ナシラの発音はイムレが示す手本通りの歌うような優しいパナパウの語感に近づいていった。  この方法はナシラがパナパウの声調を体感するのには効果的なものであった。  ほどなくナシラの発音はイムレのそれと遜色なくなっていき、ログレス人が聞く限りにおいては両者の違いは判別できないであろうほどに達した。 「いい感じよ、ナシラ。その調子で話していけば、とても自然に聞こえるわ」  イムレの賞賛に、ナシラは少しだけ自信が湧いてきたように感じた。  声調の模倣が自然になったのをみて取ると、イムレはパナパウ語そのものの練習に移った。  まず自分がパナパウ語でしゃべって見せ、それをナシラに真似させる。  ナシラがうまく発音できるようになると言葉の意味を教える、そんなやりとりをずっと繰り返し、ナシラをパナパウ語で話すことに慣れさせていった。  うまくいかない場合でも決して機嫌を損ねることもなく、辛抱強く、そして楽しげにナシラに言葉を教え込んでいく。  どうやらイムレは人に教えるということについて天性の資質を持っているようであった。  そして、それを享受するナシラの側の資質についても、同じようなとが言えた。  エレアの手で成し遂げられた、ある意味で自身の理想を体現した姿……その姿にふさわしい知識を習得していくということに、ナシラは貪欲なまでの吸収力を発揮したのである。  そして、口を開くたびに発せられるか細く甘やかな声も、その愛らしい声でもっと言葉を紡ぎたいという欲求をナシラに与えていた。  もちろんイムレの指導する内容は言葉だけにはとどまらない。 「さて、ナシラ。言葉はこのくらいにして、次は昨日の続きをやってみましょうか。早くパナパウの女の子の振る舞い方をしっかりと身につけないとね」  イムレの言葉に、ナシラはほんのりと顔を赤らめた。  昨日の記憶が脳裏によみがえったのだ。  自分の知らない言葉を真似て学ぶことと、振る舞いを真似て学ぶことは異なるからだ。  ナシラにとっては、後者は明らかに少女として振舞ってみる、ということを意味する。  それはナシラとして周りに馴染むためには不可欠なことなのだ、そう自分に言い聞かせても、少女としての振る舞いを自分から望んで学んでいくということへの羞恥は、どうしようとも拭い去れるものではない。  イムレは昨日と同じようにまず自分が動いて手本をみせた。  その仕草を真似て、ナシラもぎこちなく動いてみる。 「ナシラ、動き方だけに気を取られないように気をつけて……表情もとても大事なの」  イムレはナシラに表情の重要性を指摘した。 「パナパウの女の子たちはみんなよく笑って、あまり細かいことは気にしないからね……あ、でもナシラみたいに内気な娘だっているから心配しないで」 「……そういう娘は何かをする時も、いつでも慎ましく、控えめに……それを気をつけるの。でも、ちょっとした仕草で表情を柔らかくすることを忘れないで」  エレアが手配したものかオンボロアパートには似つかわしくない壁面の大きな鏡の前で、ナシラは、ぎこちない笑みを浮かべてみせながらイムレの動きを真似ることを繰り返した。  イムレは辛抱強くそれを修正し、自然に見えるように助言を加えていく。  頬を恥じらいに染めながら、少女の仕草や振る舞いを真似るという羞恥を呼び起こす行為を懸命に繰り返すナシラだったが、ときおり鏡に映る少女が見せるハッとするような所作を目にする度に、羞恥心すらも心地よいもののように思えてくる。 「そうそう、そんな感じ。上手にできているわ、ナシラ。まるでお姫様みたいよ」  イムレが賞賛するたびに、ナシラの頬赤みはますます増していく。  一方でその所作も、まるでナシラが生まれながらの少女であるかのようにいきいきと自然なものに変わっていく。  いつしかナシラの緊張はすっかりほぐれ、その足運びも、身のこなしも、そしてふとした瞬間にみせる表情すらもまるで最初からそうであったようにごく感じさせるものになっていた。  イムレはナシラの進歩の早さを見て、満足そうに頷いた。 「とてもいい感じよ、ナシラ……とても初心者とは、思えないわね」  そのイムレの言葉にナシラの顔には一層の恥じらい表情が浮かぶ。  イムレは微笑みを浮かべたままナシラに近寄り、肩を軽く叩いた。 「……この調子なら、じきに外を歩けるようになるわね」  ナシラはイムレの思わぬ言葉に驚きを覚えた。  この姿で外出する……そのことを想像すると、不安が胸に込み上げる。  ナシラは視線をそっとイムレに向け、戸惑いを露わにして口を開いた。 「……わ、わたしが、外に、出るの……?」  その声はかすかに震え、どこか頼りなげな響きを帯びていた。 「……もちろんよ、ナシラ。あなたまさかずっとこの部屋に引きこもって過ごす……つもりじゃないでしょう?」 「で、でも……わたし……」  ナシラがそうやってためらうのも当然である。  おそらく自分がこのアパートメントから外に出て路地を歩いたとしても、何か不審に思われる……南方人の少女として……ようなことはないように思える。  だが、今の自分の姿を衆目の目に晒すということは、ナシラにとってたまらなく恥ずかしいことだ。 「……本当に大丈夫なの?」  そうつぶやいて、ナシラは頬を赤らめながら静かに目を伏した。  その美しい漆黒の瞳には不安の色がありありと浮かんでいた。   それは、まだ生まれたばかりの、幼くあどけない新しい自分の姿に対する確信が持てずに、心を揺らしているように見えた。  かすかに肩を落としたその姿勢は、いかにも誰かに守られることを必要としているように映る。  イムレは優しく微笑みながらナシラの手を取った。 「心配しないで、私が一緒にいるから」  イムレの励ましの言葉に、ナシラは不安な面持ちのまま、こくんと頷いた。  自分がこの姿で外に出る……イムレの言う通りこの行為を続ける限り、それは避けることのできないことであり、ナシラにとっては、とてつもない勇気を必要とすることであった。  だがナシラの内心には、そのことに対する恐れや不安とはまったく異なる別の感情も湧き上がって来ていた。  そのことを考えると、ナシラは背がぞくりとするようで、どこか甘やかな興奮を感じるのだった。  ナシラは、確かにその機会が訪れることを、待ち望んでいた。 (つづく)


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