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並び咲く純白のユリの花 #9 並び咲く純白のユリの花

9.並び咲く純白のユリの花 「……だから、これはいつでも、あなた自身の意思で止められるということは、覚えておいてね。前に説明した通り、あなたが履いているおむつの下に隠れたモノを抜き取りさえすれば……いつでもあなたは正気を取り戻すことができる」  そう、話し終えると梨花の顔をじっと見つめたまま、しばしの間、奏子はその様子を窺った。  だが梨花の目は向けられた視線に答えることは無く、相変わらず虚空をさまよっていた。  奏子はくすりと笑うと、ベッド脇から立ち上がった。 「むむ……うぅ……」  奏子の背後から人の声、のようなくぐもった音が聞こえた。  奏子は向きを変えると、部屋を区切るように置いてあるパーティションの横に進んだ。  パーティションの反対側には、向かい合わせのようにもうひとつベッドが置かれており、人がひとり横たわっていた。  どうやら女性のようであった。  年の頃は奏子と同じくらいで、髪の毛は短く、右目の下に泣きぼくろがある。  身だしなみのされていない顔からは一見してよくわからないが、注意してみればその顔は、側に立つ奏子とうりふたつといってよいくらいに似ていた。 「ごめんなさい。目が覚めちゃった?」  奏子はパーティションの横から顔を出し、梨花と同じように病衣に身を包んだ自分そっくりの顔をしたその女性に声をかけた。  ベッドに横たわる女性は、奏子に対する反応をみせなかった。  とろんとした目はあらぬ方向を見つめているだけである。  その様子から一目瞭然であった。  彼女は、となりのベッドに横たわる梨花と、同様の状況にあるのだ。 「むむ……ぅむむ……」  よく見ると彼女の口には、マウスピースのような口腔保護具がはめられていた。  舌を噛んでしまわないようにするためなのであろうか。  そのせいで、口から漏らす声は、くぐもってしまっていた。  よく見れば、それだけではなかった。  手首と膝、それに足首にはぶ厚いバンドが巻かれ、そこから伸びた太いベルトがベッドに繋がっている。  それにベッドヘッドの側からも伸びたベルトが両わきの下をたすき掛けのように繋いでいる。  まるでベッドに括り付けられるように、動きを拘束されているのだ。 「ふむ……むむぅ!……」  覚醒の度合いが高まってきたのか、女性の声は大きくなり、身体をもぞもぞと動かし始めた。  だが、抑制帯に阻まれて、ほとんど身体を動かす余地はない。  両手にはめられたぶ厚いミトンに邪魔されて、手指さえも自由になることはないのだ。   「……あいかわらず、楽しんでいるみたいだね……」  いささか皮肉めいた調子で奏子はそう言った。  その表情にはどこか蔑むような色が浮かんでいる。  おそらく女性は暴れてしまうのだろう。  自身の安全を保つことすらできないから、やむを得ず拘束されているのだ。  だが奏子の言葉の意味するところからすれば、真実はそういうことではない。  暴れるから拘束される……だからこそ彼女は暴れ、そして彼女の望み通り身動きできない状態に自らを置いているのだ。  汚れて異臭を放つ彼女のおむつに隠されたその下には、梨花と同じようにグロテスクな物体が今も屹立して、目が覚めた彼女に切ない欲求を想起させるシグナルを送り始めていることだろう。  だが、両手を完全に拘束されている彼女には、どのような方法でもそれを解消する術はない。  彼女は覚醒している間、ずっとその疼きに苛まれなくてはならないのだ。  そしてそのことを自覚すらすることもできない。  しかしもちろん、それすらも、彼女自身が望んでそうしていることなのだ。  少なくとも、状況に対する彼女の脳神経系の反応の解析結果に基いて、奏子は……奏子の顔をした何かを動かしている存在は、そう判断している。 「後でこれ、片づけておくからね」  そう言って奏子はパーティションに目をやった。  それはもう必要が無い。  パーティションを片付けてしまえば、この部屋はちょうどふたつのベッドが並ぶだけとなる。  ふたりの世話は……いや、この病棟にこれから入所する人たちが望む通りの生活を送るためのあらゆるものごとは、介護用アンドロイド……いわゆるケアドロイドが担当することになる。  だから、他の人間に邪魔されることは、決してない。  ここにいるふたりは、これから先ずっと、ふたり仲良く並んでベッドに横たわり、自身では何一つできず、自らの置かれた境遇に考えをおよぼすことすらできずに、過ごすのだ。  そこから逃れることをどちらかが望まない限り。  かつての奏子が望んだことはかなえられたのである。  だが奏子には、まだやり残したことがある。  彼女に与えられた、もうひとつのタスクだ。  奏子は、踵を返すともう一方のベッドのところに戻ってきた。  梨花の着ていた衣類を入れた籠を手に取る。 「さて、梨花ちゃんに着るものを持っていってあげないと」  そう呟いてから、奏子は間近のベッドに横たわる長い髪の少女にちらりと目をやった。  奏子にとってその少女はもはや幼馴染の不見原梨花では、ない。  そう、彼女が梨花で、あるはずがない。  なぜならば、彼女は、ずっと、この病棟に入所しているからだ。  奏子の聞いたところによれば、それは生まれた時からのことで、おそらく彼女はこの先ずっと、ここで過ごすことになる。  彼女自身がそれを望む限りにおいて。  隣の病室で眠りについている「本当の」梨花は、間もなく目を覚ますことだろう。  彼女の脳内を満たすナノマトリクスが梨花の記憶や知識、情動の傾向までもを再現しているから、目を覚ました彼女はいままでの梨花と少しも変わるところが無い。  もちろん、それは完全ではない。  例えば、長く横たわっていた身体はすぐにいままでと全く同じように使うことはできない。  それに、自分本来のものではない記憶や知識にも違和感が生じるかもしれない。  だが身体能力については運動神経にも補正を利かせることはできるのだから取り立てて心配するほどのことではないし、自己同一性について生じうる違和感も、これまでもそのことが問題になることはほとんど無かったし、もとの彼女の状態を考えればむしろ容易になじんでいくだろうと思われた。  なぜならばこれは何よりもこれは彼女自身が……そう自覚することはなくとも、心から望んでいたことなのだ。  それは、一個の明確な意思を持つ自立した存在として、自らの生を謳歌したいという切なる望みだ。  じきにその望みはかなえられることだろう。  梨花はこれから、新鮮な気持ちで、いつもの見慣れた生活を過ごしていくのだ。 「じゃあ、私はもう行くからね。お邪魔さまでした」  そう言うと奏子は部屋から出て、静かにドアを閉めた。  奏子がこの病室に戻ることはおそらく二度とないだろう。  もちろん橋本医院ではここの入所者の医療面のサポートを担当しているから、この入所者の少女が医院を訪ねた時に偶然居合わせる、そんな可能性はある。  そしてたまたまその時に奏子の横に梨花がいることだって、ありえないことではない。  自分とよく似た白痴の少女を見たときに、彼女はいったいどんな反応を示すだろうか。  もともと梨花は心のどこかで、自分の窮屈な日常から解放されたいと思っていた。  一方で、白痴の少女のいる場所は、それを目にした梨花自身がかつて抜け出すことを切望した現実でもあるのだ。  どちらも本人が自覚することがなかった彼女自身の内面の欲求だ。  ありえないことではないことは、この場合、必ず起きるということでもある。  梨花にふたつの現実を突きつけたうえで、彼女のことをからかってあげるのは、奏子にとってはいわばアフターサービスのようなものだ。  なにしろそういう感情をことさらに刺激するのが、彼女に与えられた存在意義なのだから。  病棟の廊下はひっそりと静まり返っていた。  だが耳をすませば入所者の漏らす意味のない音がかすかに聞こえてくる。  普段は世間に触れることもなくその存在すら定かでない、ここに居る数多くの入所者達が望むこととは何だろうか。  入所者達自身が明瞭にそれを自覚するということはない。  その点については今の奏子も同じだ。  彼女自身は単なるデバイスでしかない。  何かに想いを巡らせるなどということは、決してないのだ。  だが彼女の、そしてすでに数多く存在する彼女と同様の存在の行動を規定するシステムは、そのことについて一定の判断を下したようだ。  それはつまり、これから多くの人々が、不見原梨花と同じように、それぞれの窮屈な日常から、その望み通りに、解放されるということである。  奏子が去った病室にはふたつのベッドが並び、それぞれにふたりの少女が横たわっているだけであった。  それぞれの見た目は決して清々しいものとは言えない。  だが、いまやそれぞれの望みをかなえ、あらゆる悩みやしがらみから解放されたふたりの内面はそうではない。  それは赤子のように無垢で少しの汚れもない、純粋なものであった。  例えるならそれはまるで純白のユリの花が、二輪寄り添って並び咲いているかのようだった。   (おわり)


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