クラウストラムの後継者 #6 巣穴
Added 2023-04-21 15:00:00 +0000 UTCクラウストラムが存在する「狭間」には太陽が昇るということがない。 そこはいつでも、霧がかった薄暗い世界だ。 侵入者を防ぐ幾重にも張り巡らされ館の結界の外には、鬱蒼とした森がどこまでも広がっている。 ひとたび踏み込めば、どこまでも境のない、迷いの森だ。 館のほど近く、その森の中にある小さな丸太小屋をひとりの人物が訪れていた。 森の木々に衣服を汚されぬようになのか、外套をかぶっている。 小屋の中にあがりこんだその人物は外套を脱ぎ去り、ドアの近くのフックにかけて、ほっと息をついた。 メイド服に身を包んだ、豊かな鳶色の髪をした、優しい顔立ちの可憐な少女だ。 館のしもべ、[[rb:大地と樹木の精霊 > ドライアド]]のエマだ。 エマが、ひとりでこの場所に来たのには理由がある。 彼女は、メイド服の隠しポケットに手を入れ、携えていた品物を取り出し、傍らの机の上に置いた。 それは、4、5cmほどの大きさのガラス玉のようなものだった。 黄色く鈍い輝きを放っている。 中心部は縦長の黒い紡錘形となっており、まるで何らかの生き物の瞳のような外観を呈している。 しばらくの間、エマは潤んだ切なげな瞳を机の上に置いた、どこか禍々しくもあるその玉に向けていた。 やがて、意を決したように彼女は、身に着けているエプロンのひもの結び目に手をかけた。 そろそろと、彼女は身に着けている衣服を脱ぎ始める。 深い森の中の、小さな小屋の中でただ一人。 一糸まとわぬ姿となったエマは、熱に浮かされたような表情を浮かべ、ゆっくりと玉に手を伸ばした。 ゆっくりと、それを自身の額に近づける。 玉が彼女の額に触れた瞬間、小屋の中を光が満たした。 黄色く、濁った、光だった。 [newpage] 一週間ほど前。 最初に異変に気がついたのは、フェイだ。 侵入者に備え、屋敷周辺の森を巡回するのが、彼女の仕事だったからだ。 森の中に、[[rb:腐れる地の精霊 > ゴブリン]]が顕現している、というのが彼女の言い分だ。 木々が荒らされ、不快な匂いの痕跡をそこかしこで見つけた、というのだ。 ゴブリンは、ごく低級な[[rb:障魔 > グレミアン]]の一種である。 その数にもよるが、フェイやノルンどころか、戦い慣れていないエマであっても容易く排除することはできる。 問題は、広大な森の中の、どこに彼らがいるのか、だ。 「ユートさんに知らせないと」 そう言ったエマを制したのはノルンだった。 このところ、収蔵室にこもって探求を続けている遊跳の邪魔をするべきではない、というのが彼女の言い分だった。 障魔といってもたかがゴブリンごときに、3人が後れをとることは考えられない。 結局エマが折れ、3人はユートに告げることなく、森を調べに出たのだった。 そしてしばらくの探索の後。 「ずいぶん、匂いが濃くなってきたよ」 先頭を歩くフェイが鼻を引くつかせた。 すぐに3人は草木のないのない、広場に出くわした。 いくつかの焚き木を燃やした後が残っている。 森の生き物の骨が、そこかしこに転がっている。 広場の周辺の木々は意味もなく表皮を切り裂かれ、あるいは剥ぎ取られて勢いを失っている。 確かに、ここにはつい最近まで、ゴブリンがいたようだ。 辺りを見渡して、エマは顔をしかめた。 大地と樹木の精霊であるエマにとって、森を荒らし地を汚すゴブリンは不倶戴天の敵と言ってもよい。 「あそこが、巣かもしれないぞ」 身の丈ほどもある大剣を背中に背負ったノルンが、広場の反対側を指し示した。 盛り上がった小丘に、横穴が穿たれている。 3人は横穴に近づく。 「うわ、匂うな」 言ったのは、ノルンだ。 エマにも確かに、その匂いが感じられた。 糞尿と汗の混じった獣のようなにおい。大地や生き物を汚す精の匂い。 それは確かにゴブリンの匂いだった。 「アタシに、任せて」 言うや否や、フェイがするりと横穴に潜り込んでいく。 無鉄砲な行動だ。 だが、相手がゴブリンであれば、フェイが遅れをとるということはない。 エマとノルンは、落ち着いて、フェイが偵察から戻るのを待った。 しばらくして。 「今は何も、いないみたいだよ」 横穴の入り口から、フェイがひょっこりと顔を出した。 「こんなもの、見つけたんだけど」 フェイが差し出したのは、ガラス玉のような品だった。 エマは、フェイの手からその玉を取り上げた。 黄色く濁った光が、玉の中で凝集していた。 その中心にある縦長の黒い紡錘形とあいまって、まるで何らかの生き物の虹彩のようだ。 (まるでゴブリンの目玉みたい……) ゴブリンの姿がエマの脳裏に浮かんだ。 矮小でだらしない体躯、張りのないない暗緑色の体表、ひょろ長い腕。 そして醜悪な顔。 黄色く濁った乱杭歯、とがった長い舌、そして同じように黄色く濁った目と縦に割けた禍々しい黒い瞳。 粗雑な知能しか持たず、ただ美しいものを汚し、破壊し、貶めることしか知らない汚れた存在。 手に取った玉がまるでゴブリンそのもののように感じられ、エマはこれ以上それを持っていたくなかった。 横穴からはい出したフェイにそれを手渡す。 「中にはもっと、たくさんあるよ」 フェイが告げると、ノルンが玉を覗きこむ。 「これ、知ってるぞ」 フェイとエマはノルンの方に視線を向けた。 「[[rb:幻力 > マーヤー]]の宝玉、ていうんだ。使った者に込められた力と護りを与えるという魔玉だよ」 なぜそんなことをノルンが知っているのか。 エマは、少しいぶかしく感じた。 魔道具の類に関しては、普段のノルンはまるで興味がない様子だからだ。 「ふ~ん、でもどうやって使うの」 「額にあてるんだよ」 フェイの問いにノルンが答えた。 手に持った宝玉をしばらく見つめていたフェイは、顔をあげて言った。 「ね。ちょっと試してみようか」 好奇心にうずうずしている様子が、うかがえる。 満面の笑みを浮かべたフェイは、手に持った宝玉を唐突にエマの顔に近づけた。 「ちょっと、何するの」 飛びのこうとしたエマの背後が、ふさがれた。 ノルンだ。 怪力のノルンに肩をがっちりとノルンにつかまれては、フェイの手を避けることはできない。 「嫌……!」 「だいじょうぶだって。心配いらないよ」 いやがるエマを後ろから押さえつけたまま、ノルンが無責任な言葉を発した。 どうして、こんな悪ふざけをするのか。 ふたりとも様子がおかしい。 とっさにエマは、縛めのつる草を大地から生やして、フェイを制することを思いついた。 だが次の瞬間、それがかなわぬことにエマは気がつく。 3人が立つこの広場は、腐れる地の精に、汚されている。 だからつる草をこの場に呼び出すことは、かなわない。 もはやなすすべもなく、宝玉がエマの額に押し当てられた。 その瞬間、宝玉から黄色く濁った光があふれだし、エマの体を包みこむように広がっていた。 光に覆われた肌に、不快な感触が襲う。 湿った、冷たい、ねっとりとしたものに、覆われていく。 濁った光はすぐにエマの全身を覆いつくすと、徐々に収まっていく。 それとともに包みこまれたエマのシルエットも少しずつ変化を始めた。 全身がまるで圧縮されるように、縮んでいく。 特に脚はどんどんと、がにまた気味に縮んんでいく。 それなのに細い腰回りは逆に膨らんでいくのだ。 やがて、そのシルエットは、もともとの美しい精霊の少女のそれとは似ても似つかない、醜悪なものに変わってしまった。 エマの着ている衣装の上からでもそれが何なのかは明らかだった。 ゴブリンだ。 濁った光が消えていくと、その下にあったのは、不健康な黄緑色をした、艶のない、しわだらけの粗雑な肌だった。 ふしくれだった手の指と長い爪。ごつごつした貧相な体つき。頭の大きさはさほど変わっていないようだが、今の体格からは不自然に大きい。 いぼだらけの顔の中心には丸まった大きな鼻が歪んでついている。 とがった耳の位置も左右が少し、歪んでいる。 厚い唇に覆われた半開きの大きな口の奥には黄色く濁った乱杭歯が並んでいるのが見える。 ほんのわずかにねじれた頭髪が生えている、でこぼこの頭。 エマの姿は、不倶戴天の敵といってもよい、ゴブリンのそれに完全に変わっていた。 「うわ〜、エマがゴブリンになっちゃった!」 フェイが口に両手をあてて、驚きの声をあげた。 宝玉から光があふれだしたときに後ろに下がっていたノルンはフェイの傍らに位置を移して、無表情にことの推移を眺めていた。 ゴブリンの身体が痙攣する。 その内側にいるエマの鼻や口から、無理やりに何かが入り込んできたのだ。 それは、ゴブリンの体臭と同じような不快な悪臭を放っていた。 それは、鼻と口からだけではなく、耳の穴や目の隙間からも、下半身の穴からも容赦なく入り込んできた。 まるで、エマの存在を内側からも醜いゴブリンに変えてしまおうとしているかのようだ。 全身をしっとりと湿った不快な感触に弄られて、体中の穴という穴に不快な悪臭を放つものを押し込まれ、 ただエマは嗚咽し、なすすべもなく恐怖に怯えるしかなかった。 最後に耳と目の奥の、ありえないところまでものが達すると、まるでそれがエマの頭に繋がったかのように、彼女の頭の中に奔流のように異様な感覚が流れ込んだ。 それは快感だ。 そしてそれだけではない。 自身の感性が根底からゆさぶられ、作り変えられていくような、感覚だった。 「ウホッ……オホ……」 地面にひざまづいたゴブリン姿のエマは、しゃがれた声でせき込んだ。 ゴブリン特有の割けた黒い虹彩を持つ黄色く濁った両目を大きく見開いて、茫然としている。 「あ……アダシ……」 おそるおそる目線を降ろし、両手を目の前に広げる。 長く汚い爪をもつ、ふしくれだったしわだらけの指。ゴブリンの手だ。 自分は、醜く汚らわしい、ゴブリンになってしまったのだ。 (続く)