ゴングと同時、大和と蒼響は共にコーナーから離れ、構えを取りながらリング中央に向かう。だが、まだ殴り合うことはしない。どちらから促すのでもなく、拳を軽く触れさせ合う。そうして互いのグローブを軽くぶつけ合った瞬間に弾けるような小気味良い音が響いたのは、心身に漲るものが溢れて腕に力が入り過ぎた結果だ。
そして、それを御すのにももうここが限界だった。それは蒼響だけでなく大和もそうだったのだろう。示し合わせたように二人の口角が上がった。
しかし、ここで意気揚々と飛び込めば簡単に狩られる。そんな愚を犯すほど蒼響も馬鹿ではない。それは大和もそうだろう。向こうはインファイターだが一気に踏み込みたいところを堪えつつ、じりじりと間合いを詰めてきている。
二人の身長は同じだ。つまり両腕のリーチも、拳を当てられる距離も同じ。リングを回るように互いに軽やかなステップワークで間合いを計りながら、少しずつ射程内に収めようと距離を調節する。
そしていよいよ、その時が訪れた。
攻撃圏内に入ったことをいち早く察したのは、蒼響の方だった。
拳の先が相手の頭部に届くぎりぎりのラインから、左のジャブを、獲物を狙って滑空する猛禽類のように素早く打ち出す。
「っ!」
その鋭さに驚いたのか大和の反応が一瞬遅れ、腕でガードするよりも先に内側へ入ってきたそれを辛うじて頭部を傾けるように避ける形となった。
グローブの革と頬の皮膚が軽く擦れ合う微かな感触に、蒼響は口角を上げる。命中するかと踏んでいたところを避けられたことこそ驚きはしたものの、スピードはこちらの方が上だということが分かっただけで充分だ。
だが、拳が届くということは向こうの射程内にもあるということ。大和もまた、蒼響の頭部目掛けて鋭くジャブを打ち出す。
「っ、重て……!」
思わず、声が漏れた。
ブロックが間に合う程度の速さではあったものの、懐に潜り込んでの闘いを得手とする選手なだけあってパンチ力はやはり並ではない。一発腕に受けただけだというのに、ただのジャブでも膂力の違いを如実に感じさせる。彼の試合の動画を観たときにも感じてはいたが、やはり実際に味わう側となると圧が段違いだ。
それゆえに蒼響はいたく高揚していた。歯応えのある相手の方が闘っていて楽しい、という単純明快な思考によるものだ。そしてそれは、向こうもそうであろうと漠然と感じていた。それは蒼響の単なる直感のようなものだったが。
それから暫く、ジャブの差し合いが続いた。ジャブというのは距離を測り間合いを掴むための技能としても、試合の組み立て方としても基礎の基礎である。だが、その目的は選手の闘い方によって各々異なる。蒼響と大和の間でもそうだ。インファイターである大和は接近する隙を作るために、打撃のコンビネーションの起点としてジャブを活用している。──が、それは今のところ上手く行っていなかった。
大和を寄せ付けないよう、蒼響が距離を保つことを徹底しているためだ。
相手を不用意に近付けないための牽制。アウトボクサーである蒼響にとってのジャブの役割がこれだった。間合いを制することは試合を制することに等しい。
(そろそろ分かってきたな。っし、それじゃそろそろ攻めに行きますか!)
それを続ける内に、間合いの調整にも大分慣れてきていた。大和がどういう風に踏み込むのか、その手足のリーチがどれくらいなのかも大体掴んだ。
それさえ分かれば、後は臨機応変にやるのみ。蒼響は変わらず軽快な足運びで、先ほどよりも一歩前に出た。そして、またもジャブ。ガードされるが、お構いなしに右のストレートまでそこに叩き付ける。そして──
「──シッ!」
ついでに、右のローキックで脚を狙うコンビネーションを見舞う。大和が咄嗟に動いたせいで着弾位置は狙いから外れ、威力も削がれたものの命中した。硬い筋肉がしっかりと詰まった太腿の感触が蒼響に伝わる。
向こうも堪えた様子はなく、反撃に拳を向けてきたが、スウェーバックと共に軽く後ろへ飛びのいて避ける。
当たるギリギリのところを見極め、ヒットアンドアウェイで勝ちに行くのがアウトボクサーの定石だ。だが、蒼響は決して判定勝ちなどというぬるい勝ち方は狙っていなかった。その理由もまた単純。それでは面白くないからだ。
「っしゃァ! いい感じにギア上がってきた!」
尽きぬ高揚感のまま、心拍が更に上昇する。それに後押しされるように、蒼響の肉体は今まで以上に速く、鋭く動き始めた。
先と同じように射程内ギリギリに踏み込み、時にはコンビネーションを交え、時には一撃のみを入れて、と一定のリズムにならないよう変則的な攻めを続ける。
これは、ある種の「釣り」だ。そして、大和はそれに簡単に引っ掛かってくれた。
次の瞬間、彼の右足が大きく一歩前に踏み出すのを、蒼響はしっかりと見ていた。他のインファイターとの闘いでも、大和の試合の動画においても飽きるほどに見た動きだ。ゆえに、合わせるのは容易い。
刹那、突っ込んで来た彼の鳩尾を、前に高々と突き出した蒼響の右足が正確に射抜く。鍛えることのできない、筋肉と筋肉の隙間。その柔さが中足骨頭にしっかりと伝わってくる。
「ぐ……っ」
大和の小さな苦鳴が蒼響の耳にも届く。だが、蒼響の攻勢はまだ終わらない。彼の体をそのまま後ろへと押し返すよう瞬間的に力を掛けると、地に下ろした右足の方を軸にして更に一歩距離を詰めながら、左脚を大きく振るった。
それは鞭のようなしなやかさで以て今度こそ狙い通りに大和の右太腿の外側面へと命中した。リング上の熱された空気を、弾けるような音が震わせる。ぱんぱんに空気の詰まったタイヤのように張りのある太腿を凹ませる感触を蒼響自身に伝える。クリーンヒットした事実に、またもや蒼響の体が沸き立つように熱くなる。
このまま脚を削り、機動力を奪ってから攻め立てる……そういう算段でいたのだが──
「うおっ!?」
脚を刈られても怯むことさえなく大和が強引に突っ込んできたことで、蒼響は面食らった。
こちらはまだ左脚を引っ込められておらず、体勢は不安定。しかし完全に懐に入られてしまう。苦し紛れに身を捩りながら、右の拳を突き出す。
「っ!」
これも大和が大きく上体は揺らしたことで避けられてしまったものの、目くらまし程度にはなったらしい。薙ぐように放たれたフックは目標であった脇腹から少々外れ、腹直筋の丁度中心を叩いた。
蒼響は殆ど反射的に、自身の腹部に強く力を込めて衝撃を阻んだ。グローブの革が皮膚を叩く乾いた音と、鈍い衝撃。アウトボクサーは打たれ弱い。そう評されるのが癪で、蒼響はしっかりと鍛えている。狙われやすい胴部、ボディは特にそうだ。力を入れずとも白線、腱画ともに深い溝が刻まれたそこは、本気で力めば厚い腹直筋の壁を浮かび上がらせる。
結論から言えば、衝撃はほぼシャットアウトされ、内臓にまで届く程ではなかった。
「く……っ」
だが、その拳の重さは理解できた。
素早いステップインであったとはいえ、背後に押し戻された体を無理やり前に傾けてのものだ。腕には力も十全に乗り切っているとはいえないだろう。だのに、肉の表面に鈍い痛みが残っている。
それもそのはず、インファイターの主武器だ。生半可な威力であるわけがない。これを至近距離で打たれるようなことがあれば倒れずにいられるだろうか、いや、何秒立っていられるか。
受け切った瞬間に蒼響は背後へ大きく跳び、距離をとって大和に向き直る。
「あー、驚いた。強いな、あんた」
「そっちこそな」
短いやり取りの最中も、二人は闘志と気迫に満ちた視線を送り合っていた。
汗、エフェクト無し
ていてい
2025-05-01 21:41:10 +0000 UTCセレマナー
2025-05-01 08:57:27 +0000 UTC