熊生くんを見る度、僕は彼との隔たりを強く感じた。
三年生になったばかりの初夏の事だった。
新緑に目を焼かれながら渡り廊下を通り、僕は体育館に向かっていた。
諸事情で部活を辞めた僕は教員にとって便利な存在だったのだろう、その時も何かの使い走りをさせられていた事だけは覚えている。
体育館の入り口には同じクラスの男子数人が座り込み、中で部活動に励む生徒たちをうるさく囃し立てていた。
だが、体育館の中を覗いた瞬間、僕は彼らの声も姿もひどく遠く感じた。
感覚の全てを、一人の男性にもぎ取られた。
僕の声帯では作り出せない野太い低音が体育館の空気を震わせる。
僕が何人いても持ち上げられないバーベルが天高く突き上げられる。
金属の塊が空中で静止し、やがてマットに打ち下ろされた時、僕はやっとその男性が熊生くんである事に気付いた。
公式戦の直前のリハーサルのようなものなのか、熊生くんはシングレットという体に密着したユニフォームを着ていた。
熊生くんの逞しい胸部に胸毛が生えている事は誰もが知っていた。
4月の中旬から早くも夏服の開襟シャツを羽織った熊生くんの胸元からは真っ黒で縮れた剛毛が燃え上がるようにはみ出ていた。
それを指摘されると熊生くんはシャツのボタンを外し、寧ろ自慢げに見せつける。
すると教室は笑いに包まれるのだった。
だが、あの体育館では少し違った。
挑戦的な無表情。
最良の位置を探り、床を踏みつける大きな足。
一瞬で全身の莫大な筋肉が力を発し、途方もない重りが彼の肩の上に跳ね上がる。
次の瞬間、バーベルは見上げるような高さにまで到達した。
熊生くんの体は神聖と言っても良かった。
シングレットを通して、努力だけでは絶対に得られない、運命的な肉体の優越が隆々と浮かび上がった。
掲げられた両腕の下には黒々と生い茂る縮れ毛が汗に濡れて光り、肌に張り付いた胸毛と繋がりかけていた。
それらの特権的な男性としての力の源泉がどこにあるのか、探すまでもなかった。
目を疑うほどの、しかし熊生くんには似つかわしい二つの巨大な楕円球。
生地に隠された、しかし各部位の形状すらはっきりと分かる野太い円筒の畝。
それらが熊生くんの体の中心に位置することに、僕は象徴的なものを感じた。
「すげーもっこり」
「やば」
「デカすぎ」
クラスの男子たちが揶揄を投げかけた。
今なら彼らの気持ちが分かるような気がする。
彼らはむず痒かったのだろう。
大人になろうとしている年代の彼らの前に現れた、あまりに完成され尽した男の肉体。
もちろん彼らは、そして誰も、どれほど成熟しようと熊生くんほどの男になることは絶対にない。
それでも、心を置き去りにして一足先に大人になっていく肉体というものを強く意識させられた彼らは気恥ずかしさを、決まりの悪さを、笑いという形で消化せずにはいられなかった。
だが、熊生くんは違った。
「男なんやから当たり前やろ」
熊生くんは僕らを一瞥し、股間の肉塊を大きな手で掴むとシングレットの上から無造作に、見せつけるように持ち上げた。
呆れたような表情で、一体何をそんなに騒ぐことがあるのか分からないという様子で。
野次馬の男子たちがどういう反応をしたかは覚えていない。
僕は一種のショック状態にあった。
僕はいつも恥ずかしかった。
歪な体。
幼い心。
最も大きな問題は、その心と体が全く噛み合わず、いつも耳障りな軋みを立てている事だった。
きっと恥の感情とは、自身の現実と理想の差から生まれるのだろう。
だから僕は生きているだけで、存在しているだけでいつも恥ずかしかった。
そして、熊生くんは何一つ、恥じていなかった。
彼の肉体と魂は完全に同じ形をしているのだろう。
それが僕と熊生くんの隔たりの正体であり、憧れの理由だった。
いくつかの出来事を経て、僕は完全に熊生くんに執心していた。
もちろん、万に一つの可能性も無かった。
彼はあからさまな異性愛者だった。
本人はどう思っていたのか分からないが、熊生くんはモテた。
派手な女子たちは露骨なアプローチを憚らなかった。
彼の強烈な男性性を受け入れられないような未成熟な女生徒でさえ、普段は遠巻きにしている熊生くんと話す時は甲高い声を出し、肩を竦め、生まれつき備わっているのであろう雌の本能に従って体をくねらせた。
だが、熊生くんが特定の誰かと付き合っているという話はついぞ聞かなかった。
学年で一番の美人、読者モデルをしている大学生、肉感的な身体にスーツを纏った大人の女性。
口さがない級友は「ヤリ捨て」という言葉を使って熊生くんの女性関係を形容した。
その事を訊かれると熊生くんは「付き合わんでええから抱いてくれて、向こうから言うてきたんやで」と堂々と答えた。
熊生くんはいつも堂々としていた。
女子が近くにいるにもかかわらず下ネタ、というより彼自身の性について大っぴらに話すことがよくあった。
「朝二発は抜かな、昼間キンタマ痛なってまう」と言ってのける熊生くんの顔は特にニヤけるような事も無く、声を潜めることも無かった。
その大きさゆえに収まりが悪いのか、ズボンの上から股間の位置を調整することは日常茶飯事だった。
万事その調子なので、一部の女子から根も葉もない噂を立てられたこともあった。
だが、熊生くんはそういった輩にも公正に接し、くだらない噂など自然に消え去った。
熊生くんはいつも正しく、彼に後ろ暗いことなど何も無いと本当は誰もが分かっていた。
幼稚だった僕らは熊生くんに抱かれ、そして捨てられていった女たちと自分を勝手に同一視し、筋違いに傷付いていたのだ。
愚かとしか言いようがない。
熊生くんに抱かれた女たちは例外なく美しく、僕らが感情移入できる余地など絶無だったというのに。