明け透けな笑顔、作為的な驚き、茫洋とした酩酊。
それらの顔から顔へと視線を彷徨わせるうちに僕は一つのテーブルに辿り着いた。
ブラッドオレンジのカクテルに口を付け、同じテーブルの旧友たちと言葉を交わす。
十年経って初めて出席した同窓会は想像していたほど苦痛ではなかった。
はめを外し、まるで学生時代に戻ったかのように振舞っていても誰もがあの頃とは違う。
今や僕らは同じ場所に立っているのではなく、それぞれの場所に重心を置いたまま首を伸ばしてほんの一瞬顔を合わせるだけ。
この場で誰をどう思い、どう思われても今日限りという気楽さは清々しい。
旧交が乾いたままに温まっていく、その思わぬ心地良さに僕は戸惑ってすらいた。
だが、やはりそろそろ帰ろうと思う。
目的が果たせなかった失望に安堵しながら。
「そう言えば熊生は来てないの?」
その時、誰かが言った。
テーブルは熊生誠剛の話題で俄かに盛り上がり始めた。
熊生誠剛くんとは三年生で同じクラスになった。
もっとも、彼のことは入学当時から知っていた。
僕だけではなく、学校の誰もが。
ある時は教室で、ある時は講堂で、僕は熊生くんの巨体を列の後ろからいつも見上げていた。
本人が「サラサラヘアーやったらモテまくるんやけどな」と言う癖の強い髪を丸刈りにした頭は、周りから頭一つ分どころではないほど高い位置にあった。
同時に、彼は長身の若い男にありがちな線の細さとは全くの無縁だった。
ところどころテカった特大の学ランは筋肉の充溢に張り詰め、その厚みは同年代の倍では済まなかった。
ウェイトリフティングで日本一位。
公欠が多いのは五輪代表に呼ばれているから。
そんな噂、というより歴然たる事実が学校中を駆け巡り切らないうちに体育祭が催された。
熊生くんは体操服が全く似合わなかった。
その姿は大人が子供用のパジャマを着せられているような違和感を見る者に抱かせた。
柔な布地から突き出した熊生くんの腕と脚の筋肉は鉄骨を思わせ、生い茂る体毛は針金のようだった。
そんなアンバランスさを身に纏い、熊生くんは八面六臂の大活躍を見せた。
誰もが彼から目を離せなかった。
彼の筋肉が膨れ上がる度にどよめきが起こり、渦を巻く剛毛が揺れる度に溜め息が漏れた。
出場する全ての競技で楽々と勝利を収め、熊生くんは屈託ない笑顔を見せた。
進学を機に地方から引っ越してきたという彼の訛りも、僕らを魅了してやまなかった。
この世には選ばれた者がいるのだという事を、僕らは否応なしに理解した。
だが、熊生くんはそういう人物にありがちな横柄さや過度な自己主張とは無縁だった。
一方で、従順であるとか物静かであるといった印象を他人に与えない、堂々とした男性でもあった。
教員達も熊生くんに対しては扱いが少し違った。
教師と生徒という雰囲気ではなく、大人同士という態度だった。
かと言ってクラスで浮いているわけでもなく、むしろ人気者だった。
余計なことは言わないが、彼の返す言葉は特にユーモアを凝らしたわけでもないのにクラスメイトの笑いを誘った。
体育と数学を除いて成績はあまり芳しくなく、テスト期間は皆と同じように苦しんでいた。
しかし、特に仲の良い友人というものは僕が見た範囲ではいないように見えた。
そんな彼に対する僕の感情は、つまり憧れだった。
それを自覚したのは、彼と同じクラスになってすぐの事だった。
放課後、職員室で用事を済ませて教室に戻った僕はゆっくりと帰宅の準備を始めた。
無意味にペンケースの中身を確かめ、既に整っているプリント類をさらに整理してファイルに収める。
この間も、僕の全神経は教室の中心にいる熊生くんと、数人の男子生徒との会話に向けられていた。
とはいうものの、彼らは全員運動部であり、その会話の内容は僕にはよく分からなかった。
トレーニングで何㎏の重りを持ち上げられるかと言う話題だったが、どれほどの重さがどれほど凄いことなのか、運動に無縁な者には皆目見当も付かなかった。
意図的な遅滞にも限界が訪れ、僕は後ろ髪を引かれる思いで席から立ち上がった。
その時、僕の前に黒い壁のようなものが立ち塞がった。
重力が消えた。
天井が近付いた。
「軽い」
心臓を揺さぶるような低音が僕の左耳から送り込まれた。
かつてない距離で熊生くんと視線がぶつかった。
口にするのも落ち着かないが、僕は熊生くんに、いわゆる、お姫様抱っこで持ち上げられていた。
熊生くんはそのまま教室の中心に振り返った。
男子生徒たちの驚くような、冷やかすような声が聞こえた気がする。
彼らに応える熊生くんの横顔を見上げる。
荒く彫刻された眉の下の濃い陰影。
古代の石柱を思わせる立派な鼻。
肉厚でがっしりした顎は皮下の髭によって黒ずんでいた。
驚くべき事に彼の髭の剃り跡は顎の下から喉仏を越えようという地点まで広がり、剃り切れなかったものが釘のように飛び出していた。
僕はただ浅く呼吸をするしかなかった。
熊生くんの学ランに染み込んだ、男の匂いとしか言えない噎せるような体臭が僕を包み込み、逃がさなかった。
それは同級生の誰一人として──いや、今の僕の知っているどの大人も纏えない匂いだった。
熊生くんの体は彼自身が意識することなく、極めて優れた雄の存在を周囲に知らしめているようだった。
胸が苦しかった。
それは詩的な意味ではなかった。
僕の薄い胸が熊生くんの硬く分厚い胸板によって押し潰されていた。
彼が息を吐く時だけ、僕はわずかな酸素を吸う事を許された。
だが熊生くんは脆いものを扱う事に慣れていたのだろう、すぐに気付いて少しだけ体を離してくれた。
そして僕に向き直り、笑った。
深い断絶が刻まれた。
僕が絶対に真似する事の出来ない、あの投げつけるような、乱暴な、男性的な親しみ。
顔はのぼせたように熱かったが、僕の心の半分は春先の日陰のように冷えていた。
大人のつみき(レゴ)
2023-07-22 01:29:43 +0000 UTCmf
2023-07-21 15:54:52 +0000 UTC