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文章 wa_m
挿絵 ふろおけ
娼婦であるジナは娼館の馴染みの客である傭兵のトゥムルに身請けを申し込まれて、喜ぶではなく怒った。……まだ若いが世慣れた男だと思っていたのに、甘い事を抜かすからだ。
この街道宿から大人の脚で一刻程先にある領主の街、そこの傭兵ギルドに籍を置いている男だ。遠征からの帰途では真っ直ぐ街に向かわず、決まってこの場末の娼館に逗留するのを毎回不思議には思っていた。領主と教会のお膝元では値頃の店が少ないのだろうと勝手に考えていたが、とうのたった雀斑だらけの娼婦にここまで入れあげているせいだとはまさか想像もしていない。
「もうここの主には話を通してあるんだ……俺は明日、最後の仕事に発つ。あまり長くはかからない、半月かそこらで戻って来れる。そうしたら金を納めて、ジナはこの娼館を出るんだ。……もしよければ、そのまま俺の嫁になってほしい」
この言い草も気に喰わなかった。他人のために大金を積むのだ、手籠めにすると、嫁になれと横柄に命じたって咎める者は存在しないーー少なくとも、ジナの知る世間には。
アタシが拒めば、金だけ払ってアタシを自由にするとでも? それではトゥムルにどんな益があるという? ……そこまでしてもらえる程の価値はアタシにはない。
それはアタシ自身が一番よく分かっている。
「ーー何? また、ずっとダシてなくて溜まってるの?」
「まあ、男だらけの野営地で自慰する度胸はないし──」
「ふふ……傭兵さん達が言ってたわ。他の人間の倍は長く、アンタはずっと前線に潜りっぱなしだって。程々で退がって、後ろ詰めって言いながらそこらの村で娘と遊んでる男だって多いんでしょう? そういう息の抜き方も真似したらいい。根を詰めるから変な考えも沸くのよ」
「それで逗留先にされる辺境の村は、娘を手慰みにされて抵抗一つ出来ない。これが街道宿だったらせめて憲兵に訴えることも出来るだろうに……そういうものはあまり見たくないんだ。ジナを買っている俺が言ったところで、何の説得力もないだろうが」
「優しいのね? アタシのことは別にいいのよ。アタシ、アンタのこと好きだもの」
そう言って、剣を振るって鍛えた逞しい肩に触れた。期待にトゥムルの目が軽く見開かれるが、続く言葉でジナはその期待を裏切る。
「人間、怪我の一つでもすれば腕も足も腐り落ちてしまう。貴族様以外も診てくれるお医者様なんていやしない……だから誰でも生きてくる内にどこかを無くしてしまうものだって言うのに、アンタは指一本だって欠けてないわ。病気もなくて、立派な大きな身体。もっとアンタの売りを自覚なさいよ。偉ぶらない性格もいいし、それだけでも抱かれたい女はたくさんいるわよ? ……アタシじゃなくたってね」
トゥムルを突き放すため、わざと蓮っ葉な言い方を選んだ。
二人が初めて床を共にした時、トゥムルはまだ少年の面影を残していた。それからもう五年にはなるだろうか、金で買われる関係ではあってもジナが威圧的に扱われたことはただの一度もない。それどころか、酒席であってもトゥムルが他人に声を荒らげることを見た事がなかった。二十と幾つの齢の割に淡々と世を達観した枯れた風情だったが、実際に精が枯れているわけではないことはジナが身を以て知っている。
……そうだ、嫌いなわけがない。男として成長していく彼を近くで見てきたという愛おしさだってある。だからこそ、まだ成長するだろうこの若い男と何も持たない自分とでは釣り合いが取れないと思う。
強力な魔物が徘徊し隣国の侵攻まで危ぶまれるような暗いご時世だから、頑丈で健康な身体の男は何より好まれる。領主の街と各地の都、戦場、村々を転々とするトゥムルは行く先々の女達とも当然触れ合っている。傭兵という職業の不安定さを差し引いても夫に望む引き合いは多いだろう。トゥムルさえ上手く立ち回れば、耕作地に家付きの娘の婿に入ることだって夢じゃない。
「……何を好き好んで、財産もない年上の女を娶る必要があるのよ」
それを聞いたトゥムルは、俺の正確な齢なんて誰にも分からないと返した。
「俺は孤児だ。馬と行き倒れて死んだ老人が抱えていたそうだ……拾ってくれた傭兵隊のキャラバンにたまたまお包みの刺繍を読めた人間が居て、東方の草原の生まれだって事と名前だけは知る事が出来た」
道理で、この国では耳慣れない名前のはずだった。
「その傭兵隊もずっと前に壊滅した。……どこの人間も余所者には冷たいんだ。今の隊でどれだけ頑張っても客分から昇格することはなかったし、足を洗って所帯を持とうたって、天涯孤独の異国の男に自分の娘を本気で嫁がせる父親はいない。もう頼みになるのは金だけだってのに、税も高いしな」
「なら、ずっと先陣に詰めてたのは報奨金が欲しかったからかい? いいけど、そうやって殆ど戦って過ごして、せっかくたまに街に帰って来たと思えばアタシみたいな年増のところへ何度も通って……いつまでもそんなんじゃ、子を残す前に死んじまってもおかしくないよ?」
「……そうだな、子供は欲しいんだ。
俺が戦に明け暮れたのは難しいことを考えなくても済むからだ。俺は一人だ、死んだって構う事はないとずっと思っていた。だけどこの頃、考えが変わったんだ……いくさ場で死ぬ様な目に遭うと、ジナの中で精を出したくて堪らなくなる。お陰で帰って来れてる」
トゥムルはそう言ってくしゃっと破顔し、ジナの手を取った。
「野垂れ死ぬはずだった俺がこうして生き延びられたのも天命だって言うなら──俺の知らない父母や、もう居ない老人や傭兵隊が繋いでくれたこの血をさ、どうせなら残したいんだ。……出来たら、ジナと」
「……アタシと似たように身寄りのない、でもアタシより若い娘だってたくさんいるだろう! 子が欲しいなら絶対その方が──」
「旅人に聞いたんだが、東方では『年上の女房の婚資には金剛石を差し出せ』と言って持て囃されるそうだよ?」
「……やっぱりアンタだって、年上だと思ってるんじゃないかッ!」
ジナが声を荒らげるとトゥムルは笑っていなした。
「なあ? さっきからジナは、自分の望みを言わない。俺のことばっかりだ。それは、嫌われていないと思っていいか?」
ああもう、ああ言えばこう言う! アタシがこんなに心配してるって言うのに!
「勿体ない……ここにいるしか能のないアタシと違って、アンタはその自慢の両脚でどこにだって行けるんだよ⁈ 街道宿なんて真っ先にやられるってのに、こんなところで嫁とって子供産んでどうするんだって言うのさ!」
「じゃあ、俺と一緒に逃げればいい」
あっさりとトゥムルがそう言ったから、ジナには返す言葉がなくなった。なにせ、自分がどこか別の場所に行けるなんて考えたこともなかったのだ。
「それに能がないなんて嘘だ。館の女将から聞いたよ。ジナ、算盤が出来るんだろう? 俺はどこか平和な国へ行って、街道沿いで隊商宿でもやりたいんだ。色んな国の人間が通るところなら、いつか俺の故郷の話も聞けるかもしれない。……でも、俺は勘定が苦手で」
それを聞いたジナは目を剥いて、それから大口を開けて笑った。
本当にしばらくぶりに、心の底から可笑しかった。笑いが止まらない。
「……なに、器量でも嫁支度の財産でもなく、アンタは算盤なんかで女房を選ぶって?」
成程、それならアンタにもちゃんと利益はあるわけだ。いいね、その方が分かりやすくていい。好きだよ、そういうの。……ああでも、なんてまるで今気づいたとでも言うかのようにジナはうそぶく。
「最初に言ってた条件じゃあ、本当に勘定役だけってことでもいいわけかい?」
流し目でそうからかったジナの言葉にみるみる血相を変えてトゥムルは慌てる。
「それを宛てにしていたのも本当だけど、この娼館にばかり通ったのは俺にだって好みがあるからだ……」
トゥムルの目線が真っ直ぐジナの目の底を縫い留める。
「鼻につく香油じゃなくて、どこか草と土の匂いがするのが好きだ。異国の顏の俺を見て嫌な顔一つせず最初から身体を預けてくれたし、ちゃんと悦んでくれるのが分かって嬉しかった」
──これまでの女達はなんて勿体ないことをしたんだろう。
生まれが何だって言うんだ、多少見慣れない顏立ちでもはっきり分かるくらいにこいつは男前なのに。
「……俺は、お前しか欲しくない」
この界隈に生きる女達の人生に選択の余地がなかったのだとしても、貞操を失った彼女らに嫁に貰い手はまずいない。夫になる男も周りから蔑まれるからだ。仮に望んでくれる男が居たとしたらむしろ警戒した方がいい、賃金の要らない婢女として酷使されて一生を終わるかもしれない。それならまだ独身で死ぬ方がマシである。
それがここの女達が生き抜くための常識だったが、トゥムルに限ってそんな残酷な仕打ちはしないだろうと思ってしまう位にトゥムルの顏は真面目で、言葉は誠実だった。
内心では嬉しいに決まっているのに正直になれなかったのは、ジナ自身の自尊心の無さに依る。愛嬌はあるが日に焼けた田舎者の顔に、口さがない男が貧相と吐き捨てる肉の薄い身体が自分でも余り好きではなかった。それをトゥムルは全て肯定してくれた。
ジナがトゥムルを見つめ返すと、トゥムルは力強くジナの後ろ頭を引き寄せ、撫でた。トロンと力が抜けるジナの頤を掬い上げるようにしてトゥムルは深く口づける。舌の根ごと息を吸われるような甘い口吸いにジナは我を忘れ、そのまま寝台に押し倒された。
圧し掛かるトゥムルの身体が姿勢を変えようと身体を捩る度、目の粗い麻のチュニックの下に熱く太いトゥムルの逸物を感じて膣から暖かいものが溢れた。真っ直ぐ伸びてざんばらに切られたトゥムルの黒髪に鼻を埋めると、男の高い体温が醸した体臭が深く肺に落ちていく。寝台に沈みこんでいくような酩酊感を覚えてクラクラした。
「改めて言うぞ──。俺と、一緒になってくれ」
この男に抱かれるのは数か月振りだ。
夜は長そうだった。
……朝までねっとりと絞るように抱き潰されて、ジナは朦朧とした意識のまま身体をぐちゃぐちゃのシーツに投げ出していた。
トゥムルがジナを抱く時はいつもこうで、自分が性急に満足するよりもジナを追い詰めてよがらせることを愉しんでいる風だった。太く、血の巡りの良さそうな両の腿が絶えず腰を翻し、稀に見る程の大きな男根でジナの奥底を繰り返し浚っていく。さざめく風によって草原の緑が寄せては返すような、大らかで、果てがない抽送だった。
最初はここまで上手い男ではなかった。それを自分が育てたのだと今更気付き、ジナは腿と腿の間で甘く熟れた襞を痺れさせる。
普通、商売女が気を遣らされては疲れて生計に差し障って迷惑だが、こういう日のトゥムルは規定の三倍以上は金を落としていくから娼館からのお咎めはなく、むしろ上得意客の扱いだった。ジナにとっても一日、二日潰してゆっくり身体を休めてなお余裕のある収入になるのでこれまで決して悪い話ではなかったのだが、……それがもうじき、客ではなく夫として日常的にこの情交に付き合うことになると思うといささか不安がよぎった。
「今日もまた、無理をさせたな」
起きたトゥムルは、ほつれたジナのこめかみの髪を指で掬って横顔を撫でた。
「……行くの?」
寝台の脇に置いていた荷物の革袋から、土埃と血の匂いには似つかわしくないビロードの包みをトゥムルが取り出した。……中から出てきたのは、銀の鎖と翡翠のペンダントだ。石は小振りだが、夏に匂う緑のように深い色をしていた。
ジナの後ろ頭を片手で掬うように軽々と抱え起こすと、そのペンダントを自身の手で愛する女の首に提げた。不器用な太い指が小さな留め金具の上で何度も滑るのがジナは可笑しくて仕方がなかった。
「……帰って来たらまず旨い飯を食って、それからゆっくり移る国を考えよう。待っててくれよ」
「逃げないわよ。……ねえ」
「うん?」
「……必ず、帰ってくるのよ」
「……三〇〇〇〇〇セクメトですって⁈ 桁を間違えているんでしょう!」
トゥムルが去って、昼前に起き出したジナは自分の今後の相談のために娼館の主と面会し、そこで驚愕の事実を知った。自分の身請け金の額だ。
ジナはかつて家族に売られて苦界に身を沈めた。身請け金は自分の対価に家族が受け取った金……ジナの借金の残債に加え、娼館への祝儀、その他幾ばくかを包むことになる。後続の従業員が補填されるまでの日当相当の金額を補填する、といったようなものだ。
ジナはこれでも一応奴隷ではなく市民であり、法によって利子率は制限されている上にそれなりの年季を務めてきたから借金はあと僅かのはずだった。高級娼婦でもないのだから祝儀なんて嵩が知れている。知らされた額は法外以外の何物でもない。
「おい、失礼な事を言いなさんな。いつ土地を離れて逃げ出すか計らなきゃいけねえご時世だ、娼婦を買いに来る男は引きも切らねえのに娘っ子は寄り付かねえから成り手がいない。補填金が上がって当然だろう? 金勘定も出来ねえのか、学のねえ売女は」
「……!」
あまりの物言いに、女の立場が弱いこの館の中で主に手を上げてしまいそうになるのを奥歯を噛んで堪えた。トゥムルが帰ってくるまで自分で自身を守らなくてはいけないのだ。
「……ちなみに借金の完済を待とうと思えば、後三年はかかるだろうな。おめえもそろそろ年だ、皺の一つも出てくるだろう。客が付かなきゃ当然もっとかかる──まあ、ここまで戦火に呑まれればドサクサに紛れて逃げられるかもしれねえが。生きて逃げられればの話だな」
「う……」
「その点、あのトゥムルって若いのは器量のいい男っぷりだったぜ? 三〇〇〇〇〇セクメト、一括で払いましょうって即決だ! なんせ娼婦を上がれるなんて昨今珍しく景気のいい話だ、私もジナを祝って送り出してやれそうで嬉しいよ。あんな男、どうやってタラし込んだ? ううん?」
下卑た主の顏から目線を逸らす。
嘘だ。常に前線で戦い続けてそれなりの貯蓄があったトゥムルでも、この金額を躊躇なく払えるわけがない。自分達は足元を見られたんだということはジナにもすぐに分かった。
傭兵と娼婦は切っても切れない関係という事もあり、傭兵ギルドと娼館組合は昵懇の仲である。そしてジナの居る娼館の主、この男は娼館組合の幹部だ。店の馴染み客だった傭兵の懐具合を聞き知っていてもおかしくはない。
待つことには意味がない、どうせこの者どもはなんやかんやと理由を付けて身請け金を引き上げるだろう。刻一刻と拡がっていく戦火から逃げることも考えたら、もう今しか機会はない。だから、トゥムルは相手の腹積もりも全て承知の上で金を払うことを肯じた。
しかしあんな金額、払えたとしてもそれで無一文になっては今後二人で路頭に迷う。隊商宿の開業など夢のまた夢だ。現在のトゥムルでは傭兵業でしか稼ぐことができず、かと言ってジナを戦場には連れて行けない。――だからわざわざ今、路銀を稼ぐためにトゥムルは最後の仕事に向かったのだ。
「……トゥムルは半月もかからないで戻ると言ったわ。それで大金が稼げる仕事なんて、危ないことに決まってる。きっと知っているんでしょう? 教えなさいよ!」
「知っているんでしょうって……俺じゃなくても、街もこの宿場もその噂で持ち切りだぜ? なんせ、傭兵一人に付き報酬二五〇〇〇〇セクメトの大仕事だ」
「は……? なによ、その依頼って……?」
主は口の端に歪んだ笑いを貼り付けたまま、たっぷり一拍空気を取ってジナに告げる。
「それはな……例の、ハイオークの討伐だよ」
互いに多くの肉体的共通項を持ちながらも、野蛮で唾棄すべき種族としてオークは人間に憎まれていた。近しいからこそ却って、大きく裂けた口に覗く犬歯と腐って濡れたように見える鈍色の皮膚が醜く映る。
加えて、人を大きく凌駕する繁殖力と旺盛な精力が嫌悪感を増幅させた。肉体の構造が近似しているためか、オークの精で人間も妊娠してしまう。山菜を摘みに野山に分け入った女性が遭遇したオークの牡に孕ませられ、助けられてもやがて奇形の胎児に子宮を突き破られ、惨死するーーそんな悲劇が珍しいことではなかった。
人間にとって幸いだったのは、オークらの体格が人に近しいために肉体的な不利がそれほどなく、文明や技術において勝っていることだった。それによってオークを抑え込み、人間の生存圏を確保出来ていた。
しかしそれも、かつての話である。
識者なる者が言う事に依れば、人が生まれの土地によって肉体の差異を持つようにオークを含む数多の異種族も更に無数の種に枝分かれし、頻繁に混血を繰り返しているという。……過去のどこかの時点で、人の二倍、三倍の体長と大木を素手で圧し折る膂力を備えた混血児達が突然変異的に発生した。彼らはその身体的資質以上に、血と肉と色欲を余りにも好む残虐性によって瞬く間に人に知られるようになった。
これらの世代を以前のオーク達と区別するために、人間はハイオークという通称で呼んで恐れた。人の生活圏は辺境から蚕食され始めたが抵抗も甲斐なく、中央から派遣される重厚な鎧の騎士達でさえ片端からなぎ倒され時に全滅した。
街道の維持が滞るようになり、交易で栄えてきたこの国は斜陽を迎えていた。国境域ではオークだけでなく隣接する大国の軍事侵攻の影も見え隠れする。——そうした間接的なものを含めれば、ハイオークが齎したこの国への損害の規模はもはや天変地異と表現して差し支えない。
トゥムルが引き受けたのは、その危険なハイオークのうち街道近くに巣くった個体の討伐任務だった。これまでにもその個体には多くの隊商が襲われて虐殺されており、なお悪いことに積み荷が奪われていったらしい形跡を残していた。荷物には食料等の他に、文書、火薬、医薬品と言ったものまで含む。……この上オークが技術まで窃取するようになれば、事は一国の存亡を超え、この地方の人類の生存に濃い影を落とすことは間違いない。
同様の討伐依頼は過去に沢山あったが、その度に多くの傭兵達が犠牲になり帰還者が少ないことで知られていた。払われる先の無くなった報奨金が次の回に繰り越しになって、悪名と共に雪達磨式に膨れていって、……そんなことだから、破格の報酬にも関わらず今回の志願者はトゥムルを入れて三人にしかならなかった。
但し、他の二人は以前にも同様の任務を引き受け、依頼達成までは至らずとも生還を果たしている強者だ。何よりも生還が重要な今回の仕事で、組むのにこれ以上の相手は望めない。
オークは元々、多数では群れない。そして今狙っているハイオークは街道宿の北の山森に潜んでいるはずだった。山を分け入るのだったら、この人数の方が却ってオークに察知されず好都合だとトゥムルは考えた。
街を発つ直前、ギルドマスターに一人呼び出されたトゥムルはギルド内の食堂で豪勢な食事を供された。
『筋力と神経の反応を高めて、身体能力を底上げする特別な薬草をスパイスに使ってある。思う存分食って、持てる力を全て発揮して事に当たってくれ』
貴重とされるそういった薬剤は贋物が多く、もし真実本物であればとても高価な代物だった。それを無料で振る舞うなど、傭兵への融資さえ渋る吝嗇家のギルドマスターらしからぬ行いだ。
『……俺一人だけでいいのか?』
『正面戦闘の実力ならお前が抜きん出ている。ーーそのお前に、女恋しさで腰が抜けましたなんて言われたら溜まったものではないからな、怖気づいて引き返して来ないように精力剤代わりだ』
──前言を撤回する、いかにもこのギルドマスターらしい。
最高額の報奨金をかっ攫っては貯め込んでいる自分がこのギルドにもギルドマスターにも好かれていないことをトゥムル自身自覚していたが、いくら何でもその物言いは直截過ぎた。トゥムルは内心憤慨したが、文句を言う代わりに高価な料理を山盛り三皿平らげてやった。腹が減っては戦は出来ぬと言う。
肉も魚も果実もふんだんに使われたその食事は、確かに美味しかった。
その薬草の効果はすぐに出て、しかも長く続いた。
都を出てすぐに発汗作用を認める。身体が末端まで暖かく、血がよく巡っているのが分かった。
半日ほどで街道を外れ山に分け入り、そこから二晩経過したが効果はまだ切れない。余り眠たくもならず、寝ても目覚めがよく、全身の筋肉がよくしなった。
──そして。
そんな絶好調のトゥムルの前に今、オークの「野営地」が広がっている。「巣穴」でも「集落」でもなく、「野営地」だ。……それは、トゥムルの想像を大きく裏切るものだった。
(思ったより大きい……数も多い……!)
精々五、六頭の家族が群れるのが関の山だったはずのオークが、この一隊に限っては十五頭を下らない。更には、牝や仔と思しきオークがいない。全員が牡で、繁殖期にあると思われる強壮に膨らんだ肉体を持っていた。二頭程が周囲を警戒しており、他のオークは寝ていたり、食事の用意をしていると思われるものも居た。
そして木を編んだ即席の陣幕の奥に座す、頭目と思われるオークが一頭。
ただただ、大きかった。
その巨躯はトゥムルの二倍……いや、三倍程もあるだろう。最早オークというより伝説の巨人族と見紛う肉体は、無骨な鋼のようなゴツゴツとした筋肉で全身鎧われている。巨大な頭部と眼球に比べて瞳孔が小さいために眼力が鋭く、何本もの角と牙で縁取られたその容貌は見る者に本能的な恐怖を齎した。
疑う余地はない。これが話に聞いていたハイオークだ。
(しかしこれは、まさか──軍隊か?)
ハイオークの出現は、オークの生態や社会構造すら変貌させたらしい。若くとも経験豊富な傭兵であるトゥムルは、この時点で依頼の達成不可を悟った。
この世界で、オークは嗅覚が弱い生物と知られていた。光も煙も出せない代わり、小さな香をくべて信号を送った。しかし他の二人からの返信がない。
(……何が起こっているのかは知らないが、一人でも一旦退こう)
そう考えたトゥムルが後ろを向く。
──そこには、トゥムルに向かって棍棒を振り下ろそうとしている一人のオークがいた。
「んなッ……!」
「ウゴロォォォォッォオッ!」
間一髪、トゥムルは低い体勢から跳ね起きて一閃を避ける。雄たけびと共に、低木の丸太程も太く重い棍棒が土を深く抉った。
先程掠め見たハイオーク程ではないにせよ、このオークも熟達した人間の戦士かそれ以上の体格だ。その膂力は今見た通り。
そして、今の雄たけびで他のオーク達もトゥムルに気付いた。全速力で走って逃げる他に術はない。スタミナが保つかどうかは考えなかった。
目の前のオークの脇をすり抜けて、木の根が這いまわる山の獣道をトゥムルは跳ぶ様に走り出した。あの太く強靭な脚力に敵う保証はないが、あるいはその体格差こそが木々に阻まれる山の中では勝機になりうると信じて。
オークの陣幕があった尾根を駆け降り直下の沢へたどり着く。行手を阻む木々の無いここを下って行けたらどんなに楽か知らないが、それでは身体の大きいオークが有利だ。
向かいの森の中へもう一度身を隠すため、沢を跳んで渡ろうとした。
——。
(あ、れ?)
清流から頭を出した岩場に飛び移ろうとしたが、腿に力が入らずにうまく跳べなかった。着地に失敗し、苔で滑って水の中に転げ落ちる。
(嘘だろ、なにやって、あれ……なに、)
革鎧や鎖帷子の隙間から一瞬で冷たい水が浸入し、ぐっしょりと肌着が濡れて重くなる。その布が、鎧が、水の流れが重くて上手く立ち上がれない。
(そんなわけ……なんで……)
満身の力を籠めて立ち上がり、対岸の土に手をついてようよう這い上がる。振り向いたトゥムルの目に、沢へ降り立ったオーク達の姿が見えた。
(疲労……? いや、毒……? そんなもの受けてない、なんで、そんな……)
いま自分がようやっと這って渡った沢を数人のオークが一足で飛び移る。トゥムルはすっかり囲まれていた。
そこで、ビリビリと背骨まで震わせる声が空間に響いた。
『……アキラメロ、人間』
剣を杖に、へたり込んでいた地面からトゥムルがようやく立ち上がる。元来た方を見て頭を上げると、木々を掻き分け引きちぎるようにしてハイオークがその巨体を現していた。
(死ぬ……こんなのを相手にすれば……殺される……)
それは空に向かって聳える灯台のようだ。その頂上から二つの眼光が過たずトゥムルを見下ろしていた。
『……オマエ、ダーラ草、食ッタナ? 葉モ、実モ、全部……。アレヲ食エバ全身ガ緩ンデ、腹ノ中ノクソヲ全部垂レ流ス。臭クナイ肉ニナル。
──最期ハ息モ出来ズ、惨メニ死ヌ』
理解の出来ない生き物が自分に理解出来る言葉を吐いたのを聞いてトゥムルは狼狽えた。
「お前、なに、ぃっ……て、ぇ……?」
意思疎通ができる程人語に慣れたオークというのも目を疑う存在だったが、目の前の事実を受け入れる他ない。信じられないものは既にたくさん見ているし、疑問を反芻する程の余力はもうトゥムルには残っていない。
相変わらずトゥムルの身体に力は入らず、それどころかますます抜けていく。肌が濡れて冷える筈の体温が天井知らずに上がっていき、びっちゃりと汗をかいていた。
呼吸が浅い。
『ホカノ人間ハ逃ゲタナ……今回ノ供物ハオ前ダケカ……詰マラヌ……』
(草……スパイス、まさか、あの、食事……)
オークの言葉で、咄嗟にギルドマスターに提供された最後の食卓を思い出した。
その言葉をどこまで真に受けるべきか分からない。しかし、報酬を提示してこの仕事をトゥムルに受諾させ、向かう場所を明確に指示したのもギルドマスターだ。
「ど……し、て……」
『……街一ツ位ナラ今スグ滅ボセル。シカシソレデハ、タクサンノ人間が一気ニ押シ寄セル……コレハ、我ラノ子ガ数ヲ増ヤスマデノ時間稼ギダ』
「んな……ェ……?」
『街ヲ攻メナイ、ソノ代ワリ、人間、我ラに供物ヲ差シ出ス。酒ニ薬草、武器、兵器……ソウイウ取引ダ。人間ハ愚カダナ』
そう言うとオーク達が揃ってせせら嗤う。
その言葉を信じるのであれば、これから訪れる人類の苦難を予期してなおオークに与した人間の裏切り者がいることになる。
俄かには飲み込めないが理屈は付けられる。恐らく耐えきれなかったのだろう──国力の下がった現在の国では中央から騎士団が派遣されてくるのには時間がかかる上に、その騎士達ですらハイオークに勝てる確信はない。そんなものを待つ間に辺境領などたやすく滅ぼされる。
トゥムルの背負ってきた荷物をオーク達が回収する。中には先程使った香や薬草だけでなく、油紙に包まれた火薬や最新の銃器も入っている。平時より手厚い支給装備だとは思っていたが、丸ごとオークへの貢物だとは予期できるはずもなかった。
『人間ノ肉、甘イ、旨イ……モットモット街道ヲ襲ウ、喰イタイト言ッタ。
スルトナ、代ワリヲ差シ出スカラ止メテクレト言ウノダ。街道ニ人ガ寄ラナクナレバ、街ニモオークニモ益ガ薄イ。ナラバ、要ラナイ人間ヲコチラカラ選ンデ送ルト言ッタ。
……薬草ヲ使ッテ自ラ臭ミ抜キマデ始メタノダカラ、嗤ウシカアルマイ?』
過去に還らなかった傭兵達もそうした目的でオークに差し出されていたのだろう。生還者は、恐らく協力者だ。
自分が罠をかけられた理由の方だったら、考えるまでもない。自分が戦場で命を落とせばギルドマスターが喜ぶであろうとは薄々思っていた。だが、積極的に罠をかけられるとまでは思い至らなかった。自分の甘さにトゥムルは歯噛みした。
(くそ……クソ……!)
悔しかった。……意識だけははっきりしているのに、肉体が自分のものじゃないみたいに重く、遠く感じるようになっていく。一秒ごとに死が近づいてくるのが分かる。
「俺は……生きて帰るんだ……! ジナの、俺の女の所へ……死んでッ、たまるかぁああああッ!」
そう叫ぶなり、太腿に括っていた短刀を抜き放つと自分の左腕に突き刺した。
「ギっ、ィィいいいッ!」
『オマエ……ナニシテイル……?』
強烈な痛覚が遠ざかりつつあったトゥムルの五感を引き戻す。跳ねた背骨に力が少し蘇った。臍の奥に意識を集中する。そのまま短刀をハイオークの顔面に向けて投げ付けた。
ハイオークはたじろがない。
手も足も動かさずただ頭を軽く振ると、額から突き出た大きな角の内一本が当たって短刀は明後日の方向に逸らされる。
その間にトゥムルは駆けだしていた。狙うは一直線、ハイオークの足だ。それに気づいたハイオークは腕を伸ばして捉えようとするが、トゥムルは掻い潜るようにそれを避けた。手に切り付けても、それを気にすることなく刃ごと握りつぶしてくるだろうと想像できたからだ。
『薬モ効イテイルダロウニ……小賢シイ……』
「だらああああッ!」
左の太腿に向かって剣を横薙ぎに振るった。左手が使えなくなったから右の片手のみで叩きつけたそれは大して重くはなかっただろう……しかしそれにしたって、肉にも届かずその皮膚で止められた刃を見てトゥムルは愕然とする。
(鱗もねえのに、なんて固さだ……!)
「……ッ、喰らええっ!」
剣の柄に左腕を交差させ体重を乗せるように、自分の身体ごとタックルして圧し斬ろうとする。
『ムグ、ウッ!』
ぐぶりと、厚い皮膚の下にようやく刃が潜り込んだ。そのまま転げると、ハイオークの太腿の筋繊維が深く抉れて断ち切られる。後ろに倒れ込んだハイオークは、沢に尻を付いて盛大な水しぶきを上げた。
「オグォォオオォォオォッ⁈」
他のオーク達の動揺を伝える声が轟いている。それを気に留めることなく、再度トゥムルは走り出した。身を翻して森の木々の中に身を隠す。
トゥムルは躊躇せず、止まらなかった。――オークがダーラ草と言ったそれは薬効が長いのではなく、有効成分が排出されず身体に留まり続ける遅効性の神経毒だった。末端からゆっくりと脊髄を遡る麻痺はやがて中枢を侵し、筋弛緩の果てに緩やかに、確実に窒息死させられる。
しかしトゥムルはそんな恐れは脳裏から消し、愛しい女の元に帰るというただそれだけを考えて足を動かした。……そうでなければたちまち殺されるということを、何よりその身体で理解していたからだ。
帰るんだ。
帰るんだ。
『グ……ブゥ……』
ハイオークの大きく切り裂かれた太腿で、溢れる血液が粘っこい泡を立てていた。……傷が見る間に修復されていく。この個体の能力は、最早オークと言う種族の限界を遥かに凌駕していた。
『人間ノクセニ……ナカナカ、ヤル……』
立ち上がり、前方の木々を掻き分ける。あの人間はどこまで逃げただろう。手こずらせてくれるならそれはそれで構わない、楽しむことができる。
──しかし。
ハイオークは、自らの大股でたった十歩ほど歩いた位置でトゥムルが地面に倒れ伏しているのを見つけた。
パタリ、パタリと両脚が無為に宙を掻いている。……まだトゥムルの脳内では、彼は走れているのだろうか。
「かえる……んだ、かえ……る……ン……ぁ……」
瞳孔が開き切っている。口の端から絶え間なく唾液が漏れ、厚手の布と皮で覆った股間は臭くて茶色い染みを広げていた。
『……オワリカ。ツマラナイ』
ハイオークはトゥムルの革鎧の襟首を大きな鉤爪の先で摘まみ、トゥムルの身体をつるし上げる。そのまま沢に引き返すと、残っていたオーク達の前に男の身体を投げ出した。
オーク達は汚れたトゥムルの装備を引き裂き全裸にすると、トゥムルが携行していた荷物から結わえ紐を解き、彼の両脇に通した。そのまま、トゥムルの身体を清流に投げ込む。一晩こうして、トゥムルの腸から便が排泄され切るのを待つつもりなのだ。
(ぐぶ……ぅぶ、ごぼ、)
身体の自由は利かなくても意識ははっきりしていた。
――死にたくない。
この期に及んでもまだトゥムルの生存本能は旺盛なままで、どうにか激しい流れの中で頭を空に向けて呼吸を確保する。
『死ンデハイナイカ。ヨイ……喰ウスンゼンマデ生キテイタホウガ、肉ハウマイ』
(しにたく……ない、しにた……くない……)
オーク達が一旦、尾根の方へ帰っていく。後には、便を垂れ流す傍から水に洗われて脱力感に涙をこぼすトゥムルが一人残された。
後編 → https://black-hurooke.fanbox.cc/posts/1955631
ascian
2021-02-26 13:56:37 +0000 UTCふろおけ
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