イントロダクション①
Added 2023-02-04 22:39:56 +0000 UTC俊充(としみつ)は、大きく鼓動する胸の音をどうすることも出来ないまま、緊張した足取りでマンションの廊下を歩いていた。 辿り着いた部屋は604号室。その扉の前で、インターフォンも押さずに扉をじっと凝視した。 (・・・・どうしよう) 逃げ出したい気持ちに駆られるが、しかしこのチャンスを台無しにするわけにはいかないとも思う。なにせこの扉の向こう側、俊充をここに呼んだのは、俊充の通う高校でプリンセスと呼ばれる夏鈴(かりん)だ。 芸能人レベルの整った可愛くも美しい顔立ち。長く艶のある金髪の毛先を淡いピンク色で染めた長髪。170cmと高い身長とスレンダーな身体。誰にでも優しく接し、笑顔で場を明るくする彼女を羨望の眼差しで見つめる生徒は多い。俊充もその一人だ。俊充は今年入学した1年生で、夏鈴は3年生。夏鈴の在学最後の年に入学できたのは幸運とも感じられた。 そんな憧れの人が扉の向こう側にいて、自分を待っている。その状況に俊充は高揚と緊張が入れ混じる気分だった。 もしかして、夏鈴は自分のことが好きなのでは。そんな妄想めいたことを俊充は何度も思った。だがそう思う度に頭を振って能天気な妄想を払いのけた。そんなわけがない。高校のプリンスと呼ばれる夏鈴が、何の秀でた特徴もない自分なんかを好きになるわけがないのだ。だが、それならどうして・・・・。 俊充は思い返す。三日前、夏鈴に呼び出された時のことを。 「俊充くんさ、次の土曜日空いてる?」 俊充らが所属している吹奏楽部の練習後、放課後の人のいなくなった部室で、夏鈴はそう俊充に訊いた。 「えっ、土曜、ですか」 「そう。うち来ない?」 夏鈴と二人きりの状況ですら緊張で頭が回らなくなるのに、出てきた言葉は自宅への招待。俊充は心臓がドキドキとうるさく鼓動するのを感じながら、もつれそうになる言葉を必死に紡いだ。 「家、ですか?」 「うん。友達とクッキー作る約束してたんだけどさ、ドタキャンされちゃったんだよね。代わりって言い方は嫌な感じだけど、どうかなって」 「でも俺、クッキー作りなんて経験ないですよ」 「大丈夫。作るのは私だけでやるから、俊充くんにはその間の話し相手になってほしいの。一人で黙々とやるのもつまらないし、食べてくれる人がいないと作り甲斐もないからさ」 それなら家族にでもあげればいいんじゃないかと俊充は思ったが、そえを先回りするように夏鈴は口を開いた。 「うち、片親なんだよね。お母さん死んじゃっててさ。お父さんはいま出張中で来週まで帰ってこないから」 「あ、そうなんですね」 「そ。だからといって学校に持ってくるのは何か緊張するしさ。みんな気使いそうだし。その点、俊充くんは信用できるかなって」 夏鈴は何かと俊充を気にかけており、俊充自身もそれは感じていた。男子生徒の少ない吹奏楽部で孤立しそうになっていた俊充を女子部員の輪に自然に馴染ませたのは、夏鈴の手腕によるところが大きい。親睦を深めたいからと、苗字ではなく名前で呼び合おうと言い出したのも夏鈴からだ。 そんな夏鈴が自分を信用できると言っていることに、俊充は嬉しくなってたまらなくなった。 「それで、どうかな」 「もちろんです。俺でよければ行かせてもらいます」 俊充の返答を聞いた夏鈴は笑顔になり、長い髪をゆらゆらと揺らしながら手を合わせた。 「ありがと。頑張って美味しいの作るね!」 その日、帰宅して早々に俊充は姉の部屋の扉を叩いた。 「姉貴ー。入っていい?」 「んー?」 俊充が部屋に入ると、大学1年生の俊充の姉、円花(まどか)がベッドに寝転んでスマホを触っていた。 「姉貴、聞きたいことあんだけど」 「なにー?」 円花はスマホから視線を外さずに適当に答える。部屋は服やら雑誌やらペットボトルやらメイク道具で散らかってはいるが、相変わらずのことなので俊充は気にしない。 ミルクティーベージュ色のセミロングの髪をしたやや丸顔の円花は、自室の汚さや家族に見せる適当な態度からは考えずらいが、多くの後輩や同級生たちから人気を集める女だ。弟である俊充から見ても整っていると感じる顔立ちに、170cmを超える高い身長と大きな胸。文武どちらにも優れた成績を持ち、特に音楽の才能は秀でている。俊充が中学の頃から吹奏楽部に所属しているのも、円花の影響が強い。 「今度女の先輩の家に行くんだけど、なんかいいお土産知らない?」 同年代の女性の家に行くことなどほとんどない俊充にとって、何を手土産に持っていくかはかなりの難題だった。夏鈴とも歳が近くてそういう系の情報に通じている円花の意見を参考にしようと考えたのだ。 円花は特に興味無さげに答える。 「んー、何しに行くかによる」 「お菓子ご馳走してもらうんだけど」 「なら、なんかいいジュースでも買ってけば?駅前にあるデパートに紅茶の専門店とかあるし、そこで適当に見繕えば」 「・・・・なるほどな」 「まあ、紅茶が苦手な人だっているし、いろんな種類を持ってけばいいんじゃないの?」 「サンキュー。参考になった」 そこで初めて、円花は視線をスマホから俊充に向けた。 「それで、誰ん家行くの?」 「・・・・姉貴に関係あんのかよ」 「そりゃあ、可愛い弟が女子の家に招待されるなんて見過ごせないじゃない。先輩?」 「・・・・ああ」 「じゃあ私も知ってるかも。名前教えなさいよ」 「・・・・小宮夏鈴先輩だよ」 「・・・・。そっか、知らないや」 「そうかよ。それじゃあ、あんがと」 そう言って俊充は部屋を出ていった。閉じられた扉をじっと見つめていた円花は、視線をスマホに戻す。その表情には笑みがあった。 「そっかー。あの1年生ちゃんが、俊充にねぇ」 何かの気配を感じて、円花は嬉しそうに微笑むのだった。