「はぁ〜っ……松嶋課長、めちゃくちゃ格好いいよなぁ……」
昼休みの終了間際。俺は誰もいなくなった会社の屋上で、うっとりと呟いた。今年の春に俺が新入社員として入った会社の上司、松嶋浩道 課長は、仕事の出来る男でルックスもいい。元ラガーマンで、今も逆三角形のシルエットを保っているそのガタイは、かなりスーツ姿が似合う。日焼けした浅黒い肌に、刈り込まれた口髭。ツーブロックの髪型も、彫りの深い顔立ちに似合っている。そして低く渋いバリトンボイス。パワハラやセクハラとも無縁で、部下の指導も的確。女性社員の間でも人気がある。既婚者で、妻と高校生の息子がいるらしい……というところまでは、俺も聞き及んでいた。
「どれ、仕事に戻りますか」
俺は屋上を後にする前に、屋上の隅にある小さい社の近くに捨ててあった菓子パンの袋を拾うと、階段へのドアに向かった。この社の謂われは詳しくは知らないが、会社が立つ前にあった神社を移したものなのだとか。
「お待ちなされ。そこの若いの」
「えっ! あっ、はい!」
急に呼び止められて、俺は慌てて振り返った。いつの間にか社の前に、小柄なおじいさんがいた。白髪でにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべていて、藤色の和服を着ていた。なんでこんなところにおじいさんが? という俺の疑問をよそに、おじいさんは口を開いた。
「ここ数ヶ月、お前さんの仕事ぶりを見とったが、なかなか見どころがある若者じゃ。しかも屋上にゴミが落ちていれば、いつも拾っておる」
「いえ、まあ……その、どうしてもこういうの、気になってしまうので……」
もしかして、会長や相談役とか、そういったお偉いさんなのか? という想像が頭によぎりつつ、俺はどぎまぎしながら受け答えた。悪いことをしているわけではないし、むしろ褒められているのだが……このおじいさんからは、何もかも見透かすような雰囲気が感じられて、体がこわばるのを感じた。その緊張を見て取ったのか、おじいさんが優しい口調で言った。
「あー、よいよい。そこまで畏まらんでも。どれ、お前さんが欲しいものを言ってみなさい。この会社の中にあるものなら、なんでもいいぞ。ワシが用意してやろう」
俺は恐縮しつつ首を横に振った。
「いえ……見返りが欲しくてやったことではないので……」
「あー、謙遜せずともよいよい。こういうときは、素直に褒美を受け取っておくもんじゃ。【この会社の中にあるもので、お前さんが欲しいものを言ってみなさい】」
にこにこ笑っていたおじいさんの言葉に、静かな重みを感じた。その言葉を聞いた途端、俺は衝動的に自分の欲しいものを口にしていた。
「──営業部の松嶋課長が欲しいです」
「ほう。松嶋か。あやつもなかなか出来る男よな……あやつの何が欲しいのじゃ?」
「全てです。体も、心も、松嶋課長の全部が……欲しいです」
一体俺は、なんて非常識なことを口にしているんだ!? と思ったが、どうしても本音を喋ることを止められなかった。上司の全てが欲しいなんてことを俺から聞かされて、おじいさんは変な顔をするだろうと思ったのだが、しかしおじいさんは笑みを崩さなかった。
「ほほう……あいわかった。しばし待つが良い。今日の帰りまでには用意してやろう」
※
「平山くん、ちょっといいかな?」
その日の夕方。退勤しようとしたところで、松嶋課長から呼び止められた。そのイケオジっぷりに、俺の心が浮足立つ。汗臭そうな厳つい外見なのに、整髪料と課長自身の体臭が混じったいい匂いがする。制汗にも気を使っているのだろう。
「はい。なんでしょうか」
「平山くんの今後のキャリアについて、面談しておきたいことがあってな……ちょっと場所を移そうか」
他にも新入社員は大勢いるのに、なぜ俺だけに? という疑問がよぎりつつ、俺は課長に付いて小会議室に入った。もしかしたら、個別に話しているだけで他の新入社員もこういった面談をしているのかもしれない。5~6人分の机と席があるだけの小会議室の電気をつけると、俺は松嶋課長に促されて着席した。課長は真剣な口調で俺に告げた。
「実は上から、平山くんを課長にしてはどうかという話が出ている」
「えっ! 俺がですか?! 無理ですよ!」
思わず大声を出してしまった。入社して数ヶ月の俺が、課長に!? 係長にもまだなっていないのに、いきなりすぎる。これは松嶋課長の冗談なのか? と思っていると、さらに課長は信じられないことを告げた。
「もちろん平山くんには、まだ経験も何もかも足りないことはわかっている。そこで、私の課長としての経験を、平山くんに譲ろうと思う」
ん??? どういうことなんだ??? と俺が訝しげな顔をしていると、松嶋課長は困ったように濃い眉根を寄せ、話を続けた。
「すまない。私の言い方がわかりづらかったな。【平山くんには私と入れ替わる形で、課長になってもらう】ということだ」
「えっ? それじゃ……課長は降格になって、俺が課長になる、ってことですか?」
「うーん……そういうわけではないんだ。入れ替わるというのは、役職の話じゃなくて、体の話だ。【私が平山くんの体になって、平山くんが私の肉体になる】んだ。【脳は私の脳を使うから、平山くんは問題なく、私の仕事を引き継げる】と思う」
真剣に話す松嶋課長。俺はこれが壮大な冗談なのではないかと思いつつ、一応真面目に尋ねた。
「あの、入れ替わるって、何かの比喩表現とかじゃなくて、本当に体が入れ替わるってことですか?」
「もちろんそうだ。上からは【平山くんが私の体と心を欲しがってる】と聞いてな。私のところに打診があったんだ。私も悩んだよ。46年間の人生と、家族やキャリアを手放すことになるからな。だが██さんから熱心に説得されるうちに、私もだんだん、平山くんになりたくなってきたんだ」
課長が口にした人名は、なぜか聞き取ることが出来なかったが、あのおじいさんのことだ! と俺は直感した。そして課長は男前な顔に照れ臭そうな笑みを浮かべると、俺の瞳を見つめた。そこには、どこか陶酔のような色が浮かんでいた。自分がこれから新入社員である俺の体になってしまうかもしれないというのに、それが楽しみでうっとりとしているようだ。課長は話を続けた。
「平山くんは仕事の覚えも早いし、私のセカンドキャリアとしても悪くない話だと思ってな。どうだ? この話、受けてみないか?」
俺の返事は、決まりきっていた。
※
「はい。ぜひお願いします」
答えた途端に、視界が回転した。混ざる。溶ける。目の前にいる松嶋課長と、自分の境界がわからなくなっていく。どっちが自分だったのか。22歳の平山健司と、46歳の松嶋浩道。ゲイの独身男性と、ノンケの既婚男性。野球部だった平山健司の学生時代の記憶と、ラグビー部だった松嶋浩道の学生時代の記憶が混濁していく。
(あっあっ! 俺……松嶋課長になっちまうッ! いや、私が平山くんになってしまうのだったか?)
わからない。自分がどっちだったのかわからない。自分の初恋相手が中学校の頃の筋肉質な体育教師だったのか、同じクラスの女子生徒だったのか。最近射精したのが松嶋課長をオカズにしたオナニーだったのか、妻とのセックスだったのか。ただひとつ言えるのは、今この瞬間、平山健司と松嶋浩道の心は混ざり合って一つであり、そしてそれがとても──気持ちよかった。肉体という枷が外れて、魂同士が触れて、溶け合うような──快楽の海の中に己が落ちて、パシャっと飛沫を上げて溶けてしまうような──
「んあぁぁ〜〜〜ッ!!!」
唐突なオルガスムスと共に、私は現実に引き戻された。さっきよりも体がやけに肉厚で、がっしりとしたものに感じられる。股間はドクンドクンと脈打ち、今も下着の中に大量の精液を吐き出し続けていた。射精後の倦怠感と開放感が、どっと体に押し寄せてくる。そして私が松嶋課長とすれ違う度に、密かに嗅いでうっとりとしていた課長の体臭が、今はとても間近に感じられた……小鼻をヒクつかせながら、自分の体を見る。ゴツゴツとした大きな手には、左手に結婚指輪があり、ストライプ柄のワイシャツは胸板が分厚く盛り上がっていた。私は、46年間慣れ親しんだ──同時に、つい先ほど手に入れたばかりの自分の体を、うっとりとしながら愛撫した。そしてそれは、目の前にいるもうひとりの男──平山くんになってしまった松嶋課長も同様のようだった。
「あぁ……よかったっす……俺が……平山くんに……」
芋臭さが残る顔つきの新入社員、平山健司が、うっとりとした口調で呟いた。とろんとした目つきで、自分の体を抱きしめるような仕草をしている。
「んっ……俺っ……さっきまで、松嶋課長だったのにっ……いまは平山くんで…………しかも、俺のことが、好き……ッ?!! えっ、そうだったん……ですか?!」
「そうだ。私は同性愛者だった。そして、松嶋課長に対して、恋愛感情を持っていたんだよ」
私は、私になってしまった松嶋課長に──平山くんにそう告げた。私の分厚い胸板の奥で、きゅぅんと切ない感情が湧き上がった。私があれほど恋い焦がれていた憧れの上司である、松嶋課長の体も心も手に入れてしまったいま、ある意味で私は失恋したとも言えた。私が心から愛している人は、今は妻である早苗になっていた。高校時代から付き合って恋愛結婚した彼女のことを、とても愛おしく思っている──さっきまで顔も名前も知らなかった女性に対して愛情を抱いていることに、戸惑いもあったが……それは紛れもなく、松嶋浩道になってしまった私の本心であった。
そしてその次に愛しているのが、私自身──松嶋浩道であった。先ほどまでゲイであった私の人格や嗜好は、もともとの松嶋浩道の心と溶け合ってしまったように思える。今の私は男に対する性的な興味もあるにはあるが、なによりも妻の次に愛おしいのは私自身──松嶋浩道自身だ。私は、自分が熱烈なナルシストになってしまったことに鼻息が荒くなるのを感じていた。帰ったら鏡の前でポージングしながら、じっくりとオナニーに耽りたい。そんな破廉恥な妄想をしつつ、私は上司としての体裁を取り繕いながら、平山くんになってしまった松嶋課長に告げた。
「松嶋課長。これで面談は終わりです。以後は私が、松嶋浩道としての人生と業務を引き継ぎます。なので松嶋課長も、平山健司としての人生と業務の引き継ぎをお願いします」
「はい……わかり……ました」
入れ替わった挙げ句、元の自分のことが好きで好きでたまらなくなってしまった松嶋課長は、まだ恍惚とした様子だった。私の一挙一動に見惚れ、私の低いバリトンボイスに聞き惚れているのが伝わってくる……先ほどまでの私が、そうだったのだから。その気持ちに報いてやりたい気持ちもないではなかったが、しかし愛妻家である松嶋浩道としての記憶と人生を引き継いでしまった私にとって、男が相手とはいえ、浮気するのは耐え難いことになってしまっていた。淡々と事務的に連絡事項を告げていく。
「それと、この面談は業務に関連することだから、タイムカードもつけておくように」
「あの、平山さん……いえ、松嶋課長!」
私になってしまった松嶋課長は、椅子から立ち上がると、顔を真っ赤にしながら口を開いた。
「その、松嶋課長は、さっきまで俺だったから……俺の松嶋課長への気持ち、よくわかるんですよね?」
「ああ。もちろんだ」
私も立ち上がると、平山くんの瞳をまっすぐに見た。平山くんは恥ずかしそうに目を伏せると、絞り出すように告げた。
「その、俺……松嶋課長のこと、好きです。でも、課長が奥さん一筋なのも、俺もわかってるんです。俺が……さっきまでそうだったから。だから、今の俺の気持ちが、松嶋課長にとって迷惑なのも……よくわかるんです。それが、すごく苦しくて」
「松嶋課長……いや、平山くん」
私も立ち上がると、平山くんの前まで歩いていき、彼に向かい合った。松嶋課長は私になったことで、いきなり元の自分への恋愛感情で心がぐちゃぐちゃになっているのか、目に涙を浮かべていた。そんな松嶋課長に対して、私も真摯に自分の気持ちを伝えた。
「お互い、人格も性的指向も入れ替わったことで、色々と苦労することはあると思う。私自身、松嶋課長の体と心を手に入れてしまうのがどういうことか、入れ替わるまでよくわかっていなかった」
「……はい」
「私自身、妻を裏切るようなことはできない。君も私だったんだから、これもわかるね?」
「……」
松嶋課長は──平山くんは涙を堪えながら、頷いた。私はそんな彼を抱き寄せ、厚い胸板に顔を埋めさせてやった。ビクッと平山くんの肩が震え、続いて戸惑いがちに私を抱きしめ返した。
「あ、あの、課長……これは……」
「先に断っておくが、私は君と肉体関係を持つことはできない。だが……男同士で、腹を割った本音の友人付き合いというのは、できると思う。酒を酌み交わしたり、休日に一緒に過ごしたり……私が友人たちとフットサルをしていることは、君も知っているね? 共にフットサルで汗を流すのもいいだろう」
「……それは」
「これは業務とは関連ないことで、もちろん強制するつもりはない。私との付き合いが、かえって苦痛になるようなら、また別な──」
「いっ、いえ! ぜひお願いします……平山さんと……松嶋課長と、ぜひ、友人として……お付き合い、したいです! それだけで、今の俺は充分幸せです!」
こうして、私になってしまった松嶋課長と、松嶋課長になってしまった私との奇妙な友人付き合いが始まった。
※
私と松嶋課長が入れ替わってから、一ヶ月が過ぎた。松嶋課長の家族も、会社の人間も、フットサルチームの友人たちも、私の中身が別人になっていることに気づいていない。一方、私になってしまった松嶋課長はというと、最初のうちこそ脳みそが私の──新入社員の平山健司の脳みそになったことで、戸惑いがあったようだ。課長時代の記憶は残っていても、考え方や仕事の段取りの付け方は、新入社員なのである。しかし一ヶ月経つ頃には、目に見えて仕事の能率が上がっていた。今や将来有望な新人として、営業の仕事を頑張っている。私は上司として、平日は平山くんを指導しつつ、休日は共にフットサルを楽しんでいた。そしてフットサルの後は、平山くんの家に寄って、シャワーを借りることが日常になっていた……お互いの「実益」のために。
「しかし、何度経験しても、妙な気分だな」
私は平山くんのアパートに上がり込むと、スポーツウェアを脱いで一糸まとわぬ姿になり、汗臭い体のままポージングをしていた。その足元で、平山くんが──私になってしまった松嶋課長が、鼻息を荒げながらチンポを扱いていた。
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