4月の上旬。日が暮れるとまだ肌寒さが残る中、公園に咲いた桜を、街灯が照らしていた。帰宅途中だった豊村哲司は、足を止めて桜の花を眺めていた。最近、家に帰る足取りが妙に重い。
(しかしどうして……俺はこんなところで道草を食っているんだ?)
哲司自身にも、なぜ家に帰りたくないのかわからなかった。豊村哲司。32歳。大手商社の営業マンで、仕事も順調。妻の亜希子とは半年前に結婚したばかりで、今は新築のマンションで暮らしている。学生時代にラグビーで鍛えた体は、多少は贅肉が付いたものの、週末にジムに通うことで体型を維持していた。何も心配や不満に思うことなど、ないはずだ。
哲司は桜を見上げながら自問自答していたが、やがてため息を吐くと、再び歩き始めた。マンションのオートロックを解除し、自宅のドアを開けると、妻の亜希子が出迎えた。
「あ、おかえりー、テツくん」
「ああ、ただいま」
「晩ごはん、あとちょっとで出来るよ。それとも、先にお風呂にする? それとも……」
妻が恥じらいながら、エプロンの裾を掴んだ。なんだ。何も心配なんてないじゃないか。哲司は苦笑した。新婚夫婦にありがちな「ご飯にする? お風呂にする? それとも……わたし?」という会話。一緒に暮らし始めた最初の頃、哲司はしょっちゅう「亜希子にする」と答えて、帰宅早々に夫婦の営みに励んだものだ。いっそ今日も、そうしてしまおうか? しかし哲司は、次に妻が発した言葉に耳を疑った。
「それとも……『ミツハシさん』にする?」
「……は?」
ミツハシさん? 誰だそれは。靴を脱ぎかけていた哲司が、眉根を寄せて、妻を問いただした。
「えっと……亜希子。誰なんだ? その……ミツハシさんって」
「もう! テツくんったら……ミツハシさんはミツハシさんでしょ。おとといも、テツくんは帰ってすぐにミツハシさんと……あっ、もう! 恥ずかしい……!」
何を思い出したのかわからないが、亜希子は顔を真っ赤にすると、パタパタとスリッパの音を立ててリビングに行ってしまった。
※
哲司は夕食を食べている間も、妻が言った「ミツハシさん」という人物のことを考えていた。
(そんなやつ、俺たちの共通の友人にはいない……よな。何なんだ? 亜希子の冗談なのか?)
亜希子は哲司の向かいの席でテレビのバラエティ番組を観ながら、あれこれとクイズの答えを予想している。先程の奇妙な言葉のことなど忘れてしまっているようだ。番組がCMに入ったので、哲司は再び「ミツハシさん」のことを妻に訊いてみた。
「なあ、さっき言ってた『ミツハシさん』ってどんな奴なんだ? 最近知り合ったのか?」
「え? テツくん、本当にミツハシさんのこと、わからないの……? 今も一緒にご飯食べてたじゃない」
「は? え……!?」
妻が指差す先には「三人目」の食器が空になって置いてあった。そこに座っていたはずの人物の姿は既にない。哲司は口をパクパクと開けたり閉じたりすると、上擦った声で妻を問い詰めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。『ミツハシさん』って、いつからここにいたんだ? 俺が帰る前から家にいたのか?」
「帰る前っていうか……もっと前だよ。えーっと、一ヶ月前くらい前かな。テツくんが一緒に連れてきたんじゃない。忘れちゃったの?」
「一ヶ月前!?」
哲司には全く覚えがなかった。俺は一ヶ月間も、赤の他人と暮らしていて気づかなかったのか? いや、そもそも俺はなぜ、そいつを家に連れてきたのか? 様々な疑念が胸の裡に浮かび上がる。
「そ、そのミツハシさんは、なんで俺達と暮らしてるんだ?」
「うーん、よくわかんないけど……気にしなくていいんじゃない? ミツハシさんも言ってたじゃない。【僕のことはあまり気にしないで】【普段どおりにしていてください】って。ご飯は欲しいって言われてるから、お出しているけど」
哲司の頭の中に、歪んだ金属音が響いた気がした。
【ミツハシさんのことは、あまり気にしてはいけない】
「う、うーん……そう……だよな。俺の気にしすぎ……だったよ」
哲司は短髪をポリポリと掻いた。リビングのソファーに座っている見知らぬ男が、視界の隅に映っていたが、気にしないことにした。
※
しばらくすると哲司は風呂場へと向かった。シャワーを浴びて、体を洗い始めた哲司。「ミツハシさん」それ自体を考えようとすると、頭がぼんやりしてしまうので、違った切り口から考えることにした。
(そういえば、亜希子が言っていたな。『おととい、ミツハシさんと俺が何かをした』って……あれは……?)
おととい。記憶の糸を手繰っていた哲司の呼吸が、急に荒くなった。帰宅した哲司を出迎えた「ミツハシさん」と、哲司は──
「あっ! あぁぁああっ!!」
哲司の視界に、自分の乳首が入った。ここ一ヶ月「ミツハシさん」の愛撫を受け続けた乳首は、肥大化が始まっている。鼻息を荒げながら身悶えると、勃起したペニスが腹筋をぺちんと打った。
──ここ一ヶ月。哲司も亜希子も、ミツハシさんに犯されていた。
なぜ、忘れていたのだろう。横で寝ている妻が、見知らぬ男に犯され、喜悦の声を上げている姿を。なぜ、思い出せなかったのだろう。妻が寝ている横で、尻に男根を挿入され、獣のように喘いでいた自分の姿を。
(許さないぞ……ミツハシ!)
【ミツハシさんのことは、あまり気にしてはいけない】
(クソくらえだ!)
哲司の脳に刻み込まれた命令。それはミツハシさんに対する関心を、薄れさせようとしてくる。命令を無視すると、ズキンと哲司の後頭部が痛んだ。
(ぐっ……早く、俺がミツハシのことを覚えているうちに、何とかしないと)
シャワーを中断し、乱雑にバスタオルで体を拭いて脱衣所を出る。元ラガーマンの屈強な肉体があらわになる。肩を怒らせ、ノシノシと廊下を闊歩する哲司。寝室から、妻のあられもない声が漏れ出ていた。
「亜希子っ!」
寝室のドアを開けると、全裸の妻がベッドの上でヒクヒクと痙攣していた。そして、今しがた妻を犯し終えた男──ミツハシが、哲司を見てニヤニヤとしていた。
(んっ……ぐっ、なんだ、コイツは……)
ミツハシを直視しようとすると、頭がぼんやりしてしまう。哲司は視線を床にずらし、視界の端で捉えることにした。ミツハシの風貌は、贅肉がみっちり付いたビール腹の中年男……のようだ。濁った中年男の声が新築のマンションに響いた。
「あれぇ〜? 旦那さん、また目が醒めちゃったかな? 困りますなぁ、こう頻繁に思い出されても」
「だ、黙れ。もう騙されないぞ……ミツハシ! 即刻、この家から出ていって貰うからな!」
「んふ♡ カッコいいなぁ……哲司くんは。いやぁ、血気盛んな体育会系って感じで、実に僕好みだ」
ミツハシはベッドから降りると、無防備に哲司に近寄った。哲司はミツハシを殴りつけてやろうと思ったのだが……。
(か、体が……動かない……?!)
「覚えていないと思うけど、哲司くんが僕に逆らうのは、これで三度目なんだよね。うーん……どうしようかな。存在を薄れさせても駄目みたいだから、今度は思いっきり……濃くしてみようか?」
ミツハシは太ましい指で、哲司の陰茎をむんずと握った。哲司は嫌悪感から体をそむけようとしたのだが、しかし、足はフローリングの床に根を張ったかのように動かなかった。
「それじゃあ哲司くん。僕とちょっとおしゃべりしようか。哲司くんは、僕のことが嫌いなんだよね?」
「あ、当たり前だろう!」
「ンフフ……それはね【僕が哲司くんの初恋のオジサンにそっくりだから】【恋心を意識してしまって】【それを否定したくて、嫌いな態度を取ってるだけ】なんだよね?」
「なっ!? ち、ちが……」
違う。そう否定しようとした哲司の脳裏に、先程まで存在していなかった記憶が捏造され、浮かび上がる。哲司が小学校高学年の頃、隣のアパートに住んでいた中年のオジサン。いつもタンクトップ姿で、贅肉の詰まった彼の太鼓腹を、二次性徴を迎えつつあった哲司は性的な目線で追っていた。そして、オジサンの家に遊びに行ってお菓子を食べていたときに、哲司はオジサンに告白して──
(おっ、俺……こんな、中年オヤジ、好きなんかじゃ──)
バーコードハゲのオジサンと哲司はキスをし、さらに幼い陰茎をしゃぶられ、哲司は精通した。その時のオジサンと、ミツハシは瓜二つではないか?
「んふ♡ だから哲司くんは【ブサメンなオジサンが大好き】で【そんなオジサンたちにモテたくて、ラグビーで体を鍛えた】んだよね」
「あっ、うぁっ……!」
哲司の青春時代の思い出が汚されていく。ラグビー部に入ったのは、監督が哲司の好みのオヤジだったからということに記憶が改竄される。いつの間にか、哲司は唇の端から涎を垂らしており、小鼻の穴が開いたり窄んだり忙しなく動いていた。ミツハシの加齢臭を吸い込むたびに、哲司の肌は火照り、男根が固さを増していく。ミツハシに対する嫌悪感が、徐々に好意へと変わっていく。
(いっ、嫌だ……こんなオヤジ、俺は好き……なんかじゃ……でも……すっげ、エロい……あのビール腹……)
涙目でミツハシを睨みつける哲司だが、しかしそうしている間にも、ミツハシのブサイクな顔立ちを「愛嬌がある顔立ち」だと感じ始めていた。あの分厚い唇にキスをして、舌同士を絡み合わせたい……そう考え始めていた己に気づいて、哲司は愕然とした。
「あっ……ああっ……やっ……もう、やめてくれ……このままだと、俺ッ……! おかしくなっちまう!」
「んふふ♡ 哲司くんの性癖、すっかりブサメンのオジサン好きになっちゃったね。これで下ごしらえはバッチリ。それじゃ、あとは僕個人への愛情を限界まで上げていくね。哲司くんはね【快感を感じるほど、僕への愛情が高まっていく】からね。だから【絶頂に達すると、僕への愛情がMAXになってしまって】【それは永久にそのままだからね】」
「あっ、やめっ……!」
哲司はミツハシによって、ベッドに押し倒された。逞しい両足を自分で持たされ、ちんぐり返しの体勢にさせられる。抵抗したい。逃げ出したい。だが──
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