その現象が起こったとき、わたしは通学のために電車に乗っていた。
当時、高校2年生だったわたしは──桜川彩音は、朝の満員電車の中ですし詰めになりながら、つり革に掴まっていた。後に知ったのだけれど、その現象自体は、日本時間でいう朝の7時27分頃に起きたのだという。その頃、わたしの乗った電車は、ちょうどターミナル駅に着く直前だった。
(あれ? なんだろう)
電車の外。空が一瞬、ピンク色に光った気がした。わたしは首を傾げて、顎を撫でた。ジョリッという、固いモノが擦れる感触がした。誰か身近な人が付けているのか、男性用の整髪料の匂いが強く鼻についた。何かがおかしい気がしたのだけど、電車はそのままターミナル駅に着いて、わたしは大量の乗客と共に駅のホームに吐き出された。
(なにか、いつもと違う気がするのよね……)
身体がいつもより重い気がする。昨日は部下と飲みに行ったけど、そんなに飲まなかったつもりなんだけどな。わたしは考え事をしながら、他の乗客と共に駅のエスカレーターに乗った。そのままいつも通りにバスに乗って、会社の最寄りのバス停で降りたとき、わたしはようやく、違和感の正体に気づいた。
「ていうかわたし、なんで会社に行こうとしてるの?」
わたしの喉から、低い声が漏れた。自分の身体を見ると、紺色のスーツとワイシャツを身に着けていた。金属製の腕時計をした左腕は太く、日焼けしていて毛深かった。わたしの身体が、オジサンになっている! わたしはそのまま会社に入ると、男子用のお手洗いに駆け込んだ。
「これが……わたし……」
鏡には、日焼けした中年のオジサンが映っていた。彫りが深い顔立ちに顎髭が似合っていて、渋めで格好いい外見だ。身体も結構──引き締まっている方だと思う。ワイシャツ越しだけど、胸板も厚い。スーツの股間に触ると、ぐにゅりとした膨らみがある。わたしは顔が赤くなるのを感じた。
「え、えっと……わたしは……田澤雄市……でいいのよね?」
わたしの名前は田澤雄市。年齢は46歳。立羽商事の営業課長。ここから5駅離れたところに自宅マンションがある。家族は妻と、高校生の息子、中学生の娘の4人暮らし。今日は確か、ミーティングが午前と午後に1件ずつ入っていて──。
(あれ? な、なにこれ?)
何度思い返してみても、田澤雄市としての人生しか思い出せない。でも、電車に乗る前は違ったはずなのだ。わたしはこんなオジサンじゃなくて、えっと……誰だったんだっけ?
わたしが思い悩んでいると、スーツの内ポケットに入っていたスマホが鳴った。知らない番号からの着信だ。わたしが迷いながら電話に出ると、若い女の子の声がした。
「はい。田澤です」
「もしもし? 俺か? ああ、えっと……田澤雄市の携帯だよな?」
「はい。田澤雄市はわたしですけれど……どちらさまですか?」
「違う。俺が田澤雄市なんだ。君は、桜川彩音なんだろう?」
「あっ!」
そのとき、堰を切ったように、わたしの脳内に桜川彩音としての記憶が溢れ出した。
※
「やあ、えっと……綾音ちゃん。いや、田澤さん? その……お互い、どう呼べばいいんだろうな?」
「ええっと……ちょっとお話を整理させてくださいね。わたし、今朝まではあなただった……つまり、女の子だったんですよね?」
「ああ。そして俺は、君だった。田澤雄市だったんだ」
会社が定時で終わったあと、わたしは駅前の喫茶店で、桜川彩音ちゃんと待ち合わせた。ひと目見ただけで、すぐに分かった。わたしはこの女の子だったんだ、って思うと、もう二度と戻らないものが目の前にあるみたいに、胸が切なくなった。まるで子どもの頃の、昔の自分を見ているみたいに懐かしい。目の前の女の子も、感慨深げにわたしのことを見ている。彼女は注文したコーヒーを一口飲むと、話を続けた。
「実を言うと、俺も全部覚えているわけじゃないんだ。実際、自分が誰なのかって考えると『俺は桜川彩音だ』という実感がすごくある。ただ、田澤雄市としての記憶も残っているから、覚えている番号に電話してみたんだ」
「えっと、わたしの方は、全然覚えていないんです。確かに電車に乗る前は、こんなオジサン──あ、ごめんなさい。男の人だった気がしないんです。でも、田澤雄市としの記憶しかなくて、なんとなく会社に出社したときに、電話が掛かってきて」
「とりあえず、お互いの身体の方の名前で呼び合おうか。俺もその、実感としては『自分は桜川彩音だ』っていう感じがするからさ」
「わかりました。その……桜川さん」
「綾音でいいよ。君のことも、雄市さんって呼んでいいかな。お互い、全くの他人というわけじゃないんだし」
「はい。それじゃ、彩音ちゃん」
わたしと綾音ちゃん──今朝まで田澤雄市だった女の子は、お互いの情報を交換し合った。そこからわかったのは、この入れ替わり現象は、わたしたちだけじゃなくて、広範囲で起こっているらしい、ということだった。そしてほとんどの人は、そのことに違和感を持っていないみたいだった。
「言われてみれば、確かに部下の森下くん、ギャル言葉だったんですよね。でも、それを聞いても、いつも通りの森下くんだ、って気がしちゃってて」
「俺の方もだ。俺の担任で、磯村先生っていうゴリラみたいな体育教師がいるんだが、今日はぶりっ子みたいに唇を尖らせて、甘えた女の子みたいな喋り方をしていた。なのにクラスの連中は、それをおかしいとは思っていなかったんだ。クラスの女子も下品な男みたいな振る舞いになっていて、体育の着替えのときなんかすごかったんだぞ? あと、男子は全体的になよなよっとしていて女性っぽかったな」
どうやら前の身体の記憶を保っている、綾音ちゃんのような人は少数派のようだった。綾音ちゃんは他のクラスメートに、自分の身体に違和感がないか訊いてみたが、なんとなくみんな変な感じはしているけど、その理由まではわからないようだった。わたしが注文したパフェを半分ほど食べた頃、彩音ちゃんがスマホの画面を見せてきた。
「ただ、全くいないわけじゃないらしい。昼休みにSNSで検索してみたんだが、俺みたいに前の身体の記憶がある奴もいるみたいなんだ。その中の数人と連絡を取っておいたから、後で紹介するよ」
「ありがとうございます。それで、これからどうしたらいいでしょうか?」
「うーん……とりあえず、お互いの身体に合わせて暮らすしかないだろうな。俺の方もそうだったが、この身体の記憶はあるから、暮らすのに不都合はないんだよな。あとは今日お互いの家に帰ったら、家族の中で、入れ替わりに気づいている人がいないか、確認してみよう。結果がわかったら教えてくれ。あ、俺の携帯の番号、登録しておいてくれよ」
※
「ただいまー」
「おう! 帰ったか!」
わたしが家に──田澤雄市のマンションに帰ると、ドタドタとした足音と共に、キッチンからエプロン姿の女性が現れた。田澤早紀。わたしの奥さんだ。わたしはドキッとした。今までの夫婦生活も全て思い出せるし、結婚式の記憶も、交際していた頃の記憶もあるのに、なんだか他人事のように変な感じだ。
(やっぱり、早紀も男の人と入れ替わってるみたいね。言われなかったら気づかなかったけど)
「ええっと。あのさ、ママ」
「先に風呂に入っといてくれるか? 晩飯作っとくからな。ん? なんだ、パパ」
子どものいる夫婦によくあるように、雄市と早紀は互いに「パパ」「ママ」と呼び合っていた。わたしはキョトンとしている顔の早紀に、例のことを尋ねてみた。
「なんだか今朝から、変な感じがしない? その……自分の身体のことで」
「おっ! やっぱり、パパもそう思うか?」
早紀はニカッと笑った。あれ? もしかして覚えているの? とわたしが期待していると、早紀は色っぽい目つきになりながら、自分の胸をエプロンの上から揉んで、唇を尖らせた。
「なんつううかよう。俺って、こんなに色っぽい人妻だったんだなぁ……って、今朝気づいちまったわけよ。おかげで午前中は一人でマンズリこいちまって、昼飯が遅くなっちまった。やっぱ、パパもそう思うだろ?」
「あっ、えっと……うん。ママ、やっぱり可愛いなって思うよ」
「くぅ〜っ! 嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。女冥利に尽きるってモンよ。ひとりで切なく、愛しの旦那様の帰りを待った甲斐があったぜ。今日は早めに洗い物済ませるから、たっぷりベッドで楽しもうぜ。安全日だから、生で俺の中に出していいからな」
早紀は左手の人差し指と親指で輪を作ると、右手の人差し指をその中に出し入れする、卑猥なジェスチャーをしてニンマリ笑った。どうやら早紀の中に入っているのは、スケベなオジサンのようで、しかもそのことに無自覚なようだった。性格はスケベなオジサンのまま、田澤早紀としての人生を違和感なく受け入れいているみたいだ。
(未完)
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こちらは「世界中で入れ替わりが起こるが、ほとんどの人は入れ替わりに気づいていない」というコンセプトです。ただし、性格は入れ替わった相手のものに上書きされている感じですね。入れ替わり後の主人公の自己認識や、出勤後の様子を掘り下げて書きたいなと思っています。