なにも見えない。
あれ。私どうなったんだっけ?
背中がじんわりと暖かい。まるで誰かに抱きしめられてるみたい。
そいつはだいぶ太ってるらしい。
垂れた胸と突き出た腹の感触が伝わる。
あんまりにも密着しているから、私の胸や腹も同じ形になっている。
その肥満体型と同じ姿になったみたいで、なんだか恥ずかしい。
えっ。どういうこと?
どれだけ密着していたって、身体の輪郭が移るわけがない。
だけど、感覚としてはそれが明らかに正しい。
まるで骨も内臓もなくなったみたいだ。
この前見かけたぺしゃんこの猫――車に轢かれた――を思い出して、ぞっとする。
私、死んだの?
でも身体は暖かいし、どくんどくんと鼓動の音も聞こえる。
これは私のじゃない。
後ろのやつの体温と心拍だ。
誰かに抱きかかえられてる? どこかで倒れた?
意識が明瞭になるにつれ、状況がわかるどころか、ますます自分がどうなっているのかを把握できなくなっていく。
「……」
なにか聞こえた。
でも耳で聞いた気がしない。全身が震えて、それでわかる感じ。
答えようとしたが喋れない。舌が動く感触とかそういうものがない。
私はもしかして、だいぶ重傷なのか。
なんとか身体をくねらせてサインを送る。私はここだ! 助けてくれ!
「うおっと!」
今度ははっきりと聞こえた。野太い男の声。驚いてるみたいだ。男の心拍数が少し上がった。
ん? なんで私、そんなことがわかるんだ?
だって、しっかりと震動で伝わってくる。密着してるから。
私の肩のあたりが急にぐんと動いた。えっ? と思ったら、次の瞬間に肉厚な、太い指が生えている手で腹のあたりをぱんぱんと叩かれる。なに? 意識があるかどうかの確認? でも、それでお腹をこんな風に叩くことってあるのかしら。私はいまの自分のお腹がどうなってるかを考えて、急に恥ずかしくなる。私のお腹は、いま後ろにいる男の体型のせいで、同じような太鼓腹になってしまっているのだ。叩かれるとますます身体の境目が曖昧になって、まるで自分があのクソ怪人そのものになってしまったみたいでどきっとする。
クソ怪人? 誰だっけ。
「おーい、意識あんのか? その姿になってどう思う?」
再び野太い声が響く。知っている。聞き覚えのある声だ。身体が警戒態勢を取る。
こいつはたしか危険なやつ――そう認識した途端、頭の中がぱきっと明るくなり――一斉にさっきまでの記憶がなだれ込んできた。
偶然S級怪人"ヴォルフガング"を発見したこと。
殴りかかろうとしたら、奇妙な攻撃を受けて、力が入らなくなったこと。
熱に浮かされたような気分に無理やりさせられたこと。
やつがまるで風船のようにむくむくと膨らんで、その巨大な腹に押し付けられたこと。
そして――
「……!! ……ッ!!」
凶悪な怪人が自分のすぐそばにいることに気づき、慌てて身を捩るが、やつからは一歩も離れられていないようだった。息遣いがわかるくらいにぴったり密着したまま動けない。くそ。私はどうなってるんだ? そしてオオカミ怪人は何をしている?
「…えーっと、いま、お前、服になってんだよ。わかるか?」オオカミ怪人ののんびりした声が響いた。
……。
?
意味がわからない。
いまなんて言ったんだ?
「急に震えが止まったな。ひょっとしていま『意味がわからない』って思ってたりするか?」
合っている。だが、これは応答すべきなのか? 居心地の悪さからもぞもぞと身体を動かしてしまう。
「声は聞こえてんだな。だけどたぶん目は見えてないだろうから……鏡はだめか。フラシャの野郎からテレパシー的なやつを買って……んん……めんどくせえな……心の声まで聞きたいってわけじゃねえし……」また私の肩が動いた。オオカミ怪人ががしがしと頭を掻いているらしい音がする。「まあ伝えるだけ伝えとくか」
「ええと、もう一回言うぜ。お前はいま半袖のTシャツだ。俺が催眠をかけたらちょっと…なにかヘンになって、そうなった。しばらく意識がない感じだったが、俺が着てみると動き出して、なにやら意識がありそうな状態になったので、こうやって話しかけている。ここまではわかるか?」
だから、なにを言っているんだこいつは。頭がおかしいのか?
オオカミ怪人のたわ言を無視するために、再び自分の状況を整理しようとする。
そこで自分の身体が明らかにおかしいことに気づいた。
私の身体は――オオカミ怪人に密着され、やつと同じような輪郭に変形している。
そんなこと、普通の肉体だったらあるわけがない。
まだ、やつの催眠にかかっているのか?
出し抜けに、オオカミ怪人の手が私の肩を触った。妙に優しく触っているような感触が却って気味が悪い。なんなんだ、なにをしようとしているんだ。オオカミ怪人の手は、そのまま肩から手の方へと滑り降りて――。
ぞわりと、全身が毛羽立った。
肩から先がない。
私の身体は、肩口のあたりで途絶えている。
まさか。最悪の想定が脳裏をよぎった。
恐怖で、自然と身体が震えてしまう。
オオカミ怪人の手が再び私の肩のほうに戻ってくると――。
その断面に指を突っ込んで、内側からまさぐり始めた。
「――――ッ」
私は傷口をえぐられる激痛を予想して身を縮こませるが、不思議なことに痛みで悶えることはなかった。
ただ、身体の内側から触られる奇妙で不気味な感覚だけが続いている。
まさか。これは。さっきから、こいつが言ってる通り。
「わかるか? ここが袖口だ。半袖だし、サイズ合わねえから、だいぶ肩の上のほうにいってるけど」
いまの自分の正確な輪郭が、勝手に頭の中で形作られていく。
オオカミ怪人が腕を上げると、私の肩も一緒に上がる。
まるで私の肩から、オオカミ怪人の腕が生えているみたいに。
今度は頭のあたりを、オオカミ怪人の指がつうっと撫でた。
「ここは襟だ。こっから俺の頭が出てる。なんかこう……頭のあたりを貫通してると考えるとアレだけど、まあ細かいことは気にしないほうがいいんじゃねえか」
今更すぎるどうしようもない気遣いだ。
私はとうに混乱していた。
たしかに、そこに私の頭はある。さっきから考えている。
だけど、その頭を貫くようにしてなにか暖かいものがはみでて、上に伸びていた。
頭頂部のあたりにふさふさした毛のようなものがずっと当たっているのがわかった。
オオカミ怪人の手が、さっきから私の胸のあたりを触っている。
私のやわらかに膨らんだ乳房じゃなくて、大兵肥満の男の、垂れ下がった大福みたいな胸。だけど私の身体とオオカミ怪人の身体のサイズが合ってないので、垂れ下がった部分を持ち上げるようにパツパツに張っている。肉が脇のあたりにまではみ出しているから、オオカミ怪人が腕を下ろすとそこの肉が挟まって私にシワができる。
わかるようになってしまっている。私でなく、オオカミ怪人の身体の様子が。
そんな。こんな馬鹿な。あるわけない。こんな馬鹿なことが。
そのまま腹を触られる。いや、オオカミ怪人がオオカミ怪人の腹を触っている。私越しに。私の感覚は腰のあたりで途切れ、そこから下はなにもなかった。突っ張った腹の頂点に引っ張られてすこし私が浮き、私とオオカミ怪人の隙間にそよそよと風が入り込んでくる。
オオカミ怪人の手が背中に回り――そこで私はようやく、背中があることを思い出した。
私はオオカミ怪人に後ろから密着されているのではなく。
内側から押し上げられて、膨らまされ、拡げられて、体温で暖められ、身体の動きと連動し、ぴったりと張り付いているのだった。
そして、それを『着られている』と言うであろうことを――私は受け入れざるを得なかった。
「……ッ! ………っ!!」
私をどうするつもりだ、と問い詰めたいが、やはり言葉は発せられない。
そもそも、口がないのだ。
なんとかして離れようと全身に力を込めるが、やはりもぞもぞと蠕動するのが精一杯で、そのうえ少し動くたびにオオカミ怪人のスーツの表面に――そういえば、こいつなんでスーツの上からさらに着てるんだと思ったが、それはこの際どうでもいい――ぴたりと張り付いたり浮いたりを繰り返すので、余計に自分が薄っぺらな生地だと実感してしまう。なんて辱めだ。いまこの瞬間にも、私は多くの怪人たちに囲まれて見世物にされているのだろうか。そして散々汚されて嗤われた挙句、手でびりびりと引き千切られ――あるいは、ハサミで少しずつ切り刻まれ――いや、火に放り込まれて生きながら焼かれて――
「――――――ッ……!!!」
あまりにも恐ろしい現状に陥っていたことに気付き、愕然とする。
人ですらない。慰み者にすら満たない。
物として扱われ、捨てられる末路しか存在しないのだ。
たとえ破壊されずとも、放置されればもはや私に為すすべはない。言葉を発せず、周囲を見ることもできずに少しずつほつれ、虫に食われ、湿気を吸い、カビに分解されて、ただの糸屑と埃になっていき、そのどこかで意識が砕けて消失する。
いやだ。違う。やめてくれ。こんなのは幻覚だ。まだやつの催眠にかかっているだけだ。そうであってくれ。
もし、そうでなかったら。
ガタガタと全身が震えだす。
息ができない。していないはずなのに、ひゅうひゅうと冷たい棘が喉に刺さる感覚がする。嗚咽がどこにもない口にこみ上げてくる。
ごめんなさい。ごめんなさい。許して。もうしません。助けて。もう二度と襲ったりしない。許して。せめて捨てないで。脱がないで。このまま着ていて。脱がれたら。どこかにしまわれたら、捨てられたら、もうなにもわからない。
「ちょっ、わっ、やめっ、くすぐってえって!!」
オオカミ怪人が身をよじる。そして、ゆっくり私を撫ぜながら
「落ち着け、落ち着けって、なんかお前が想像してるような酷い目に遭わせるつもりはねえって……ええっと、つまみ、つまみ、こういうときのは……あった」
くりくりくり。
私の中でなにかが回って。
その瞬間、私の震えは嘘のように止まった。
「………?」
さっきまでの自分の感情が信じられない。
私はなにを怯えていたんだろう?
オオカミ怪人が、そんな酷いことを私にするわけがない。考えるまでもないことだ。
全身が弛緩してくる。
すると身体がふわりと柔らかく伸び、まるで草原に寝転ぶみたいに、オオカミ怪人に身を預けているような姿勢になった。
ああ。リラックスする。
服ってなんてラクなんだろ。
限界まで力を抜いても、着てる人が支えてくれる。
それに暖かい。
内側からじんわりと温められていい心地だ。お風呂に入ってるみたい。
脇の下とか、胸と腹の間とか、肉が段になってるところだと、肉と肉に自分の身体が挟まれてて、余計に暖かい。
オオカミ怪人の手が、また胸のあたりを触ってくる。
全身が高鳴った。そんなとこ触ってくるなんて。やだ、まだ、心の準備が。
でも、形はほとんどオオカミ怪人の胸だし、別にいいのかな。
よく考えたら、いま私って、ほとんどオオカミ怪人と同じ形してるんだ。
そう思うと、急にドキドキしてきた。
急にどぎまぎして、さっきまではっきり区別できてたはずの、私とあいつの身体の境目がわからなくなってくる。なんだか全身が溶け出してきそう。
染み込んじゃいたい。
だって、考えるのが面倒になってきたもの。このまま溶けて、オオカミ怪人の中に溶け込みたい。そう決意すると、なんだか本当に全身がとろけてきたような気がしてきた。意識がうすぼんやりしてきて、ふわふわとした心地になって、なにもかもがどうでもよくなっていく。
「うわっ、ちょっ、待てって! ええ……」
オオカミ怪人が焦ってる。どうしたんだろう。このまま受け止めてくれればいいのに。
くりくりくり。
また頭の中で、なにかが回る音がした。
途端に意識がしゃっきりする。
そしてさっきまでの自分の感情に愕然とする。
私、なんて畏れ多いことを考えてたんだろう。
オオカミ怪人様の服である私は、こうしてしっかりオオカミ怪人様を守るのが役目なのに。
そうだ。思い出した。オオカミ怪人様に完膚なきまでに敗北した私は、彼に仕える道を選んだのだった。
最後に見たあの巨大なオオカミ怪人様は、私に授けられる洗礼のイメージ。
心を捧げてもよかった。彼の手先として、戦闘員になっても良かった。だけど私はあの方の身に纏う布になることを選んだのだ。それが私に一番相応しい姿だと思ったから。
どうしてだっけ? 思い出せない。でも、些細なことだ。
考える必要などない。私は服なのだから。
私はただオオカミ怪人様のご意思のままに動くしもべ。
私はオオカミ怪人様の恩寵を受け、その御姿の一部を授かった臣下。
私は愚かにもオオカミ怪人様に歯向かったため、磔にされて晒され続けるもの。
ああ。今すぐ母さまと父さまに会いにゆきたい。この栄誉ある姿を祝福してほし…
「…なんか、すげえめんどくさいオーラが漂ってくる」
くりくりくり。
また音がした。
再び恐怖と動揺が襲ってくる。
くりくり。
心が凪ぐ。
「えーっと」
くり、くりくり。
急に欲情してきた。ぐしゃぐしゃにされて、オオカミ怪人の身体に乱暴にこすりつけられたい。こんな丁寧に着ないで。めちゃくちゃの塊になった私にその鼻先を突っ込んでめいっぱい匂いを嗅いでほしい。オオカミ怪人の身体の汚れを拭いてほしい。足で踏みつけてほしい。股間に……
「いや、こっちじゃない。こっちだ」
くりり。
私が。
くり。
私は。
くく、く…くり。
わた……
かちり。
***
気を確かに持て。気を確かに持て。気を確かに持て。
私はこいつが大嫌いだ。いますぐにでも殴ってやりたい。
この感情はやつの能力だ。まやかしだ。
私の本心じゃない。
オオカミ怪人の鼓動で、規則的に私の身体が揺らされる。
オオカミ怪人の呼吸のリズムに合わせて、私の胸や腹のあたりが、ぴったり同じタイミングで上下する。
ドキドキする。
ちがう。好きじゃない。
なんとかやつの体から離れてやろうと、身体を前方に伸ばす。
ぐいっと身体を持ち上げると、なんとか胸のあたりに隙間ができたが、一方で私の脇腹や背中側の部分が思い切りオオカミ怪人の背中の肉に押し付けられて、肉のたるみの部分にまでぴったりと重なってしまう。体温が伝わってきてかあっとそこが熱くなる。ドキッとして慌てて体勢を背中側に傾けると、今度は前方がぱつぱつに引っ張られて大きな腹や胸を強調してるみたいになってしまう。何度も繰り返すうちに、ますますオオカミ怪人の体型がしっかり把握できるようになってくる。男の人に密着して、呼吸も脈拍も体型も知ってしまっている。それが自分の奥底にある別の感情や記憶と結びついて、じゅわじゅわと心を溶かすような嬉しさが湧き上がってくる。違う。これは私の感情じゃない。服にされてるから。服にされて、ぴったりくっついて、内側から体温を感じて、一緒に動いてるのは、好きな相手にすることと同じだから、似たような感情が湧き上がってるだけ。だから好きじゃない。好きだけど、それは服の好きだから、ちがう。気を確かに持て。もとに戻ったら絶対にぶん殴ってやる。でも、今はできない。私は服で、服だから、オオカミ怪人の思うとおりにしか動けない。服だから、それでいい、恥ずかしくない。今の私はオオカミ怪人に着られるのがすべてだから。今は好きになっていい。いやいや、違う違う。なに考えてるんだっけ? だんだん、私の身体そのものもオオカミ怪人の身体に合わせて引き伸ばされている気がする。さっきまでは感じなかったけど、いまはほんのりとオオカミ怪人の匂いが自分から漂っている。どれくらい時間が経ったんだろう? 服だからこうして、長く着られたのが体感でわかるので、よかった。いや。よくない。正気を取り戻そうと、全身を身震いさせる。「うおっ!」オオカミ怪人がそれにびっくりしたのか、声を上げた。声が聞けて嬉しい。いや嬉しくない。とにかく、意識を保つんだ。服の心に侵食されないように正気を保ち続けていればいつかきっと、どうにかなる。服の心。そう名前をつけてしまった途端、そいつが思考リソースを占有しようとする。好き。好き好き。オオカミ怪人好き。脱がないでほしい。このままずっと暖めてほしい。一緒に動いて、呼吸して、ドキドキして、同じ匂いにな――黙れ! 「おわっ」またオオカミ怪人の声がする。身体を動かしてしまったらしい。あんまり動くと、服として申し訳な――いやいや、これでいい。妨害してやれ。何回も身体を擦りつけてやったほうが、もっと匂いも、いや、違うって、だから――
よし! 面倒だから脱ごう!
オオカミ怪人がそう決意したのと、ドッグマンがたまたま通りがかったのは、ほぼ同時だった。