かしゃくしゃと、道の落ち葉の砕ける音。
わずかな震動を靴底で感じながら、ドッグマンは、ああ秋も終わりだなあと思った。空気は刺々しく埃っぽいいっぽうで妙に澄んでいて、むせ返るような生き物の匂いと冬の凍えた匂いがそこかしこで交錯する。その無造作な入り混じりは、正月の準備もアドベントも同時進行するこの街そのものの雰囲気でもあるように思われた。
(ヒーローと怪人は年中無休で交錯しまくってるけどな)
ドッグマンは心のなかでひとりごちる。
怪人――"悪性変異"により、異形の姿や能力者となった人間――を制圧し、捕縛して然るべき処置を受けさせる。それがヒーローの職務であり、いまドッグマンが寒風の吹くなか、街をパトロールしている理由だった。窓の向こうではみな今年の仕事の総決算や年越しの準備に追われている。どうかその平穏がずっと続いてくれればいいと、ドッグマンは切にそう願う。危険と隣り合わせの生活を厭わず、終わりなき事件の発生にめげず、ただ一心に街の平和を願うヒーローの正しい資質――ドッグマンは間違いなく、その高潔な美徳の持ち主であったが――しかし彼を見る街の住人たちの目は白けていた。冷たかった。あるいは微笑ましく、生暖かった。通行人にワンワンと吠えただけで世界を守ったかのように誇らしげにする犬を見る目のようだった。
その理由をドッグマンはよく知っている。
自分は弱いのだ。
"かませ犬"と異名がつくほどに。
ヒーロースーツへの適性以外に何の能力も持たない彼は、ただ本当に弱かった。そこらへんの刃物をちらつかせるのだけが取り柄の痩せ細ったチンピラなら(ヒーロースーツの耐刃性に頼れば)まあなんとか対応できるといった程度で、体格のいいゴロツキや半グレには一方的に殴られるし、いわんや特殊な能力を持っている怪人をや、だ。火で炙られ氷漬けにされ電撃で痺れさせられ――るくらいならまだいい方で、操られこね直されカードに封入され石化され人形化されグミ化され液状化され生命に危険のないままバラバラにされ妖怪化され怪物化され老化され幼児化され車化され――ドッグマンは怪人が引き起こすありとあらゆる超常的な現象の矢面に立ち続け、真っ先にやられ続けていた。すでにその姿は「怪人に出会ったらまずドッグマンがやられるのを待て」「やられたドッグマンが近くにいないか見ろ」と言われるほどに周知されており、ゆえにドッグマンが怪人を倒す姿を期待している者は今やほぼいないと言ってもおそらく言い過ぎではない。
だから。
「ドッグマン、助けてくれよ!」
こういう声が聞こえてきたとき。
ドッグマンは、晩秋の空気のような気持ちになる。
「ガードナーさんとこの姉ちゃんなんだ」
道すがら少年は言う。
彼の実姉ではないが、この地区一帯の住民から慕われている少女がいるらしかった。
「そろそろ年末で稼ぎ時だから、めいっぱい稼がなきゃっていろんな仕事入れてた。家族でケーキ食べるんだって。なのによお、ガードナーの親父も母親も姉ちゃんに感謝するどころか蹴るんだよ。イラついてんだ。自分はろくに働かねえから。母親だって、そんな割に合わない仕事してるくらいなら体を売れ、体を売れってそれしか言わなくてさ。まだ学校通ってる他の弟とか妹がどんな目で見られるかとか、全く、思い浮かんでやしないんだ。でも姉ちゃん楽しいことのためにイライラしてたらしょうがないって、嫌な顔一つし、しないで、でも、今日」
少年の足が止まり、言葉になりそこねた嗚咽がひび割れて放置されているアスファルトに零れ落ちた。「貧困層の底上げと改革を」と選挙期間にだけ公約されるこの地区の舗装は、30年あまり手つかずのままだ。ドッグマンはしゃがんで彼が落ち着きを取り戻すまで待ってやる。
「な、なあ、ドッグマン。姉ちゃん、普通の人なんだよ。闇市に行ったこともないし、売人の誘いに乗ったことだってなかったんだ。な、なのに、怪人になっちゃうのか? 怪人って、おかしくなったヒーローとか、ウラで怪しいの買っちゃったやつが、なる、なるんじゃないのか?」
「……普通の人も、ならないわけじゃない」
ドッグマンは沈痛な面持ちで答える。
怪人化は大まかに言うと、ヒーロースーツにも使われている特殊な繊維状生物が"悪性変異"を起こして他の生物を侵蝕する現象だ。それは一般的な意味での寄生や感染にとどまらず、宿主の肉体構造そのものの変異や常識の範疇を超えた能力の付与を生じさせる。悪性変異のトリガーや侵蝕の強さには精神的な同調や依存の強さが影響するため、その点ではさきほど少年の言った「ヒーローや怪しいブツを使った人間が怪人化する」という認識は正しい。精神のバランスを欠いたヒーローが怪人化する、という映像はニュースで報道されることすらある「最も観測されやすい悪性変異」であるし、裏で無認可・非正規のヒーロースーツ(またはそれに準じる物品)が取引されていることは、少し治安の悪い界隈に住んでいれば誰でも知っている。
しかし、あくまで根本的な原因となるのは精神でもヒーローでもなく「生物」だ。彼らは苔類や菌類に似た生態を持っており、多くの住民は知らないだけで千切れて乾眠している破片や胞子が多種多様な場所に根付いている。いわゆるヒーロースーツの装着――他生物の精神に呼応しての形状変化や特殊能力の発揮現象、ましてや侵蝕に足るほどの集積が自然に起こることはほぼあり得ないので、ヒーロー機関や科学省は公表していないし、注意喚起もしていないだけだ。
だが、もし自然でない集積が起こったなら。
たとえば、件の「姉ちゃん」が日雇いで何かを運ぶ仕事をしていれば、話は違う。
それ自体は法を遵守した正規の仕事だろう。しかし「中身」もそうとは限らない。違法な物品を合法的な運送や物流に紛れ込ませるのはごくごくありふれた手法で、そしてそうするなら、万が一を考えてその場限りの日雇いや立場の弱い貧困層労働者に業務に行わせるだろう。
ドッグマンはヒーロースーツに関する種々の裏仕事を思い出す。戦いの跡を駆けずり回って飛び散ったスーツの破片を拾う「落ち葉拾い」。ヒーロー本人を襲わず、スーツの破片を切り取ることだけを目的とした「鎌鼬」。より過激で直接的な「解体業者」。そうして集められたスーツの端切れが箱の中で無造作に積み重なっているのを、ドッグマンは想像する。互いに接触し合うことで活性化した彼らは暗闇の中で無造作に蠢き、外部エネルギーの供給を求めて箱の隙間からじわじわと滲み出る。それはいままさに箱を両腕で抱えている「姉ちゃん」の袖口に入り込むと、皮膚を伝って宿主に見つかりにくい背中や股下に……。
やめよう。ドッグマンは頭をぷるぷると振って湧いたイメージを弾き飛ばした。いまの俺の任務は悪性変異の経路や裏業者を暴くことではない。怪人化の進行が早いうちに「姉ちゃん」を保護することだ。少年の懇願するような眼に見据えられ、改めて決意を固める。
安定化しないうちに「生物」のエネルギーを過剰放出させてしまえば、怪人化は解除される。これもまた、裏稼業と接点のある界隈でまことしやかに囁かれている「治療法」であった。そして幸いにも、その治療法が正しいことをドッグマンは知っている。怪人としてのアイデンティティが確立され、悪行を重ねてしまう前に「姉ちゃん」を消耗させてほしい――少年はドッグマンに、そう頼んでいるのだった。
家の中に踏み込んだとき、そこには山猫のような少女がいた。
隠喩ではない。
少女はほんとうに部分的には山猫のようであり、かつ、総体的には山猫ではなかった。
顔つきは山猫の特徴が色濃く出ているが、ところどころに素肌が露出しているためまるで人肌と毛皮のパッチワークのようだった。ウェーブがかったブロンドの髪はおそらく怪人化前の少女の姿からそのまま受け継がれたものだが、その合間から山猫の尖った耳がピンと屹立している。裸に山猫の毛皮のコートか、あるいは山猫柄のキャットスーツを大きくファスナーを開いたまま着ているような不安定な服装で――この『山猫柄』の部分が悪性変異した「生物」だろう――、完全に毛皮に覆われている手先と足先はかなり獣のそれに近い形状になっている。手は力強く太くなっているが、湾曲していて物を掴めるかあやしいほどに指が退化しており、足は多くの肉食獣がそうするように爪先立ちの状態でキープされていた。まさに半獣半人と言っていい、典型的な怪人化の姿だ。ふしゅるるると唸り、怒りと困惑に燃えた眼でこちらを睨んでいる。
ドッグマンは思わず目線を下に下げた。
「ちょ、ちょっと、ドッグマンさあ――」
少年の、頼りない大人に対する軽蔑と失望が含まれた声が響きかけて――やはり彼も口をつぐむ。
気圧されたのではなかった。彼女の足元に転がる「それら」の異様さに気付いたからだ。
足置き台があった。
それはおそらく、彼女の父だった。
中年太りの男の体躯は、這いつくばるような姿勢のまま固定されていた。胴体は小刻みに震えているものの、猫足家具のように曲線を描いたまま硬直している四肢はまるで本物の家具のように静止している。手足そのものの形や顔つきも猫じみた容貌に変形しており、尻のあたりからちょろりと出た尻尾も含めて、「猫型の足置き台」に「変えられた」という表現が相応しい。ハアハアと舌を垂らしながら喘ぐ彼の顔は恐怖と期待、そして懇願に満ちている――が、それはどうも、救助に向けられているわけではないらしかった。彼はかろうじて動く首と目でなんとか上を仰ぎ見ようとしている。彼の背中には大きな肉球のマークがついていた。
「姉ちゃん」がその気配を察したらしく、足置き台を一瞥すると――大きく獣の脚を持ち上げて――どすんと、父親の背中に、押印するように足の裏を押しつけた。
「うっ、うに、うふうっ、ゔにぃあああぁああああ―――――ぁぁぁぁ……」
人間とも猫ともつかないものの嬌声があがる。
そう、嬌声だった。慟哭でも悲鳴でもなく、父親だった足置き台は――歓んでいた。性的快感と、支配者からの恩寵と、使命を果たした達成感が同時に絶頂に達したような至福の表情に顔を歪めている。「姉ちゃん」が足を上げ、今度は父親の顔に無遠慮に足の裏を押し付ける。「おごっ、おふうっ、ふにぃゃっ、おおぃぃぃぃぃぃ……」再び父親が喘ぐ。まるで頭部全体が性感帯になったと言わんばかりに、頭部の丸みを実の娘の足の裏に撫で回されるたびに蕩けたよがり声を垂れ流している。突き出た鼻面を踏まれたときなど、その足先をあたかも銀食器を磨く下男のように丁寧に従順に舐め回していた。見れば、足置き台のまわりには似たように人間の面影が残る絨毯や靴下が散らばっている。おそらく母と弟妹だろう。ドッグマンは怪人の能力を分析する。他者変化型、物品化の能力。足で踏むことがトリガーで、踏まれたものは肉球を押印され、足関係の家具に変えられてしまう。そして時間経過か、回数かはわからないが、能力の進行が深まるほどに家具にされた者は意思や人格ごと隷属していく。
先程まで鼻面に皺を寄せていた「姉ちゃん」の顔は今や大部分の怒りが抜け、勝利と平静に満ちつつあるようだった。まずい。安定し始めている――能力の理解を深め、怪人としての己を確立しつつある。ドッグマンは慌てて「姉ちゃん」と足置き台の間に割り込もうとしたが、それより先にだん! という衝撃音が部屋に響いた。
「――――――――――ッッ………!!!!」
父親だった足置き台が、声にならない声を絞り出す。否、すでに声は出なかったのだろう――声を出しているような気分のまま、天を仰いで硬直し――そして、完全な足置き台になってしまった。猫になりつつあるというより、ほとんど人間だった面影がある猫、と言ったほうが近くなった顔貌は、口を開けて少し上のほうを向いたままこわばって一切の動きを止めている。胴体も、手足も、先程まであった生物らしい柔らかさは消え、硬質なテクスチャに全てが覆われている。
モノになった。
今の彼は、止まった時間の中で永遠の絶頂に打ち震え続けているのだろう。あるいは全き暗闇の中、再び主人の足が背中に触れてくれるのを永劫待ち望んでいるのかも知れなかった。それがモノになった者の意識だとドッグマンは知っていた。時間も空間も消え、孤独と歓びと永遠の中に囚われ続ける。
ふっ、と「姉ちゃん」の目が優しさを帯びる。慈しむようにかつての父親を眺めている。その眼に映っているのはきっと文字通りの「かつての父親」なのだろう。働くのをやめ家族の厄介者になる前の、威厳と頼もしさを持っていたときの彼の姿。
家族が美しい姿のまま、幸せの中に閉じ込められていたらどんなにいいだろう。
誰しもが思い得る、そんな愛おしい、歪んだ願いを――怪人の力は成就させてしまう。
「ね、ねえちゃん」
一部始終を見届けてしまった少年が、やっとのことで粘つく口をこじ開ける。
「だ、だめだよ。確かにその親父は、母親も、酷いやつだったしさあ。ど、どうされても当然の報いだと思うよ。だ、だけど、イーやミアは……違うよ。そ、それに姉ちゃんも! 怪人になって、いい人間じゃないよ! だめ、だめ、だめだって! ねえちゃん言ってたじゃん、みんなでケーキ食べるんだって。と、特別に安く売ってくれる店がみつかったから、ケーキもごちそうも用意できる、こんなの初めてだって。それなのに、そんな、こんな」
少年の声色に湿った音が混じるにつれ、「姉ちゃん」の目がぎょろりと見開いていく。少年を睨めつける。それは親愛の眼差しではなかった。
ドッグマンは知っている。
怪人化した直後に親しい者の説得で目を覚ますということは、ほとんどない。
怪人になった直後ほど、己を確立するのに必死なのだ。消えないため、怪人としての自我を霧散させないためのエネルギーが集中している。外部から否定されればされるほど意固地になって、元の人格から主導権を奪い取る。
だから。
この状況は、とてもまずい。
親しい他人を手に掛けたという事実は――怪人のエゴをより強固にする。取り返しがつかないことをすればするほど、意思というものは自己を正当化して、自分がやってしまった過ちを正しいことだと思い込むために、同じ行動を繰り返す。それが怪人なのだ。そうなれば、もはや彼女が穏便に扱われることはないだろう。
ただ、この声で我に返る可能性も0ではない。
ドッグマンの心に、逃避の魔が差す。
もしかしたら。
赤の他人にまで優しい少女だ。今も少年の声はどこかに届いているかも知れない。
そして自分の操縦桿を握り直し、野放図に欲望を刺激する己の中の「怪人」を一喝する。
これは私の身体だ。勝手に動かすなと。
そうなって欲しかった。
この奇妙なハプニングはなかったことになり、幸せな晩餐会を開いてほしかった。
「姉ちゃん」が地面を蹴り――。
少年を庇ったドッグマンの背中に肉球のマークが押印される。
自分に大きな空洞ができたような気がした。
同時に、自分がバラバラになったような気もする。
そして自分が、どんどん小さくなっていくような感じもする。
ドッグマンは混乱する。同時に走る、いくつもの奇妙な感覚。どれが正しいのだろう?
答えは、どれも正しかった。
いまドッグマンは、身体に大きな空洞ができつつ、かつ胴体と頭が離れつつあり、そして小さく縮んでいっている。ドッグマンはここでようやく、自分が怪人の攻撃を受けて無理やり形状を変えられている最中なのだと思い出した。さて、自分は何にされているのだろう? 空洞があって、バラバラで、小さいもの。そして足に関係する。何かありそうな気がするが、思考がまとまらずにうまく思い出せない。よくあることだった。そもそも、肉体が変形しているときの思考とは一体なにとなにの作用により発生しているのかも、ドッグマンはよく知らない。慣れているだけなのだ。同じ思考を繰り返す。ええと、空洞があって、バラバラで、小さい――
がぼっと、勢いよく鼻の中に何かを突っ込まれる感触があった。
正面からではない。
内側から。
身体にできた空洞に何かが入ってきて、それが喉の奥や舌の奥からだんだん鼻先に向かってめり込んできて、その先端が鼻を内側から押し上げ、同時にみっちりとドッグマンの頭の中を満たす。突然、精神そのものが重さと質量のある物体に埋め尽くされたような衝撃を受けて、ドッグマンの思考はより一層混乱する。内側にあるそれは暖かく、ぐにぐにと動き、そしてなんだか――匂いがきつい。どうやら空洞の出入り口は塞がれているらしく、匂いの逃げ場がないから、余計にそう感じるのかもしれなかった。くねくねと動く物体の先端と匂いの両方に鼻を内側からまさぐられて、ドッグマンはぶしゅんと思い切りくしゃみをしたくなるが、しかしドッグマンの鼻先から口元にかけてはすでに革のように硬直しているから、そのような反射運動を行うことは叶わなかった。
頭から離れている胴体にも似たような感触があった。空虚になった肉体の中に、熱く大きな他人の肉が乗り込んできて、自分のなかをすっかりと満たしてしまう。指示を受けて自分のやるべきことが定まったときのあの充足感にどこか似ているな、と、ドッグマンは熱くのぼせた頭の中でぼんやりと思った。あれを食べたいとか、今日帰ったら何をしようとか、自分の脳裏に散らばる雑念がざあっと掃き出されていくときのぞくぞくとした、少し恐ろしい気持ちもする高揚感。あるいは夜明けの太陽のようでもある。夜の静謐な青さが太陽の光に塗り潰され、暖かく支配された「日中の世界」になっていくあの瞬間。薄明に浮かぶ星のように、きらきらと輝いていて、心の中で重要だったはずのものが掻き消えていく――
あ、靴だ、と唐突にドッグマンは理解に思い至った。俺は今、靴になっているんだ。バラバラだった感覚のログと意識が時系列順に繋がれ、映画のフィルムのように初めから上映しなおされる。あの肉球を背中に押された瞬間、ぐばあっと背中が開いて空洞ができ、そこに足を突っ込まれるといよいよ俺の全身は皮革みたいにたわんでぺらぺらになっていったんだ。身体の奥底で指の形の一つ一つまでわかるくらい高精細に肉球が焼き付けられたのがわかって、大昔に学校の靴とかカバンに名前を書いたときの、あの支配してやったという全能感がぐるりと反転して自分を覆ったのがわかった。支配される全能感。言葉にするとおかしな響きだが、そんな感じだ。俺は俺ではなくてあの肉球のマークで、俺であることはメインではないおまけなのだという感覚。それを認識したのがトリガーになったのかどうかは定かではないが、その認識どおりに俺の頭と胴体は分離して、俺という塊であることが失われた。頭と身体は大きく二つの塊になり、それぞれがやつの足を包む形で再形成される。
一度言語化すると、さっきまで濁流のように暴れまわっていた知覚の星たちがあっという間に整列していった。俺の頭は右足で胴体は左足。頭は顎を地面に押し付ける形で地面に横たわり(それとも、大きく口を開いたまま、靴底と化した舌で地面を舐めているのかも知れない。曖昧だった)、胴体のほうは手足が小さく押し込められ、まるで気をつけをしたような状態で腹這いになっている。内側から肌をくすぐるのはやつ――「姉ちゃん」の毛で、顎の部分や胸の部分に当たっている弾力のある丸いものは肉球。鼻の近くや首の近くでもぞもぞと蠢いているのは指で、その先にあるかりこりとした硬質のものは爪か。
ぼんやりと視界のようなものがあるが、右足――つまり「頭」のほうはいま爪先が上を向いているのか、薄汚れた天井しか見えない。たぶんハイキックを決めるような形で靴化の肉球を押され、どのくらいの時間だったかはわからないが、「姉ちゃん」はそのポーズを維持したままだったのだろう。
そう思った瞬間。まずはゆらりと視界が動いて。
ついでものすごい勢いで景色が流れ、遊園地の絶叫マシンのようにドッグマンは振り下ろされた。身動きできないまま、顎を強く床に押し付けられ――心を殴られるような快感がそこから激しく噴出する。
(かっ、あ……)
予期していなかった刺激にドッグマンの思考がショートする。いや、予期自体はしていた。物品化を受けたときの自我は多くの場合、そのモノとして正しく扱われたときに最も心地よくなるように編成される。タンスなら、物をしまわれたときに。コップなら、飲み物を注がれ、口をつけられたときに。足置き台なら、足を置かれたときに。そして――靴なら、履かれて地面に擦り付けられたときに。ただ知識があったとしても、未知の快感を与えられたときにうまく対応できるかどうかは別問題だった。敏感になっている恥部を、いきなり摩擦なしにストロークされたような暴力的な快感。それが今までそんな風に感じたことがない、感じるはずのない部位に発生するのだ。抗うための心の機構が存在しているはずがなかった。
一拍置いて左足――「胴体」が持ち上げられ、床に叩きつけられる。腹這いに固い地面に向かってダイビングしたようなものだったが、やはりこちらも痛みはなく、鋭い快感と充足感だけが胸や腹を満たす。砂利や凹凸を自分の胴体で受け止める感触すら心地よく、自分は幸福である、という認識がドッグマンの意識を薄膜のように包み始めていた。一歩ずつ歩みが進むごとにその薄膜は不透明になり、温かく熱を帯びて抗いがたくなってくる。先程の父親だった足置き台と同じだ、とドッグマンは思った。肉球で押されるごとに精神のモノ化も進み、隷属の感情が強くなっていく。が、わかっていてもどうにもならなかった。足の臭いが頭の中で充満してきて心がとろけそうになる。もし舌を動かせれば、ずっと主人の肉球を舐めていたいくらいだった。主人が手づから、いや足づから己の空白を埋めてくれて、歩いている間中ただひたすら己を頼ってくださる。そして己は主人の足を保護し、充満する足の熱や匂いを一身に味わいながら、主人の足に強く圧迫される歓びを一歩ごとに堪能する。地面だって情報の宝庫で、まるで旅をしているみたいに常に風情ある感触や匂いが味わえるし、脱がれたあとも主人の残り香を楽しみながら、次のお伴の瞬間を今か今かと心を弾ませながら待ち続けるのだ。これに勝る幸いがいったいこの世のどこにあるのか、ドッグマンはどうしても思い出せなかった。
さあ御主人様、でかけましょう。おともしますよ。私をはいてどこへでも行こうじゃないですか。部屋の外、部屋の外にいきましょう。外はたのしいことでいっぱいですよ。いや、わたしと御主人様がいればどこでだって楽しいんです。ドッグマンだった靴は全身で――とは言っても、靴であるその身体が微動だもするはずがなかったが――散歩の喜びと忠義を表現する。
「姉ちゃん」にそれが伝わったのかどうか知る由もないが――少年には、「姉ちゃん」がふっと気の抜けた微笑みを浮かべたように見えた。
このあと、別にドッグマンは我に返って「姉ちゃん」を説得したり、元に戻る手助けをしたりはしない。ドッグマンはそのまま意識が完全に靴と化し、解放されるまで主人の忠実な靴として、「姉ちゃん」の散歩に付き合った。
ただ、ドッグマンが靴になった結果、彼に助けを求めた少年は被害に合わなかったし、「姉ちゃん」が彼女を慕う少年を襲うこともなかった。「姉ちゃん」はドッグマンの靴をはいてひとしきり駆け回ったあと、体力が尽きかけていたところに他のヒーローの軽い一撃を受けて、怪人から元の姿に戻る。偶発的な一過性の怪人化ということでお咎めはなく、彼女に取り憑いていたヒーロースーツの端切れも枯死して自然に剥がれ落ちた。
怪人化の解除に伴い、彼女の両親や弟妹も元に戻った。検査してもらったところ、家族全員に目立った後遺症はないらしい。ただ父親と母親は幾分かしおらしくなり、父親はできるだけラクな職を探し始め、母親はたまに家の仕事をやるようになった。
12月24日に、ささやかなご馳走とケーキを食卓に並べた彼女の家はつつがなくパーティを始めた。
ドッグマンはパトロールの最中、窓に映る平和そうなシルエットを満足気に眺め、そしてまた立ち去った。