「プラナリアを知ってるかしら? あるいはトカゲの尻尾でもいいけど」
「再生能力の話をするときにとりあえず例に出される動物がどうした」
「わかってるなら話が早いわ。生物には様々な再生能力を持つものがいるの。我々はその中でも、とりわけ強い再生能力を発現させる"超再生因子"とでも呼ぶべき遺伝子群を発見した。それをあなたに注射したいのよ」
「断ったら?」
「断ってももう遅いの。あなたは実験のために売られたのだから。そしてこれは失敗が許されない計画なのだから」
そう。これは私の命運を賭けたプロジェクト。失敗すれば、私が次の実験体にされる。私は緊張に震える手を押さえつけて、彼の腕に液体を注射した。
ちくり。
「……?」
「どうかしたかい、先生」
「…いま、あなたに注射したのに、私の腕に痛みが走ったわ。位置も同じ場所」
「共感覚にはそういう類の感覚が発生するものがあるらしいぜ。それとも一昔前に流行った、HSPってやつかもな。もっとも、感受性豊かなやつがこんな実験をやるわけがないが」
「…まあいいわ。明日からあなたの再生能力を確かめるために様々な実験が行われます。痛いかも知れないけど、我慢してね」
夢を見た。
なんだか腕がものすごく痒い。
腕をかきむしる。痒い。
ばりばりという音が響く。
どんどん、掻いている場所がひび割れていく。
恐る恐るそこを見てみると――私の腕は、硬質な鱗のようなものに覆われて――
「どうかしたかい、先生。顔色が悪いぜ」
「…悪夢を見たのよ。きっと、あなたを実験台にしたことに、私の良心が無意識下で苦しんだのね」
「へえ、そりゃあありがたいことだ。で、今日は俺のどこを切り刻もうってんだ?」
私は彼を見やる。
右腕は超再生因子を注射した箇所だ。
まずは、左腕を傷つけてみることにしたのだった。
血管も神経も切断されるように、深く裂傷を与えてみた。
実験は成功した。彼の腕は目に見えるスピードで細胞が増殖し、瞬く間に傷を塞いだのだった。
その細胞組織が人間とは似ても似つかないものになっていることを除けば。
「あーあ、見てよこれ。俺の左肘から先。鱗が生えてさあ、化け物みたい」
彼の左腕は爬虫類のような鱗に覆われたごつごつしたものになっており、その先端からは湾曲した鉤爪が飛び出ていた。
「…普通に動いているから、実験は成功しているわ。ほら、あなたの脳が指令を出したとおりに指の屈伸も関節のひねりも思いのままじゃないの。鱗の発現はあとで抑えればいいだけの話。……今日は、残ってる右腕を傷つけてみるわ」
「あーあ、もったいない。まだきれいな肌なのにさあ」
私は黙ってまだきれいなままの右腕を持ち上げ、そこに刃物を近づける。再生能力を確かめるために、あえてぎざぎざの刃先をしているものだ。私はそれを……
「どうした、先生? また良心が芽生えて傷つけるのをやめてくれるってか?」
「…そ、そんなことはないわ。だけど、なんだか、嫌な予感が…」
「いいからやれよ」
彼が自ら右腕を持ち上げた。
刃先が柔肌にめり込む。
「あああっ!!」飛び散る鮮血を見て私は痛みにもだえ、うめき声をあげた。
彼はそのままぐいっと右腕を引くと、ぎざぎざの刃に筋肉と皮膚が引っ張られてちぎれ飛んだ。ずたずたになった腕の断面からねっとりとした血が垂れる。
「先生、やっさしいねえ。そんなに俺の痛みに共感してくださるなんてさ。ほら見な よ、先生のお気持ちに答えてもう傷が再生し始めたぜ」
見ると、右腕の断面からたちまち肉が増殖し始めた。早回しの映像を見ているように傷が塞がり、ついには傷口も残さず塞がってしまう――が、やはり変化はそれだけでは収まらなかった。修復された手はそのまま粘液を放ちながら大きく膨れ上がり、表面に無数の疣ができ始める。色は茶色のような、苔色のような、どす黒い色に変わり、そう、まるで、蛙か山椒魚のそれみたいな、不気味な造形に――。
次の瞬間、私の脳裏を不気味なヴィジョンが走った。
全身が触手に覆われたおぞましい怪物になったような感覚。巨大な蛙に呑み込まれるエピソード記憶。急に思い起こされる、四つん這いで地面を走り回る動きの手順。
そして、私の中にある無数の顔。その一つひとつが泣いている。
「ひ…ぃ、っ」
「おやおや。ずいぶんいい加減な治し方をするもんだ。…どうした先生、やっぱり気分が悪いんじゃないのかい?」
「…わからない。言語化できない、なにか恐ろしい感覚が……今日の実験は、これで終わります」
「へえ」男はにやにやとしながらこちらを見ている。
私は考えていた。
彼に注射したのは、ほんとうに"超再生因子"だったのだろうか?
超再生は付随する能力に過ぎず、ほんとうはたとえば――私に送り込まれる彼の痛み――未知の奇妙なヴィジョンや感情の操作――テレパシーをも扱えるような、超能力の因子だったのでは……。
バカバカしい。
私は妄想を振り払う。
やはり、良心が咎めているのだ。生まれて初めて接する未知の現象と、そのために人間をいたぶっているという自覚が私の精神に負荷をかけているに過ぎない。私の中に泣いた顔がある――それは無意識に出された、脳のレスキュー信号なのだろう。
とにかく眠らなければ。寝ればデフラグされる。幻視など分解される。
「セーフリームニルって知ってるかい? アズィ・ダハーカのことでもいい」
「…いいえ、知らないわ。なにかの学名かしら」
「前者は北欧神話に出てくる、無限に再生する豚のことさ。そいつの肉はどんなに削ぎ取っても決してなくなることはなく、夕方には元通りになるんだとさ。後者はゾロアスター教に出てくる悪魔だ。そいつは切りつけてもそこから虫だの蠍だの蛇だのがわらわら湧いてくるんだと」
「おとぎ話ね」
「よく言えるよ」
男の身体は、度重なる再生で不気味なまでに肥大化していた。修復するたびに別の生き物の細胞が発現し、それぞれが喧嘩しあって炎症を起こし、また再生して肥大する――その繰り返しで、今や男は小山のようだった。
「なあ、こんなになっちまって、俺はどうすりゃいいんだろうな?」
「実験データが揃えば、あなたの身体を元に戻すなんてわけないわ。協力してちょうだい」
男がなんとも言えない表情をする。すでに男の顔も変異が進み、人と蜥蜴とその他もろもろがコラージュされた異形の容貌を呈していた。閉じられない口の端からしゅうしゅうと息が漏れている。
これは、もとに戻せないだろう。
そう思った瞬間、途轍も無い悲しみが私を襲った。
えっ? どういうこと?
こんなに私は、この男に同情していたの?
だとすれば、私は本当に取り返しのつかないことをしてしまった。
この男にも人生があり、生活があり、心があったはずなのに、こんな化け物の身体に変えてしまって――
私は思わず顔を手で覆いそうになる。だけど、できない。男から目を逸らしてはいけないと心のどこかが指令を出している。
そんな私の頬を、男の鱗だらけのごつごつの手が撫で――
「ああ、そのフレーズももう118回目だな。もういいや」
「えっ?」
『先生』は顔をきょとんとさせた。
「もういいや、って言ったんだよ、先生。ロック解除してやるから、自分の目で身体を見てみな」
『先生』が自分を見下ろす。
『先生』の身体は、小山のようになった俺の身体から直接生えていた。太い触手のようなものの先端から直に『先生』の上半身が生えていて、その上半身には頭と腕がついている。もっとも、腕は『先生』が自分で傷つけちまったからもう人間の形はしていないが。柔肌が見える胴体と顔もすでにところどころ毛や鱗や粘膜に覆われていた。
「ひ…あああああああああッ!!!」
『先生』の絶叫が響く。
「なによこれ!! どういうことよ!! なんでわたしの身体が!!! こんな!!!」
「先生、あんたはもう俺に取り込まれちまってんだよ。いつだったかなあ、俺の身体の再生能力が暴走してさ。生きたままあんたを肉の中に呑み込んじまった」
「そんな!! そんなことが起こるわけない!! あれはただの再生能力の――」
「さあ、もしかしてあんたたちの摂ってきたサンプルは地球の生物のじゃなかったのかもなあ。まあ、そんなことは今更どうっでもいい。俺はいま、おとぎ話みたいな怪物になってあてもなく彷徨ってる。その心のなぐさめに先生、あんたの疑似再現体を何度も生み出してるんだ」
『先生』は走って逃げようとしているのか、胴体をぐねぐねとくねらせている。足を動かすパルス信号が俺の足――もうどういう構造になってるのかわからない、触手の群れ――のどれかをひくつかせる。もちろん、それで『先生』が逃げることはできない。
「助けて……助けて……」『先生』がぽろぽろと涙をこぼす。
「助けてって言ってもなあ、もう先生本体はいないんだよ。俺に分解されて俺の一部として配列されてるだけなんだ。いまの先生は俺のにきびみたいなもんだよ」
「どうしてこんなことするの…私を眠らせておいてよ……」
「先生が実験の中盤あたりでさあ、ぽろっとこぼしたのが気になってさ」
「え……?」
「その日、先生、酒に酔ってたのかな。俺の檻まで来てくだをまいてたんだよ。ほんとうにごめん、あなたには申し訳ない、わたしは許されない。でも、もしこの再生技術が確立すれば、何万という生命が救われるかわからない、わたしはそのために良心も捧げる……ってね」
「……」
「それ聞いて、まあ俺ほだされたんだよね。なら信じてみようってさ、どうせ俺、生きてても大した人生じゃなかったしさ。で、そのあと暴走したんだ。研究所も周辺施設も全部俺から生えた肉の塊に呑み込まれていった。先生、あんたも」
「……」
「先生に触れるその瞬間まで俺、頑張ってたんだ。先生を信じて生命を救うために身を捧げたんだ、止まれ、俺の身体の暴走、止まれ!!ってさ。だけどさあ先生。先生の身体が俺の身体と有機的に融合して、神経が結びついたときにさ、先生の神経配列にそんな思考は全然感じ取れなかったんだよ。そんで俺、は?ってなってさ。歯止めがきかなくなって、この有様ってわけ」
「そんな…わからないわ…そんなこと言われても…」
「そうだよな…そんなので心があるとか、ないって言われても困るよな……だから何度も先生を再現することにしたんだ。あのときと同じことを言ってくれたらいいなって。でもなあ、全然言ってくれないんだよなあ。ずうっと感覚の混濁を誤認して合理化して、勝手に憐れんでくれるだけでさ。でも感情ってのもそういうのの延長なのかな? 生きてるときはお互いの神経が繋がってないから、わからないだけなのかもなあ」
「わたし…わたしは…」
「もういいよ、先生。おつかれさん」
俺は心のなかでスイッチを押した。
たちまち、先生のまだ人間だった肌を鱗が覆い尽くす。
べきべきと音を立てて全身の骨格が変わる。顔が尖って無数の歯が生え揃い、シャアっと音を立てる先生。先生と俺のつなぎ目をぐいぐいと押すと、だんだん先生の下半身が出てくる。長い尾と鱗に覆われたムキムキの太もも、それに鋭い鉤爪。かっこよく走り回れる恐竜スタイルだ。
「あっ、まだ神経が繋がってるうちにやっとかなきゃ」
俺はグッと念じて、恐竜型の先生に生きる目的をインプットしてやる。たくさん人間を食べて大きくなあれ。唾液腺が刺激されて、先生がぼたぼたとよだれをこぼす。
「グッ…ガァ……」
恐竜先生はいやいやをするように首を振り回す。再現された先生の人格と新しいインプットが噛み合わなさすぎて混乱しているのだ。でもそのうち折り合いがついて、大人しく獲物を探す眼に変わる。俺は触手の先に力を込めて、恐竜先生を解放してやる。ぷちゅっ、とにきびを潰す感覚。それと同じクオリアが発生して、先生と俺との接続が途切れる。もう先生が何を考えているかはわからない。まあ再接続してみたこともあるけど、だいたい『おなかへった』と『こんなからだいや』の連呼だ。ある意味哲学的なのかも知れない。先生が走り去る。元気でな。
「はーあ、もうやめたほうがいいのかなあ。でも気になるしなあ」
俺はずるずると這いずりながら、また新しい『先生』を生み出す準備に取り掛かった。