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雪降らないかな
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[小説]ある騎士の独白

聞いたことがあった。

数多の禁術や魔道具、異世界の技術――それらは人間と引き換えに地上へともたさられる。

それゆえにこの現れては消える奇妙な領域をダンジョン――"牢"、と呼ぶのだと。


国力に乏しい小国の君主は、逆転の手段をダンジョンに頼る。

パワーバランスをひっくり返せるかも知れない強力な術や魔道具。

ダンジョンはそれを得られるかも知れない賭場であり。

遣わされる兵士や雇われの冒険者は、そのためのチップであった。

あるいは、そのような博打に頼らず、与えられた領地と民を第一に考える王もいるの"かも知れない"――が、少なくともローザックの主はそうではなかった。

(我が君は、いつからああなってしまったのだろう)

ローザックはダンジョン探索の間中、心のなかでひとりごちる。

(子供の頃は聡明な、良き統治者の苗木であった。知恵にも武術にも優れ、人を思いやる心にも満ち、情に流されぬ理性も持ち合わせておられた。それが)

賜った騎士の剣を魔物の血で汚しながら、考える。

(お父上が――先王が世を去られるのが、あまりにも早すぎたのか)

若くして重責ののしかかる椅子に置かれた才器は、たちまちにひしゃげた。

美徳と呼べる水はすべて流れ出し、今や農地の草一本のことすら彼の器には大きすぎる有様。すべての考えを放棄し、ただ機械的にダンジョンの探索を命じるのみの暗君と化していた。

(こんな呪わしい領域に人と金を費やして、なんになると言うのだ)

不毛な探索。守るもののない戦い。成果も栄誉も、労いすらもない帰還。

それが彼の集中力を鈍らせていたのか。

それとも、とっくの昔に嫌気が差していたのか。

いずれにせよ、オークメイジの放った魔法により、彼の冒険はここで終わることとなる。


閃光による硬直。

その隙に、術に込められた呪いの文言がするりと皮膚の下に入り込むのを、ローザックはたしかに感じた。これは攻撃魔法ではない。忌まわしい状態異常の魔法だ。

ダンジョン探索に身を投じる間、幾度か似た感触の魔法を受けたことがある。

呪われた言葉が身体の内に直接入り込み、勅命の如くに声を響かせるあの感触。

"毒されろ"と響けばたちまち肌が土気色になり、"痺れろ"と響けば手足がびりびりと痙攣する。"眠れ"と言われれば、抵抗も虚しくすとんとくずおれてしまう。

たとえ堕落した君主であっても、己の主以外に命令を下されるこの類の魔法は騎士ローザックにおいて耐え難い屈辱であった。だからこそ、魔法防御に特化した護衛をわざわざ雇ったというのに…。愚痴を言っても仕方ない。この魔法の正体があと数瞬で明らかになる。いまは"豚になれ"。


なんだと?


途端に身体の芯がカッと熱くなる。そして同時にぼこぼこと脈打ち始めた。

「おごぉっ、がっ」

肺が押され、獣のような唸り声が漏れる。なんて言った? 豚だと?

ぶくん、と全身が一回り膨れる。繊維の破れる音がして、樽のような曲面になった腹がさらけ出される。そこには鍛錬の証である筋肉の隆起はなく――それどころか、人の肌ですらなくなろうとしていた。ざらついて分厚い獣の皮の上に、ぷつぷつと白く硬い毛が生えだしている。

状況を確かめたいが、首が動かない。あるはずのない肉が喉のまわりを覆っている。

「ぎぃーっ、いっ、うぃぃっ…」魔法使いくん、と叫ぼうとしたが、膨れた肉に喉と舌が圧迫されて声にならない。その間にも呪文が身体の中を這いずり回る感触は消えず、いよいよ奥深くへと潜り込もうとしている。呪文が囁く。"豚になれ"

他者変身魔法――私はそれを食らったのか。

豚面の汚らわしいオークメイジが、騎士である私に豚になれだと? 悪い冗談だ。

幸い、少しずつ変化していく性質のようだ。ならばまだ勝機はある。動けるうちに剣を振り払って――

どうやるんだっけ?

ローザックは己の"右蹄"を確かめながら、考える。二本(裏側にもう二本)の硬質な指が突き出して、地面に体重を預けるための身体のパーツ――こんなもので、剣を握れるはずがない。動作が頭に浮かばない。

ゆるん、と呪文の這いずる感触が左手に走ったかと思うと、指が溶けた――ような気がした。手全体が正体をなくし、一体どうやって動かしていたのか、まるで思い出せなくなる。気がつけば指がこわばり、長く突き出る形で再構成され、左腕の先もまた蹄となった。

両の蹄を認識した途端、身体を前に倒して地面に身を預けたい衝動に駆られる――それ以外の動作が思い浮かばないのだ。前足を土に沈ませるのがごく自然なことのように感じられるのに、それが四つん這いという恥ずべき言葉とリンクしている。

おかしい。そんなはずはない。食い違っている。助けてくれ、わたしは、

豚になれ。

ひときわ強い呪文の響きが、鼻の奥で響いた。

「ぶごっ、ごっ、ふごっお」

掌で挟まれたパン生地のように、顔全体が歪んで前に引っ張られてゆく。呼吸の管が引き伸ばされて息苦しい。必死に呼気を届けようとして、鼻が音を立てる。豚のように。

豚。に。なる。

鮮明なイメージが脳裏を走る。

ごわごわの毛。凹凸のない樽のような胴体。平べったく突き出た鼻で地面をほじくり返し、涎を垂らして団栗や虫を咀嚼する。蹄を動かして突進し、鼻をふごふごと鳴らし、垂れた耳をして、大きな腹をさらけ出してぶうぶうと眠り、どんどん肥え太って、ただ飼い主と餌に身を委ねるだけの、

やめろ。考えるな。豚。呪文に屈服するな。わたしは。豚。

わたしは豚だと復唱するたび、おぞましい心地よさが全身を弛緩させる。

わたしはただの豚。騎士などではない。愚かな君主などいない。責任も誇りも、守るべき矜持もなにも持たない。わたしはただ豚の身体として生きるなにか。

透明な指が、わたしの鼻の下に触れる。すでに抵抗の意思はなかった。わたしは鼻をふんふんと鳴らし、これから訪れるであろう祝福の匂いを嗅ごうとする。指はぐいとわたしの鼻を持ち上げる。わたしの鼻は潰れたまま戻らなくなり、鼻孔が真正面を向いたままになる。心地いい。透明な指がわたしの反り返った鼻面を撫で回し、形を整える気持ちよさにわたしは絶頂しそうになる。透明な指が遠くに行ってしまったので、わたしは名残惜しくてその匂いをもっと嗅ごうと顔を突き出す。その意思はわたしの貌そのものとなって、顎と鼻先をむくむくと伸ばしていく。

ふご、ふごと鼻を鳴らすたびにそれは肥大化し、形を変え、濡れて、豚の鼻そのものになっていく。何故かそれがわたしにはわかった。

気がつくと透明な指は、わたしの頬を丁寧に撫でていた。顔を細かな毛が覆いつつあるのがわかる。わたしは心地よさに目を細め、自然と口ににやついた笑みが宿ってそのまま戻らなくなる。

耳を見えない指につままれたかと思うと、にゅうと引き延ばされた。得も知れぬ開放感がわたしを包む。耳はぐにぐにと指で挟まれながら押され、平べったくなって折れる。

「ぎぃーっ、きぃっ、ぶきぎーっ」

気づけば息苦しさは消えていたというのに、わたしはなおも甲高い鳴き声をあげ続けている。豚の鳴き声。それがわたしの声だから。

豚。

わたしは。

わたしは豚に。

そう思ってしまった途端。

ふっと力が抜け、わたしは前足の蹄を地面にめり込ませた。

ああ。なんて楽なんだろう。

ぞくぞくとした安堵感が背中を走り抜け、尾が生えるのを感じた。



我に返ったとき、わたしを襲ったのは耐え難い美味なる香気だった。

我々が誘い込まれたこのキノコ部屋は壁、床、天井の全てをびっしりと桃色のキノコが覆い尽くしていたが、そのすべてが脳を焼く芳醇な匂いを放っている。

なるほど。魔法使いくんはこの匂いに誘われたのか。

見ると魔法使いくんもとうに本物の豚と化していて、一心不乱にキノコを貪っていた。

獣の口吻と化したわたしの口からもぼたぼたと涎が垂れている。

ただでさえ大きく前に開いている鼻孔をさらに拡げ、ぶひぶひと鳴らして香気を頭の中に送り込んでいた。

食べたい。

衝動が全身を襲う。

だが、同時に残った理性がわずかにそれを押し留める。

今ここでこのキノコにむしゃぶりついてしまえば、後戻りはできなくなる――そんな気がしたからだ。

しかし獣と、家畜と化したわたしはたちまちその衝動に負けた。

キノコを鼻で触って恍惚となり、ついで糸を引く涎を振り乱しながら舌に送る。

頭の中が真っ白になった。

恍惚感と味覚と嗅覚とが火花になってわたしの中で散る。今まで食べた中で最上の美味が、人間より遥かに鋭敏な獣の感覚と食欲に送られてくる。

抗えるはずがなかった。

何も考えられない。食べることだけ。わたしは豚。豚だから食べていい。豚。ぶひ。ぶひ、ぶひ、ぶひ――



それからのわたしは、ダンジョン内の豚舎で飼われているようだった。

仲間の匂いを確かめ合い、糞をして、糞の匂いを嗅ぐ。

不快さはまるでなかった。わたしはわたしたちの匂いに包まれて、いつも幸せを感じていた。

やがて餌箱に餌が運ばれてくるので、それを食べる。抗うことはできない。しない。

餌にはあの部屋のキノコが砕かれて少しずつ入れられているのだ。食べなければいけない。あれがあるのに、食べずにやり過ごすなんて考えられない。

わたしたちはその美味を求めて必死に鼻面を突っ込む。舌の感触を頼りにキノコを探し当て、大事に口の奥へ押し込める。歯ですり潰し、口中に広がった美味に恍惚として打ち震える。

食べるたびにこのキノコは美味しくなる。

わたしは毎食に最上の美味に感動し、肥え太り、立派な雄豚となって、匂いを撒き散らし、眠り、起き、また餌を食べ、仲間の匂いを嗅ぎ、鼻を鳴らし、糞をして、餌を食べ、騎士の誇りなど必要なかった、ここには幸せのすべてがある、わたしは、騎士、いや、豚、わたしは、なぜかかなしい、でも、うれしい、なみだがでる、わがきみ、おいしい、わたしの、まもる、なまえ、わたし、ぶた、ぶひ

わたしは


***


(騎士ローザックの魂の声は、ここで途絶えた。これ以降は豚の鳴き声のみが続く)


[小説]ある騎士の独白

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