桜崎旭妃だったわたし(2)
Added 2024-04-04 04:57:36 +0000 UTC「旭妃さん?! 旭妃さん!?」 多賀雄さんの大きな声が聞こえる。 目を閉じていたわたしは、目を開けた。 広がる視野は、ありえない見え方をしていた。 左右の真横が見える。それどころか背後もかなりの角度まで見えてしまう。 そして、四つん這いになっていた。と言っても、人間がその姿勢を取る時のような違和感はない。わたしはごく普通に無理のない姿勢で立っていて、けれどそれは手足いずれも地面に着いた状態なのだ。 さらに視点も異様に高かった。踏み台にでも乗ったかのように高い位置から周囲を見ている。 いや、視野も姿勢も視点の高さもともかく、問題は目に見えているものだ。 わたしの正面には、さっき移動しながら振り向いた時と同じ光景があった。『わたし』が気を失ったように崩れ落ちかけていて、それを多賀雄さんが支えている。 多賀雄さんは『わたし』の首筋に指を当てた。脈を測っているのだろうか、安堵したような息を漏らすと、『わたし』を抱えて急ぎ足に去っていこうとした。 多賀雄さんを呼ぼうとして、声を上げる。 「ヒヒーン!!」 けれどわたしの口からは、馬の嘶きのような声しか出なかった。 口の形が違う。舌の長さが違う。喉から出る声が違う。 わたしは、人間のように話すことができなくなっていた。 多賀雄さんはちらりとこちらを一瞥したものの、そのまま事務所や家屋のある方角へ行ってしまう。 わたしはその場に残された。 * 何が起きているかは想像がついてしまう。 でもすんなり認めるなんてできるわけがなかった。 自分が人間でなくなったなんて、受け入れられるわけがない。 けれど、五感のすべてが伝えてくる。 人間ではありえないものの見え方、聞こえ方。感じる匂い。膝を曲げているわけでもないのに無理なく四つん這いになっている、人間ならありえない姿勢。 立ち上がろうとして、できなかった。二本足で直立することはできなかった。目に映った両手は、手ではなくて前足で、先端はひづめになっていた。五本の指はなくなっていて、物を持つ機能なんて皆無の、地面に立ち地面を蹴ることに特化したものになっていた。 その前足は黒い青毛になっていた。長くなった首を動かして確かめた、それ以外の全身もそうだ。 鼻面が長くなって、目よりはるか前に伸びている。紐のようなものが顔の周りに取り付けられていた。 お尻からは何かが垂れ下がっていて、自分の意志で動かすことができた。尻尾だ。 わたしは、エルフェングリーンになっていた。 信じられない、信じられない、信じられない。 ――二十歳になるまでに初体験を済ませておかないと、この子は一生、幸せだけど不幸なことになるよ。 二年前に教えられて以来、脳裏に刻み込まれてしまっていた予言の言葉を思い出す。 いつも頭の片隅にあって、でもどんなことになるかは想像もつかなかった。それにまた、「幸せだけど」という言葉にすがってもいた。それほどひどいことにはならないのではないかと、どこかで甘く見てもいた。 これが、その結果なのだろうか。 確かにこれは「不幸なこと」だ。人間だったのに馬になった。大学生だったのに、婚約者がいたのに、裕福な家で育ち裕福な家に嫁ぐはずだったのに、馬になった。 人間らしい生活ができない。人と話すことができない。スマホを使うこともできない。おいしいあれこれを食べられない。音楽を聴きに行くことも、美術館へ行くことも、本を読むことも、元に戻れなければもうできない。 元人間にとって、馬の生活のどこに「幸せ」なんて要素があるのだろう? 「はい、そろそろ戻るよ」 きびきびした声を掛けられて、我に返った。 さっき、まだ人間だった時に顔を合わせた厩務員さんがいた。わたしと同じか少し年上くらいの女性。 さっきはオレンジ色のジャンパーを着ていたけど、今は緑色の同じようなジャンパーを着ていた。汚れたか何かで着替えたのだろうか。 ともあれ、今は彼女に従うしかなさそうだった。 今のわたしは人間の言葉を話せないし、ひづめで字を書くのも草が生い茂るこの放牧地では難しすぎる。彼女に何も伝えられない。 彼女を振り切って多賀雄さんと『わたし』の後を今さら追うのも難しいだろう。彼らがどこへ向かったかは定かでない。探しているうちにここで働く人々に囲まれて捕まるのは目に見えていた。 彼女がわたしの長い顔の近くに手を伸ばしてきて、何かを取り付けるとそれを引く。するとそこからわたしの顔に取り付けられた紐状の器具に力が伝わってきた。前へと動かそうとする力。 その時、わたしは自分が人間として扱われていないことを実感として理解した。彼女にとって、わたしは言葉が通じない獣なのだ。 さっきまでわたしは人間だったのに。そう思いはしても、現実を変える手段なんてわたしにはない。 わたしは逆らうこともできず、彼女に引かれるまま前に進んだ。 四本足で歩く。 できるかは不安だったけど、深く考えようとしないのが却ってよかったのか、四本の足はわたしの身体をスムーズに前へ進めていく。 馬の本能みたいなものが、身体に残っているのかもしれない。 歩いているうちに、馬房へ向かっているらしいとわかった。 馬宮家の居心地のいい部屋ではなく、馬が寝起きするための場所で、わたしは今夜を過ごすんだと思った。もしかしたら今夜だけでなく、この先も、下手したら、これから一生、死ぬまで。 と、馬房近くで男性の厩務員がこちらを見て声を掛けてきた。もちろんわたしにではなく、わたしを引いてきた女性に。 「お前そのド派手なジャンパーやめろよ。牧場の雰囲気乱すだろ」 「でも目立つ方がよくないですか? 馬にも覚えてもらいやすいだろうし」 「オレンジ色は馬には見えねえんだよ。緑と大差ないってさ」 「嘘?!」 彼女の横でわたしも驚いた。彼女は着替えてなどいなかったのだ。 二人に導かれ、わたしは馬房の一室へ足を踏み入れる。 「にしても、G1六勝のエルフェングリーンも種付けになるとからっきしだな」 「向き不向きってやつですかね」 言いながら、女性がわたしの頭から馬具を外していく。 「でもそれじゃ困るんだよな。バンバンいい馬を作ってくれないと、俺たちもリストラされかねないぞ」 去っていく二人の会話を聞きながら、わたしはこれまで考えないようにしていたことを考えざるを得なかった。 エルフェングリーンは雄馬で、競走馬としては引退していて、この育成牧場で世話されているのは種馬として期待されているからだ。 わたしは、さっきまで人間の女子大生で、セックスに怯えていたわたしは。 雄馬として、雌馬と子作りのために交尾しなければならないのだ。