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人生トレード魔法――セレナ皇女の場合(大横綱ルート・一)

 目を覚ますと、トイレの個室の中で手を組んでいました。  そこがトイレの個室とわかることに困惑します。わたしの……『セレナ皇女』の世界では、こんな機能的なトイレはありませんでしたから。  その個室を妙に狭く感じ、今のわたしの身体自体が大きいからだと思い至ります。  見下ろす床は遠く思われ、今の身体は身長185センチと「思い出す」ことができました。体重は65キロ。センチもキロもわたしの元の世界の単位とは違いますが、すんなり感覚をつかむことができます。この身体は、ひょろりと背が高いようです。  そこから、様々な記憶が連なってわたしの中に流れ込んできました。  この身体の持ち主は、この世界で最も大きな大陸の中央部付近に位置するあまり豊かではない国の出身でした。貧しい家の出で、けれど十五歳でこの身長に達するくらいには体格的な素質があり、フワノセキ・ベヤというところのオヤカタに勧誘され、大陸東端のこの島国へ格闘技の興行の一員となるべくやって来たのです。  ミハイル・ナマンガニ。それがこの身体の、そしてわたしの新たな名前です。性別は男。  ただ、本来のミハイルは、争いごとが嫌いな子でした。  かといって学業の成績がいいわけでもなく、料理やお菓子作りが好きではあるものの、それを職業にできる特別な才というほどのものがあるわけでもありません。  なので、この島国のアニメや漫画といった文化には興味があったこともあり、金が稼げるとのスカウトの誘いに家族も乗り気なために、やって来たのですが……一ヶ月ほどで早くも挫折してしまい、国を出る前に祖母から教わっていた呪文を唱えたという状況のようです。  ここは、フワノセキ・ベヤのトイレです。朝の稽古の前、ミハイルはここへ来て、自分のつらい人生に別れを告げて新たな人生へ向かったのでしょう。 「これが、わたしの新たな人生ですか」  この世界では誰も知らないわたしの故国の言葉で呟きました。  十五歳の男の子になり、ほとんど全裸に近い格好で人前に立ち、特殊な格闘技で戦う。数年前のわたしなら、冗談ではないと叫んだかもしれません。  けれど、あのまま『セレナ皇女』として帝国の後宮に入るよりはたしかにまだマシだと、今のわたしは――帝国の後宮についてあれこれ知ってしまったわたしは――思えてしまうのでした。  自分の力で戦って、勝つ。実にシンプルな話です。 「やってやろうじゃない」  口にすると同時、尿意を催しました。  だいたいのやり方は記憶に残っていますので、下半身に穿いていた服をずり下ろします。局部がポロリと飛び出ました。 「……大きいものですね」  これは果たして男性の平均サイズなのかしらと疑問に思いながら、用を済ませました。  トイレから稽古のための土が敷かれた場所に戻ると、ほぼ裸に近い巨漢の群れに出迎えられました。全員、体重に関しては今のわたしの倍以上ありそうです。わたしと同年代の子は髪を長く伸ばしていて、年長の人たちは不思議な髪型にしていました。  その年長の中の一人、特に体格がいい男性が、わたしに対して声を張り上げます。 「**********!」 「ウッス」  この国の言葉をミハイルはまだろくに覚えていませんでした。なので、この生活を続ける以上はわたしが自力で覚えるしかありません。 「******!」 「ウッス」  どうも、この競技のためにこの国へやって来る外国人たちは全員、言語習得のために最初に時間をかけてもらえるわけではなく、トレーニングと日常生活の中でこの国の言葉漬けになって学ぶようです。その辺りも、ミハイルが耐えられなかった一因なのかもしれません。  それでもどうにか学んでいたのは、返事としての「ウッス」。これ一言でだいたい承諾の返答になるようです。否定の返答については学んでいませんが、どうも否定すること自体が許されない環境のようなので、学ぶ機会がなかったのでしょう。 「*******!」  彼の声に従って、格下と思しき者たちがわたしに迫ってきました。手には長い布を持っています。  その光景を見て、わたしの脳裏にミハイルの記憶が浮かびました。これもまた、彼が嫌がったもの。  しかしわたしは、この世界で生きていくと覚悟した以上、これも受け入れるしかないのでしょう。 「ウッス」  自分で衣服を脱ぎ捨てました。完全な裸になったわたしの股間に、長い布が巻かれていきます。  布は股下を通り、局部をしっかりと隠し、腰を何回も巻いて留められます。どうやら簡単には外れなさそうです。 「ウッス」  わたしがお礼の意を込めて巻いてくれた相手に言うと、驚いたように目を見開かれました。この程度のコミュニケーションもミハイルは取れていなかったのかもしれません。彼は彼でつらかったのだろうとは思いますが。  そして、稽古が始まりました。  両足を横に広げて立ち、両膝にそれぞれ手を添えます。  そして片足を高々と上げ、地を踏み固めるような勢いでその足を戻します。次はその反対の足。これを繰り返すシコが、この競技では最も重要なトレーニングとされているようです。  あるいはマタワリ。両足を百八十度開脚できるのを目指す柔軟運動です。  あるいはスリアシ。腰を落として足の裏全体を地面から離すことなく歩きます。  あるいはテッポウ。稽古場の柱や壁に向かい、広げた手を右左と交互に突いていきます。  それら基礎トレーニングが終わると、ドヒョウで実戦経験を重ねます。しかし負けると再びドヒョウに上がるまでには時間がかかり、その間は他の人たちの戦いを見るしかないようです。  それらを見ながら、遅まきながらこの競技を理解していきます。倒れたら負け。ドヒョウの外に出ても負け。誰もやろうとしないところから判断するに、拳で殴るのや蹴りは禁止。目潰しなどの急所攻撃も禁止。  何度も転がされ、土まみれになりました。  正午くらいにそれら稽古が終わると、食事の支度。わたしも、言葉も料理も作法もわからない状態ながら手伝うこととなりました。  出来上がったものは、まずオヤカタや強そうな人たちが食べます。わたしたち初心者は最後に食べることを許されました。それでも量はたっぷりと残っていて、『セレナ皇女』の胃袋だったら入りきらないような大量の食べ物がわたしの腹の中に収まります。  それら食事の片づけが終わると、昼寝の時間になりました。鍛えて食べて寝る。何ともシンプルな生活です。  権謀術数だの勢力争いだのよりはよほどわかりやすい生き方で、わたしはけっこう気に入りました。  夕方になると、掃除と夕食の支度が始まります。  そして昼食と同じような流れで夕食が終わり、その後は自由時間のようでした。  と言ってもわたしにはすることも特にありません。この国の言葉がわかれば新聞や本を読むのですが、まずは字の読み方を習う手段を探すべきでしょう。。スマホというものがあれば便利そうですけれど、それも持っていません。寝るのは大部屋で、プライベートな空間ではありませんから、そこにいても落ち着きません。  どうしようかとふらふらしていると、ふと視線を感じました。  オヤカタの生活スペースから、女の子がこちらを見ています。十代半ば、オヤカタの娘さんというところでしょうか。黒髪を肩の辺りで切りそろえている、可愛らしい女の子です。ミハイルの好きなアニメのヒロインに似ていました。  言葉もわからずどうしようかと思っていると、やがて彼女は身を翻して去っていきました。 「***、*******」  先輩に当たると思しき人に笑いかけられます。  彼女が親方の一人娘の千代子さんであること、料理やお菓子作りが得意な高校二年生であること、中学時代は荒れていたけど高校入学前くらいから急に素行が改まったことなどを理解したのは数ヶ月後のことでした。


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