第5話 「糸の先 ― 静まる街角」
Added 2025-08-13 11:44:45 +0000 UTC最初は、笑いだった。 スマホを構えた若者たちは、画面を覗き込みながら肩を揺らしていた。 「やべえ、見ろよこれ」 「変なやつ見つけた」 そんな声が混ざり合い、私は彼女に笑顔を固定させたまま、ゆっくりと化粧直しの動作を繰り返させる。
唇の輪郭ははみ出し、頬を赤く染め、額に意味のない模様を描く。 それでも彼女の視線はまっすぐ前を向き、焦点は虚空を貫く。 まだ、この段階では「面白い奇行」だ。 観客の呼吸は軽く、スマホのレンズは彼女を飾る舞台照明のように光を放っている。
――糸を少し強く引く。 彼女は化粧道具を落とし、片膝を立てて胸を張り、顎を天井に向けて固まる。 その姿勢のまま、わずかに震え続ける。 笑い声が減り、代わりに小さなざわめきが生まれた。 「なにこれ…?」 スマホのカメラはまだ向けられているが、笑顔の主は減ってきている。
次の一手を加える。 彼女を立たせ、腕を水平に広げて固定。 そのまま、指先を細かく痙攣させる。 一見して不自然なその動きに、誰かが小さく息を呑む音が混じった。 背後で、子供が母親の服の裾を掴む。
私はさらに速く動かす。 しゃがみ、立ち、またしゃがむ。 膝を開き、閉じ、腕を振り、止め、また振る。 テンポは一定ではなく、急に速まり、唐突に遅くなる。 その度に彼女の胸や肩が大きく上下し、呼吸が乱れるが、表情は完璧な笑顔を保ったままだ。
ここで、群衆の空気が変わる。 笑い声は完全に消え、ただの沈黙と呼吸の音だけが残る。 スマホを構えていた数人が、ゆっくりとカメラを下ろした。 レンズ越しの映像が、笑える奇行ではなく、「見てはいけないもの」に変わったのだ。
最後の糸を引く。 彼女は片足で跳ね、空を掴むように手を差し伸べ、誰もいない方向へと笑いかける。 その笑顔は揺らがず、瞳は光を反射するだけで、何も映していない。
群衆の最前列にいた若者が、一歩後ずさる。 背後の誰かが低く「やめた方がいい」と呟く。 しかし私は糸を放さない。 彼女はまだ動き続ける。 この街角の静寂と異様さを、もっと深く刻み込むために。
続く