§
「……つまんないな」
凜乃さんはそう言った。
「うん。つまんないな。何かない?」
「ちょっ、塗ってる最中なんだから足揺らさないでくださいって!」
頬に爪がかすめて赤い跡を引く。手にはペディキュアの刷毛。足の爪を濡らされている最中だった。
「爪塗るのにそんなに真剣にならなくてよくない? 足フェチ?」
「凜乃さんは自由過ぎ……。それに適当に塗ったら怒るでしょう」
「その程度じゃ怒らないよ。それより、静かにされてると辛い。黙ると君、ずっと黙ってるんだもん」
「俺は聞き上手なタイプですから」
「その割に君、本質的に私の話を何も聞いてないね?」
「そんなわけありませんよ」
「それ」
「え?」
「敬語。やめてって言ったのに結局やめてくれなかった」
口を押さえると、凜乃さんはジト目でこちらを見つめた。
「まあ、そのスルースキルがあったからうまくいったのかもしれないけど」
「それを自分で言いますか」
「私にだって自己客観化する能力はあるんだよ」
「自己客観化……。凛乃さんは頭が良いですからね」
「君は適当すぎ。そして欲望に忠実すぎ」
「健全だと言ってほしいですね」
はぁとため息をつくと、赤く塗られた爪を見て凜乃さんは満足そうに頷いた。
「こんなに性欲の強い子だとは思わなかったよ」
「第一、最近したがってるのは凜乃さんじゃないですか」
「……ヘンなこと言わないで」
彼女はそっぽを向いてそう言う。
……実際のところ、凜乃さんは若干中毒気味だった。のめり込むととことんのめり込むから、“若干”で済むあたり成長かもしれない。
「そのくせ普通にはさせてくれませんし。ああいうの好きになっちゃいましたか?」
「君、見境ないんだもん」
「……まあ、それはそうですが」
一度等倍で試してみたのだが、……彼女の不安のだいたいが的中したようだった。背中を散々引っ掻かれた。後で散々恨み言を聞かされた。しばらくは猫のように警戒されて、けれど意外にも、次に求めてきたのは凜乃さんの方だった。
「よくわかった。うん、よくわかったよ」
「嫌な予感がするんですが」
「君は家ではこれで十分だ」
そして、俺を縮めたのだ。
⁂
朝を迎えて、俺はしばらく自分がどこにいるか分からなかった。
「おはよう、……と言っても、寝たのさっきだけど」
カーテンが開く。日光が目に染みる。逆光で眩い視界には凜乃さんのシルエット。ワイシャツを着て、体のラインが透けていた。
「もっと寝かせて……」
「寝たかったら寝ててもいいんだよ。仕事は定刻に始まるけど、大学は最悪休めるから」
「とはいえお一人にさせる訳にもいきますまい……」
「そう言えば今日は休日か……。しばらくゴロゴロしていることだね。小さいと何かと疲れるだろうし」
「もうとっくに慣れましたよ」
「そう?」
目の前に、長い美脚がそびえ立った。
「なら、こっちも遠慮しないけど」
そういうと、5倍サイズの凜乃さんは、こちらに手を伸ばした。
……一時期はヒリついた空気を帯びた俺の日々も、緩やかに日常に合流しつつあった。ゼミメイトには散々茶化されたが。おおむね俺は、平穏を取り戻しつつある。
ただそれは、元の生活に戻るということを一意に意味するものではない。
「前より食べるようになったね」
テーブルに頬杖をついて、凜乃さんは俺の姿を観察していた。机の上で、リスのようにパンを頬張る俺を見てのことだった。
「食べてる分運動してますから」
「まあ……、前より、たくましくなったよね」
「誰のせいで……、ま、待ってください!」
「ユキくんは嫌なの?」
「滅相もない」
「毎回それ言ってる気がする……」
凜乃さんが唇を尖らせる。俺を持ち上げると、体つきを指先で撫でた。
「戻したくないなぁ。キミがまたデカくなっちゃう」
「その割に最初に話しかけてきたのは凜乃さんですよね?」
「あの時のキミは可愛かったんだよ」
「今は?」
「可愛いよ? ちっちゃければ」
「何か変わったつもりはないんですが」
「若さかなぁ。なんか子供に見えた」
「少しは大人になれましたかね」
「見る側のメガネが変わったのかも?」
「それもそうかもしれませんが。……こうして小さくされている限り、大人っぽくしても背伸びにしかなりませんよ」
婉曲的な抗議のつもりだった。滑稽だから戻してくれ、と。けれど凜乃さんは、ポンと手を合わせて目を大きくしている。思い付いちゃった、という顔だった。
「ちょ、ちょっと、その顔やめてください!」
「私はまだ何も言ってないよ?」
「ずっと縮めてれば可愛いままとか考えてるんでしょう!」
「さすがユキくん、私のことよくわかってるね?」
「これで無理解だったら一周回って才能ですよ!」
「素敵だね。うん、とても素敵だよ」
キャンキャン叫んでいるけれど、凜乃さんは気にしない。そして、にこやかな顔で俺を持ち上げると。
「ぎゅ~……♡」
相互依存のフレーバーをまとった抱擁で、俺を包み込んでしまうのだ。
「……君、ちょっと蕩けすぎ」
「……体験してみればわかりますよ」
「まあ、この土日はこの大きさで過ごそう」
“それでひとまず終わりにしよう”と、凜乃さんは言った。
⁂
怠惰とも優雅ともつかない退廃的な午後を過ごし、午睡をし、夕餉を終え、そしてひとしきり遊戯に耽ったのち。
「……そろそろ朝か」
むくりと身をもたげた黒髪美女は、窓の外を見て呟いた。
「食われるかと思った……」
「何言ってるの。ほら、立って」
そう言うと、俺に服を着せる凜乃さん。
「どうせ、まだ夜は明けないよ」
朝、街の寝静まった頃に俺たちは散歩に出た。深夜でも早朝でもない住宅街は、朝日の気配を滲ませ青色を帯びている。そろそろ、コートの時期も終わる。チェックのコートのボタンを外し、静謐な住宅街を凜乃さんは歩いた。
「この体で外に出ることがあるとは……」
「いつもの道だけど……、今の君には新鮮じゃない?」
「端的に言って異世界ですね」
凜乃さんは、今にも滲んで溶けそうな星空を見上げている。華奢な後ろ姿が、暗い空色の背景によく映えていた。始発前の空気は、日中の疲れを残しつつ澄んでいる。群青色の空に針を刺したように星の光が輝き、かつ滲む。青色の季節だった。
「しばらく、縮めるのはやめてみるよ」
「俺はどっちでもいいですけどね」
「私の気分かな」
じりじりと、空が白み始める。
曙光を背負って、凜乃さんはこちらに振り向くと。
「まあ、これからも、よろしく」
笑顔を見せて、そう言った。