変調
Added 2021-01-28 13:42:56 +0000 UTC変調。 それは突如として体の内側から湧き上がってきた奇妙な感覚だった。 決して苦痛だったり不快だったりはしないが、それでも好ましいものとは思えない不思議な何かが胸を満たし始めた。 いつもどおりに学校で教科書とノートを広げていた高校一年生の卯乃香は、何の前触れもなくやってきた変調に困惑していた。 熱はないけど念のため保健室で診てもらおうか。 そんな考えが過るが、テストも迫った今の時期に授業を抜け出すのは気が引ける。 もう少しすれば昼休みだし、今は我慢しておこう。 卯乃香が板書の書き写しを再開しようとした瞬間、バキッという渇いた音が教室中に響き渡った。 その音の発信源である卯乃香の元に、クラスメートからの視線が一気に注がれる。 「えっ ……きゃあっ!!」 一瞬にして注目を浴びたことに動揺した卯乃香は思わず全身を強張らせる。 まるでそれが合図であるかのように、卯乃香が今この瞬間まで腰掛けていた椅子の足が折れてしまった。 椅子を破壊したお尻が勢いよく床に叩き付けられと、鈍い痛みが突き上げてくる。 「痛いっ! うぅ…… あれ?」 お尻を擦る卯乃香に強烈な違和感が襲い掛かってきた。 目線が先ほどまでと変わらない、いや、むしろ少し高くなっているのだ。 あまりの出来事に思わず眼鏡のフレームに手を当て、見間違いでないかを確認してしまう。 だが、隣の席に座ったままの男子生徒が自分を軽く見上げるようにして、驚愕の視線を向けていることでこれが間違いではないと認識した。 「私、大きくなってる……? そ、そんなことあるわけ……」 周囲を見渡すが、その場に居た誰もが言葉を失ったまま卯乃香を見つめていた。 どうやら元の2倍ほどまで大きくなった卯乃香の体重を支えきれず、椅子は壊れてしまったようである。 スカートの下から粉々になった椅子の残骸が飛び出しているのが見て取れる。 その瞬間だった。再び先ほどと同じ変調が湧き上がってくる。 卯乃香がそれに気がつくのと、再度の巨体化が進行するのはほぼ同時であった。 グシャア、バキバキバキ。 あちこちで物が破壊される不快な音が鳴り響く。 教室の最後列に座っていた卯乃香は、セーラー服の背中越しでいくつもの鉄製のロッカーを押し潰していた。 前方に放り投げるようにしていた右足は、前の席に座っていた男子生徒を蹴り飛ばしてしまったらしく、彼自身と使っていた机と椅子が教室前方の教壇まで転がっている。 卯乃香の身長は6メートルを超え、すでに教室の天井に頭をぶつけるようになってしまっていた。 可愛らしくショートカットに切り揃えた髪が天井を押し出し、軽く天板を持ち上げている。 ここまできてようやく、教室内に悲鳴が充満し、教師も生徒も関係なく我先にと教室のドアに向かって駆け出してしまう。 「ま、待ってよ! 私なんにもしないから! 怖がらなくて大丈夫だから!」 まるで自分が化け物であるかのように逃げ惑うクラスメート達。 自分でも何が起きているのか分からないままだが、それでも決して彼らに危害を加えるつもりなどない。 それを分かって欲しかったのだ。 だが、そんな卯乃香の気持ちを嘲笑うかのように三度目の変調が訪れた。 これ以上、体が大きくなってしまえば怪我人がでるかもしれない。 卯乃香は体内から込み上げてくる正体不明のなにかに必死に抗おうとしたが、その方法に検討すら付かなかった。 「嫌ぁ!」 心優しい少女は再びその肉体を膨張させていく。 すでに座った姿勢で天井ギリギリの高さであるのだから、これ以上はこの姿勢ではいられない。 幸いなことにクラスメート達はすでに教室の外に逃げ出している。 卯乃香は上半身を倒した後、両腕で膝を抱え込むようにして丸くなることで、なんとか教室の中に留まることに成功した。 頑丈に設計されていたはずの机や椅子などは15歳の女の子の下敷きとなって粉砕されてしまう。 「ほ、本当になんなの。……え、嘘っ」 四度目の変調は即座に訪れた。 まるで卯乃香が教室内に留まったことが不満であるかのように、先ほどまでよりも明らかに早いスピードで体が膨張していく。 一度の変調を迎える度にぴったり2倍の大きさに変貌しているのだから、次は24メートルという巨体になることが予見できた。 すでに軋みを上げている床がそれに耐えられるはずもなく、どんなに体を丸めても部屋一つに収まることはできないだろう。 「み、みんな逃げてぇ! こ、このままじゃ潰しちゃう!」 卯乃香の声が校舎中に響き渡る。 先ほどから断続的に続いていた振動や、何かが壊れる物音に違和感を覚えていた生徒たちは、ようやく異常事態が起こったことを理解した。 なにがあったんだろう。どこに逃げようか。 似たりよったりの話題でガヤガヤと私語が蔓延し始めた瞬間、彼らの頭上にあった天井が崩落して紺色の布が視界を覆い尽くす。 「あっ、ああああ」 卯乃香は自分のお尻の下で何かが弾けるのをしっかりと感じ取った。 それも一度や二度ではない、何度も何度も繰り返し生暖かい何かが弾けるのだ。 それに交じるようにして脆いなにか、例えるならシャープペンの芯ほどの耐久力しかないものを数え切れないほど砕いてしまう。 それらの正体に見当を付けることは容易いが、卯乃香はそれを受け入れたくないのか、無意識に首を横に降って考えを振り払う。 ------人間を押し潰してしまった。 自分のお尻が何十人も巻き込んで、彼らの肉体をズタズタに破壊してしまったのだ。 制服のスカートには彼らの血肉片がべったりこびり付いていることだろう。 それを確認するだけの勇気は、卯乃香にはなかった。 「そ、外にでなきゃ……!」 これ以上の被害を出さないためにはそれしかない。 幸いなことに学校のグラウンドは十分な広さがあるはずだ。 だが、当然のように今の卯乃香はドアから出ることはできない。 「ごめんなさい。緊急事態だから許して!」 卯乃香が細腕を伸ばして校舎の内壁を殴り付ける。 コンクリートで作られているはずの壁は、まるで砂細工であったかのように女子高生の腕で殴り壊され、その場に大穴を穿たれてしまった。 そのまま腕を振り払うようにすれば、壁に空いた穴は凄まじい早さで拡大してしまう。 卯乃香が体をよじるようにして校舎の外に出ようとした瞬間だった。 これまでとは比べ物にならない程の変調が込み上げ、あまりの強烈さに意識が遠のいてしまいそうになる。 目を強く瞑りながら歯を食いしばってなんとかそれに耐えると、やはり急速に体の膨張が始まってしまう。 「と、止まって! お願いだからもう大きくならないで! 大変なことになっちゃう……」 だが、何をどうやっても巨大化が止まることはなかった。 一瞬のうちに頭部が屋上を突き破って外の景色が視界に入り、お尻は再び床を貫いて階下に残されていた生徒と教師を肉片に変えてしまう。 だが、伝わる感触は先ほどまでよりもずっと小さなものであり、それはつまり卯乃香がそれだけ大きな体躯に変貌しつつあることの証左であった。 先ほど壁を突き破った腕はすでに地上に手をついているし、両足もいつのまにか校舎の外壁を突き破って体育館に向けて伸ばされていた。 「あ、あれ? なんで止まらないの? もう倍以上になってるのに!?」 すでに50メートルを超える巨体となった卯乃香。 だが、変調は収まる様子を見せない。それどころかペースを加速させているようだ。 全身のあちこちから脆すぎる校舎を押し潰し、磨り潰す感触が伝わってくる。 そして、この変調が収まったときには、卯乃香の身長は155メートルにも達し、元と比較すればちょうど100倍の巨体となった。 もはや校舎などは瓦礫の一部が視界に入るのみであり、大半はお尻と太腿の下敷きになるか、制服のどこかを汚す砂埃となっている。 「…………こ、こんなことあり得ない。絶対おかしいっ……!」 座り込んだままの卯乃香が周囲を見渡す。 座ったままでさえ高さ70メートルの高度に目線のある卯乃香は、周囲が見慣れた町並みであることに絶望した。 なにもかもが小さい。玩具だってこんなに小さくは作らないだろう。 あまりにも非常識で現実味のない状況に体が震えだす。 卯乃香の通う学校は一般的な公立高校であり、全校生徒は7百名程度だったはずだ。 その校舎が完全に倒壊し、自分の体の下敷きになっているのだから、彼らの運命など一つに決まっているのだ。 ふと、卯乃香の視界に体育館の赤い屋根が写り込んできた。 見上げるほど大きく造られていたはずの体育館が、今では通学カバンよりも少し小さい存在になっているのだ。 校舎から離れて造られていたことで卯乃香の下敷きにはならなかったようだが、代わりに上履きを履いた右足が襲い掛かったらしく、半分ほどの面積が上履きに押し潰されていた。 だが、体育館はそれでも辛うじて形を保っている。 ――――まだ生きてる人がいるかもしれない! 「だ、誰か無事な人はいますか? 今から足をどけますね!」 宣言とほぼ同時に卯乃香は右足を体育館から引き抜き、自分の元に寄せた。 普段の生活の中でも自然にやるような、何もおかしなところのない動作である。 それは、引き抜いた足の代わりに手を差し伸ばして中の人を救い出そうとした瞬間だった。 「あっ…… そんな」 卯乃香の上履きにより掛かるようにしてバランスを保っていた体育館が崩落した。 瓦礫の雨が生存者たちの下へ降り注ぎ、一瞬にして彼らを押し潰して埋めてしまう。 卯乃香にとっては綿埃程度の重さにしか感じ取れないそれらも、普通の人間にとっては容易く命を奪い取られてしまうだけの大質量であった。 あまりに突然の出来事に悲鳴をあげることすらできなかった。 「わ、私は助けようとしたのに……」 目の前で起こった悲劇に呆然とする卯乃香。 突如として手に入れた圧倒的な巨体とそれに相応しい絶大な力。 それに慣れていないせいで、こうなることが想像できなかったのだ。 女子高生の片足に寄りかかって立っている建物など存在するはずがない。 自分がほんの少し動いただけでも、人間は死んでしまうのだった。 「……本当にみんな死んじゃったの?」 自分の引き起こした惨状を否定したくて生存者を探す卯乃香。 あたりには飛び散った校舎の破片が散乱し、中には学校の敷地を超えて住宅を押し潰しているものもあった。 相当な轟音がしたのか、人々は家から飛び出して音のした方角、つまりは卯乃香を見上げて何やら喚き散らしている。 遠くからサイレンの音が迫っており、間もなくこの場は喧騒に包まれることだろう。 「私、これからどうなっちゃうんだろ……」 自らが引き起こしてしまった惨状。 一つの校舎を完全に破壊して、何百という人を死に追いやったのだ。 決して卯乃香がそれを望んだわけではない。 まるで理解の追いつかない異常事態に巻き込まれただけである。 だが、周囲にそれを打ち明けたとして、果たして受け入れて貰えるものだろうか。 数百人を殺害したことが何の罪にも問われないだろうか。 「……逃げなきゃ」 卯乃香が辿り着いた答えはシンプルなものであった。 その場でゆっくりと立ち上がると、制服からは大量の瓦礫と砂埃が地上に降り注ぐ。 パタパタと軽く叩いて汚れを落とす途中、お尻の部分がベットリと濡れていることに改めて気がついてしまう。 その汚れもついさっきまでは自分と同じ学校に通う人間だったのだ。 「わ、私のせいじゃない! 私は何もしてないもん!」 誰に聞かせるでもない言い訳が口からこぼれ落ちる。 卯乃香がその場から足早に立ち去ろうとすると、その度に上履き越しに地面が沈み込む感触が伝わってくる。 足元をみればくっきりと足跡が刻み込まれ、凄まじい体重を周囲に見せつけていた。 これ以上の被害を出さないようにと注意しながら歩く卯乃香は、運の悪い自動車を踏み潰し、電柱を薙ぎ倒し、老朽化した建物を歩く振動だけで倒壊させてしまう。 うっすらと涙を浮かべる少女が被害を出さずに歩くことは不可能であったが、本人がその事実に気がつくのはもう少し先のことであった。