第一章
それは突然のことだった。
「はじめまして」
無愛想な彼女は、最初は硬い雰囲気を漂わせてやってきた。
寧々のことである。
黒を基調とした野暮ったいワンピースに化粧気のない顔、肩まである真っ黒な長い髪。
何と言っても全く表情が無いその美しい顔立ちが特徴だ。
「・・・はあ」
金碇はその時、ファミレスでぼんやり過ごしていた。
名前は「ファミリー」レストランではあるが、学生時代の一人暮らしの頃は、自炊が面倒になるとたまにこうしてやってきては溜まっていた本を読んだりしながら、長時間ドリンクバーとたまに追加する一品のおかずで粘ったものだった。
その習慣が今も続いている。
会社帰りでスーツのままなのだが、ちと会社で面白くないことがあり、ふて腐れて素直に帰りたくなかったのである。
まだウィークデーで、明日も仕事があるのに素直に帰って眠った方が疲れが取れるのは重々承知だったが、何というか駅から一人暮らしのアパートまでてくてく歩くのがなんとも馬鹿馬鹿しいというか、そんな気持ちになっていたのだ。
「金碇那知(かないかり・なち)さんですね」
「・・・あなたは?」
突然目の前に座った美女に訝(いぶか)しむ金碇。それも当然だろう。
よくよく見てみれば、余り手入れのされていないであろう枝毛だらけの長い髪の寧々は、上手く言えないがワイルドな魅力に満ちていた。
全くの無表情もその美しさ以上に、ただならぬ雰囲気をアピールしている。
「申し訳ありません。私はナビゲーターです」
「???」
この時、金碇がどんな表情をしていたのかは自分でも分からなかった。
「失礼。ナビゲーターというのは職業名です。名前は一応、半井寧々(なからい・ねね)と名乗っています」
「あの・・・なんですか?」
ヘンなのに絡まれたな・・・と思った。
もう十分楽しんだし・・・いいか。
「分かりました。トイレに行ってくるんで待っててもらえます?その後お話聞きます」
「・・・はい」
当然ばっくれた。
だが、これでは終わらなかったのである。
「お早うございます」
翌朝のことだった。
心臓が止まりそうになった。
通勤に使っていた電車に乗ろうと改札をくぐったところに「彼女」がいたのである。
昨日と全く同じ服装だった。
太陽の下ということもあるのか、ぞっとする魅力をたたえた美少女であることは改めて分かる。だが、それ以上に薄気味悪い。
「あ・・・あの・・・」
「お話の続きを」
「これから会社なんで」
「途中でも構いません」
困ったことになった・・・と思った。
「半井寧々」・・・「ナビゲーター」と名乗った美少女は、決して快適とは言えない通勤電車に金碇と一緒に乗って来た。
「あなたは特殊な能力というより特異体質があり」
いきなり始めようとしたのでびっくりして思わず言った。
「ちょっと!こんなところで込み入った話は無しだよ」
「でも、金碇さんお逃げになるので」
「分かった!分かったよ。ちゃんと話は聞くから電車を降りてから・・・って結構ギリギリだから仕事終わった後でもいい?」
「はい。ではその様に」
一旦事情が呑み込めると、寧々は本当に銅像の様に押し黙って何もしゃべらない。
何とも妙なことになった。これを会社に一緒に連れていけとでも?
幸か不幸か誰か付き合っている人間がいるという訳でもない。誤解されたとてダメージは少ないんだが、こんなわけのわからんストーカー女まがいなんて嫌だ。
昼休みは外に出なかった。
オフィス街のど真ん中にある社屋なので、近所の地下街はお昼時ともなれば芋を洗うような混雑となる。
それでいて手際よくそばでもどんぶりでも食べられるのだから日本の外食産業は大したものだ。
この日は入社以来の社員食堂でラーメンをつついた。
意外に安くて美味いと思った。
これと言って待ち合わせている訳でもないし、素早く走り抜ければ大丈夫だろうと思い、そうした。
地下鉄に乗り込んで、大きくため息をつくと、目の前に気配を感じた。
「では、ここでよろしいですか」
「・・・っ!!」
心臓を鷲掴みにされたかと思うほどドキッとした。
先日から付きまとってくる美少女が目の前にいたのである。
「・・・あ・・・」
「切符を買う必要はありませんでした。便利ですねこれ」
といって、全く表情を変えずに「スイカ」カードをひらひらさせる。
なるほどこれを持っていれば追いつきさえすれば切符を買うタイムロスは無いということになるわけか。
「では始めます」
「ちょっと待って!」
金碇は周囲を見渡した。
周囲は適度に混雑が始まったという程度で人はある程度まばらだ。
地下鉄内である程度会話が為されていたとしても、それだけでとがめられるということはあまりあるまい。
とはいえ、金碇にも経験があるが、そうした会話の内容は聞かれてい無さそうで耳をそばだてれば全部聞こえているものだ。
「せめてその・・・声を出さずに」
「といいますと?」
「あんた、スマホは持ってる?スマートフォン」
「はい」
懐から女性には大振りに思える黒い板が出てきた。
「それに文字を打ってくれ。それを見ながら『筆談』しよう」
「・・・普通に通信をすればいいのでは?」
「したくないんだよ。分かる?」
お互いに電話番号も通信アプリのアドレスも送る気が無いってことだ。ストーカーに個人情報をくれてやるバカがいるもんか。
立った状態で隣り合うと、こちらの方が頭半分くらいは背が高い。
美少女だが、同時に素朴かつ野暮ったい服装は確かに魅力はある。あるんだが状況がシュール過ぎる。
美少女はスマホを認証して立ち上げると、盛んに指をスワイプさせ、こちらに見せて来た。
『これでよろしいですか?』
何というツールなのか知らないが、ほぼ画面いっぱいに文字が並んでいてとても読みやすい。
金碇は仕方なく頷いた。
また画面をとことこやっている美少女。自称「ねね」。
『では始めます』
そのタイミングだった。
出発間際だったらしい地下鉄に一気に人が押し寄せてきた。
たちまち、地獄の通勤ラッシュほどではないものの、かなりの人口密度になってしまう。
金碇は謎のストーカー美少女と物理的に分断されるチャンス!と思ったのだが、彼女は器用に位置を調整して、金碇のほぼ真正面に滑り込んでいた。
ほぼ同時にドアが閉まり、地下鉄が出発した。
『あなたには特殊な体質があり』
いつの間に打ったのかこの状況でも「筆談」を継続する気らしい。
なるほど確かにこの状況で普通に会話するよりも便利には違いない。とはいえ、かなりの混雑だ。
自分で言いだしたとはいえ、これは上手くない。
仕方がない。
どうしても撒けそうにない。
どこかこの間のファミレスみたいに適当なところにシケ込んで、そこそこ目撃者の居るところで話を聞くか。
そうした内容を打とうと懐のスマートフォンに手を伸ばそうとした時だった。
「きゃーーーーーっ!!!」
耳がキンキンするような声だった。
「ち、チカン!この人チカンです!!」
突然手首を掴まれ、高々と差し上げられた。
余りにも突然の事態に、金碇の頭の中が真っ白になった。
これが噂の「チカン冤罪」という奴なのか。
これ一つで人生すべてが終わってしまう。
この頃は「チカン冤罪」の悲惨な実態が報道されるようになって来ているとはいえ、客観的にそれを証明することなど難しい。いざ女性がそうと言い始めたならば非常に不利なことには変わりがない。
一斉に周囲の注目が集まる。
「ち、違います!そんなことしてない!」
やっと声が出た。
「しらばっくれないで!あんたいつも私の後ろに乗ってるでしょ!」
「はぁ!?」
ムチャクチャだ。
仕事帰りのOLらしきその女性の顔なんぞ見るのも初めてだ。
「今日こそ観念してもらうわよ!駅員に突き出してやる!」
「人違いだ!」
「いつもその格好してるでしょうが!」
「当たり前だ!」
社会人の男がドブネズミ色のスーツにネクタイなのは当たり前だ。
明らかに偏見による決めつけで人違いなのに暴走している。
だが、周囲の空気は明らかに悪くなって来ていた。
チカン冤罪ならば気の毒な被害者ではあるが、「常習犯」ということになれば同情の余地などない。
「おいおい!あんだこの野郎が!」
会社帰りのOLとそぐわない、安っぽいスカイジャンパーの金髪がしゃしゃり出て来た。
「こいつか!このヘンタイ野郎が!」
「そうよ!こいつなのよ!」
・・・グルだ。
こいつらは示談金目当てのチカンでっち上げ常習犯だ。
仮に駅員に突き出される事態を逃れられたとしても、示談金と称して大金をせびられる危険性がある。
余りにも絶望的なシチュエーションに目の前がくらくらしてきた。
その時、信じられないものが目の前に飛び込んできた。
『お助けしましょうか?』
流し目の様にこちらの表情を確認しつつ、寧々がスマホを見せつけている。
「筆談」形式にしていたことが役に立った。
これで相手の男女二人組に気付かれない。
金碇は寧々の目を見て小さく首を上下させた。『頼む』という意思表示だ。
タイミングよく車両が大きく揺れた。
「きゃっ!」
寧々がわざとらしく男と女の両方に手が掛かる様に大きくもたれかかった。
「きゃっ!」
「うわあ!!」
思わず寧々の方に視線を集める男女。
「あ・・・すいません」
しおらしく詫びを入れる寧々。スマホはいつの間にか収納されていた。
「気を付けろ馬鹿野郎!」
安っぽいスカイジャンパーの大男は寧々を突き飛ばす様に引き剥がした。
「・・・っ!!」
女の方が異変に気付いて目を見開いている。
「・・・ぁ・・・」
金碇は、余りのことに小さく一言言うしかなかった。
見下ろすその視線の先には、凛々しい男物のスーツの前方を見事に押し上げる「乳房」の形があった。
ごく普通の髪型だった髪は若干乱れ気味ながら、背中の真ん中まで伸びており、極端にメリハリのあるボディはベルトを緩ませ、それでいてヒップをパンパンに張りつめさせていた。
一言で言うと、金碇は一瞬にして女の身体へと性転換していたのだ!
発育のいい乳房の先・・・乳首・・・がTシャツを通してすらワイシャツの先に「ぽっちり」と形を浮き出させている。
メイクもしていないのにうっすらと可愛らしく赤く見えるさくらんぼのような唇が可愛らしい。
「な、何だおめえはぁ!!」
それは驚くだろう。
さっきまでチカン冤罪を仕掛けようと思っていた相手が、ドキッとするほど可愛らしい美女になってしまっているのだから。
「どうしました?」
お節介にも「犯人逮捕」をしてやろうという大学生風の若者がやってくる。
「ち、チカン!チカンです!こいつが!」
女は必死になって美女と成り果てている金碇を指さして金切り声を上げる。
「・・・?この方が?」
どういう訳かまるで似合っていないダブダブのスーツ姿ではあるが、そこにいるのは紛れもない女性にしか見えない。どうして「完全に男物」
のサラリーマンスタイルの扮装をしているのかという問題はあるにせよ。
「・・・この方がチカンをしたんですか?」
「そ、そうだよ!!このヘンタイ男が!!」
実はこの瞬間まで周囲の乗客は、金碇をマジマジと見てはいない。何となく眺めていたくらいだ。
「すわ修羅場か!」と注目した野次馬は幸か不幸かいなかったのだ。
目を血走らせ、金切り声を上げて「ヘンタイ男」と名指しするその先にいるのが美女なのだから、その説得力は全く無い。
「あの・・・男性・・・ではないですよね?」
そういう風に聞かれたのは初めてだったが、胸に感じるこの重さと、下腹部の寂しさは・・・恐らく間違いないだろう。
女になってしまうなんて驚天動地の出来事ではあるが、それに匹敵する修羅場である。それが相俟って、金碇は奇妙なくらい冷静を保つこととなった。
「・・・多分」
鈴が鳴る様な綺麗な声だった。
「ウソだ!ウソだよ!こいつさっきまで男だったんだよ!それが一瞬にして女になったんだ!!」
この発言が決定的だった。
実際には事実そのままではあるのだが、そんなことを怒鳴る女に信憑性などある訳が無い。
「て、テメエ!女装なんかしやがって!」
男の方が金碇に掴みかかった。
「きゃああっ!」
自然と声が出ていた。
「わざとらしく胸に詰め物なんてしてんじゃねえぞ!」
そう言ってネクタイを緩め、服の前を引き千切った。
「きゃああああーーー!!」
為すすべも無くボタンが吹っ飛び、Tシャツが破れた。
同時に、形のいい乳房がまろび出る。
「っ!!」
大男がひるんだ。
本当に女だったからだ。
「きゃーーーーーーーーーーーー!!!」
車内の別の方向から悲鳴が上がった。
別の女性である。
それはそうだろう。
目の前で何故かダブダブの男装姿とはいえ、れっきとした女性が突き倒され、服を剥かれ、胸を露出させられたのである。何故いい大人の女性がブラジャーをしていないのかなど小さな問題だ。
ほぼ同時に大男が宙を舞った。
「ぐああああーーっ!!」
ドシン!と音がしてうつ伏せに組み伏せられていた。
「お静かに。暴行容疑で私人逮捕します」
寧々だった。
ぞろっとしたワンピーススカートはとても格闘に向いているとは思えないのだが、実に見事な手際で、自分の倍の体重の有りそうな男を見事に組み伏せていた。
「テメエこの野郎!!」
我を失った女が金碇に食って掛かる。
寧々は迷わず大男を振りほどくと、半ばタックルするように会社帰りのOL女に飛びついて抑え込んだ。
自由を得た大男だったが、今度こそ周囲の男たちが寄ってたかって抑え込みにかかる。
その間、耳が痛いほど怒鳴り続けた女を見事に確保してビクとも動かさせず次の駅まで捕縛し続けた。