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『今際の国のオオカミ』高橋文吾(2)

登場人物: ・高橋 文吾(たかはし ぶんご) 22歳。暇を持て余す大学生四年生。家庭教師のバイト。 ・浜辺 幹也(はまべ みきや) 18歳。受験間近の高校三年生。文吾の生徒。元水泳部。 ============= +++++  池袋駅の東口に辿り着いた時、二人は言葉を失った。  百貨店のショーウィンドウのガラスや、コンクリートの歩道や、改札へと続く階段や、宝くじ売り場のあちこちに、おびただしい血が飛び散っていた。何者か――おそらく狼男と呼ばれる者によって食い荒らされたのだろう、そこには無残な人間の死体が転がっていた。  腐りかけた人間の死体を、カラスが嘴の先で突いていた。死体の積まれた上を、ハエが黒い霧のように群がっていた。「カア、カア、カア、カア――」ビルの上空には、無数のカラスが渦を巻くように飛んでいた。  文吾は、吐き気を覚えた。  幹也は、青ざめた顔で凍り付いた。  ここにいてはいけない。  文吾の心臓がバクバク鳴っていた。 「マンションに戻ろう、ここは危険過ぎる」文吾は、幹也の耳元で囁いた。「なあ、幹也。聞いてるか? ここは駄目だ。幹也の家に行くのはまた今度にして、いったん戻ろう」幹也は答えなかった。文吾は、ショックを受けて固まっている幹也の手を引っ張った。 「大丈夫だ、大丈夫だ、落ち着いて行動しよう」文吾はマンションへ向かって歩きながら、今にも卒倒しそうな幹也に向かって声を掛けた。平静を装っていたものの、誰かに狙われているかもしれないという恐怖で声は震えていた。 「――よお」  背後から男の声がした。  文吾と幹也は、「うわァッ」と悲鳴を上げた。  振り返ると、そこには『狼男』が立っていた。  狼の頭を持つ男。幾重もの筋肉の鎧で覆われた巨躯は、余すところなく銀色の獣毛で覆われていた。背中の筋肉が発達し過ぎているせいか、やや猫背気味に見える。手足はまさしく獣のそれで、鋭い爪が光っていた。股間には、うっすらと毛に覆われた凶器じみた性器が屹立していた。  頭の中が真っ白になった。  二人はぽかんと口を開け、三メートル近くあるだろう肉体を見上げた。 「お前ら、新入りか?」  狼男は緋色の目を細め、ニイッと口の端を吊り上げた。淡いピンクの口の隙間から獰猛な牙が覗いた。殺される――文吾の頭の中は、その言葉で一杯になった。考えるよりも先に、「幹也ッ、逃げろッ!!」と叫んでいた。  文吾の声を聞いた途端、幹也は弾かれたように走り出した。 「うおおおおおおおおおおおおおおッ」  自分が何をしているかも分からなかった。文吾は血走った目で雄叫びを上げながら、無謀にも狼男に向かって突進した。狼男はそんな文吾を見てフッと鼻で笑い、文吾の手首を捻り上げ、駐車場のフェンスへと投げ飛ばした。  ガシャンッ!! と文吾は背中からフェンスにぶつかった。 「ぐあァッ!!」文吾は背中の痛みに叫んだ。 「丸腰で俺に向かってきた奴は初めてだ。ははッ、お前、頭が悪いのか? 新入りだからって、迂闊な行動を取り過ぎなんだよ」狼男はフェンスに投げ飛ばされてぐったりしている文吾を見下ろし、嘲笑した。 「う、うう……」文吾はフェンスの前で座り込みながら、狼男がこちらに近づいてくるのを目で捉えた。立ち上がろうとすると膝が震え、後頭部と背中に鋭い痛みが走った。  きっと、俺はこのまま殺されるんだ。  幹也は生き延びられるのだろうか。  年上だからと言って、見栄なんか張らなければよかった――。 《狼男に殺された時点でゲームオーバー。  生存を懸けて、頑張ってください。》  文吾の脳裏に、スマホの液晶画面の文字がよぎった。  もう、駄目だ。俺は、『ゲームオーバー』なんだ。  文吾は、絶望の奥底に沈み込むように目を瞑った。狼男に殺される恐怖に、ぎゅっと身体を強張った。さっきまでは反抗する気力があったが、もう足が竦んで動けなかった。俺って、こんなに弱くて、情けない人間だったんだ……。思わず、涙が出そうになった。  すぐ近くで、狼男の足音が止まった。  狼男の生温かい吐息が、文吾の首に触れた。 「ひッ、」と文吾は小さな悲鳴を上げた。  目を開けると、狼男の頭が迫っていた。  緋色に輝いた狼男の目には、恐怖と絶望に歪んだ文吾の顔が映っていた。 「俺、お前みたいな奴、嫌いじゃないぜ?」  狼男はそう言って、文吾の首筋に獰猛な牙を突き立てた。 +++++  文吾は、アパートの一室で目を覚ました。  真っ白い天井が視界に入った。 「――ッテェ……」  文吾は、ベッドで横になっていた。  周囲を見回すと、そこは雑然とした汚い部屋だった。カーテンが閉め切られているせいで、やけに暗い。最初に目を覚ました部屋と異なり、つい最近まで誰か(おそらく男)が住んでいたのだろう生活感に溢れていた。つんと、カップ麺の残り汁が腐ったような臭いが鼻を突いた。  幹也の姿が見当たらなかった。  しかし、立ち上がって探し回るほどの気力はなかった。  身体のあちこちが痛んだ。特に、首筋と背中が燃えるように痛かった。熱があるのか、ゾクゾクと寒気がする。文吾は強烈な喉の渇きを覚え、頭の近くにアクエリアスのペットボトルが置いてあるのを見つけて一気に飲み干した。ウイダーインゼリーも置いてあったが、それは食べる気が起きなかった。 「俺、生きてんだな……」率直な感想だった。  ごふ、と文吾は咳をした。  狼男に首筋を噛まれた瞬間を思い出して、ぶるりと震える。じんじんと熱く痛む首筋に手を当てると、狼男の歯形の凹凸がくっきりと残っている感触がした。文吾は、傷口による感染症を心配した。ぐわんぐわんと世界が揺らいでいるような目眩がした。  それからまた、文吾はベッドで横になった。座っていることさえしんどかった。幹也……幹也……幹也……幹也はどこだ、俺が……早く、探しに行かねェと……と考えながら、文吾は気を失うように眠りに落ちた。 (続く)


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