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サトー
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『ヒトグイ』(中)

「何なんだよ、これは……」  俺は胸の真ん中にうっすらと浮かび上がった蜘蛛が手足を伸ばしたような模様に驚き、手の平で擦った。それはまるで蒙古斑のような青っぽい染みで、手の平でいくら擦っても消えることはなかった。俺は兄の胸の真ん中にあった模様とそっくりなそれが現れていることに動揺し、血の気が引き、洗面所の白い壁に背を凭せ掛けてしばらく茫然としていた。 「喜べよ、これでお前は、いじめられる度に俺の姿に近づけるようになるんだぜ?」  あの夜に聞いた兄の言葉が脳裏を過ぎり、ひょっとして、と腋の下に冷や汗を掻いた。  親殺し、家族をバラバラにした元凶、俺が苦境に陥っている元凶……そんな諸悪の根源のような兄の存在に、自分の意思とは関係なく少しずつ近づいていくかもしれない。それは物凄い恐怖だった。少し逞しくなって見えた自分の身体をもまた、兄の姿に近づいていく証拠に思えて気持ちが悪くなり、俺は胸の真ん中に浮かび上がった模様をぎゅっと指で抓んだ。  そういえば、兄は父を殺した日から一か月前くらいから目に見えて身体つきに変化が現れていた。どうして今まで忘れていたのか――。  いじめられる度に俺の姿に近づく、と兄は言っていたが、ということは、狩野たちからいじめられる度に俺は兄に近づいていってしまうということなんだろうか? 死んでも嫌だった。兄みたいになるくらいなら死んだ方がマシだ。  学校に行けばいじめられるだろう。  かと言って学校を休めば祖父母に心配を掛けてしまう。  俺がいじめられないように変わればよいのだ、と思った。もっと自分の意思を主張して、狩野たちに辞めろとはっきり伝えればいいのだ。これ以上いじめを続けるようなら教育委員会に報告を上げるとまで言えばいいのだ。担任の教師がいじめの解決に協力的でなくても、教育委員会まで巻き込めばいいんだ。そうだ、きっとそれで何とかなるはず……。  二階の部屋に戻ってもう一度眠りに就こうとしたが、目が冴えてしまってなかなか寝付けなかった。ようやくうとうとしてきたと思った時には朝の六時前で、あまり眠れないままに俺は学校に行く支度を済ませて朝食を食べた。 「どうしたんだい? 顔が青白いよ」  と祖母に言われ、鏡を見ると血の気の引いた自分の顔に気がついた。  放課後――  俺は自ら狩野のもとに近づいていき、 「話があるから非常階段に来て欲しい」  と伝えた。  ピシッ、と教室の空気が凍るのが分かった。普段はいじめっ子以外のクラスメイトたちは俺に意識を向けないようにしているのだが、今回ばかりはこちらを振り返って何事かと見つめている連中もいた。狩野は気怠そうな顔で立ち上がって、その高い身長で俺を見下ろし、 「は? 何? 俺に命令してんの?」  と冷たい声で言い放った。  俺は緊張のあまり心臓がバクバクと激しく鳴るのを覚えながら、手に汗を握った。狩野の反応を見て、非常階段に誘うのではなく、ここで直談判した方が早いと判断した。喉がからからに渇き、なかなか言葉が出てこない。 「……こ、」と俺は言った。「これ以上、俺に対して、いじめを続けるんだったら、き、教育委員会に、報告を上げるけど、それでもいいか?」 「は?」狩野は虚を突かれたように目を剥き、周囲をぐるりと見回してから大声で笑い出した。  何でこいつは笑っているんだ?  呆気に取られている俺に、狩野はそっと耳元に頭を近づけ、 「別にいいぜ? その代わり、俺はお前の兄が何をやったのか、今ここで全員にぶち撒けるからな?」  と囁いた。  ――え?  予想外の言葉に一瞬理解が追い付かなかった。  俺は狩野の言葉を理解すると視界がぐらりと揺らぎ、ぶるぶると手が震えた。何で狩野がそれを知っているんだ? 情報源はどこから? というか既に誰に伝わっているんだ? 様々な疑問が一挙に訪れ、だが頭をガーンと殴られたような激しいショックに、何も言葉を発することができなかった。 「これを知ってるのは、俺と、もう一人だけだけどな。俺はいいんだぞ? ここでお前の秘密をぶち撒けてやってもな?」 「あ……あ……」  俺は項垂れ、ずるずると教室の床に跪いた。兄のせいで全てを失ったトラウマを思い出し、胸は締め付けられ、頭は酸素が回らなくなってしまったようにぼーっとする。ああ、終わりだ、終わりだ、終わりだ――そんな言葉だけが頭の中をぐるぐると回り、俺は狩野の足元に手を置いて土下座をした。 「す……み、ません、でした……」 「はッ、聞こえねェなァ?」 「すみませんッ、すみませんッ、でした……」 「分かったなら良いんだよ。それじゃあ、今日も校舎裏で待ってるからな」  狩野はさわやかな笑顔を浮かべて言い、俺は教室の床に額を擦りながら「はい……」と答えた。それからのことはよく覚えていない。校舎裏に呼び出され、そこで狩野と浜田と横山から殴る蹴るの暴行を受け、しかし俺にとっては、それ以上に兄のことがバレたという事実がショックだった。いったいどこから情報が? クラスメイトで知っているのは本当に狩野だけなのか? そんなわけがないだろう。これはきっと当然の罰なんだ、という気さえした。ドクンッ! ドクンッ! とさっきよりも心臓が激しく脈打ち、身体は熱を持ち、キシキシと微かに骨の軋むような音が聞こえた。頭痛はするし、眩暈と吐き気はするし、今にも倒れそうな体調だった。  俺は身体のあちこちに痛みを抱えながら息も絶え絶えに帰宅し、祖母に夕食を要らないと断り、二階の部屋に上がった。制服のシャツとスラックスを脱ぎ捨てて布団を被り、ブルブル震えながら目を瞑った。  まぶたの裏の暗闇には、学校であいつの兄は殺人者だと迫害されて祖父母にも迷惑を掛けてしまう最悪な想定が次々と浮かんでは消え、熱っぽい涙が頬を伝った。  泣き疲れていつの間にか眠りに落ちていたらしい。目を醒まし、暗闇の中でうっすらと目を開けたものの、金縛りが起きたように身体を動かすことができなかった。心臓はドクンッ! ドクンッ! と激しく脈を打ち始め、なぜかチンポは勃起してボクサーパンツにテントを張っていた。  心臓が激しく脈打つ度に胸を掻き毟られるような鋭い痛みが走り、同時に全身には新たな力が送り込まれるように不思議とむず痒くなる。その時、俺の脳裏には父の死体を貪っている魔人と化した兄が過ぎった――生臭い血と精液の濃厚なニオイ、父の死体の腹から溢れ出してらてらと輝く腸、兄の逞しい胸筋に飛び散った精液、上下する肩から発散される汗の湯気、そして血を浴びて恍惚とした表情……そういった生々しい細部が目の前に迫るように甦り、俺はかっと全身の毛穴から汗の噴き出すような興奮を覚えた。あの日の出来事を思い出すと不快感を覚えるのに、なぜか今回は脳のぱちぱちと泡立つような性的な快楽が押し寄せ、チンポは痛いほどガチガチに硬く勃起してしまう。 「嫌、だ……こんな、何で、嫌、だ……」兄の姿に欲情してしまう自分自身に激しい嫌悪感を覚えるが、俺の身体はそれとは正反対に性的な快感を進んで受け入れているようで、ドクンッ! ドクンッ! という衝撃とともに全身の筋線維がパチパチと音を立てている感覚がした。 「はッ、ァッ、ふゥ、ゥ――」弟がカーテンで区切られた隣で寝ているのを思い出して声を押し殺しながらも、歯の隙間から喘ぎ声が洩れてしまう。額の両端にばちばちと電流がスパークするような快感が閃いた後、俺のチンポからはボクサーパンツ越しにドクドクと大量の精液が放出された。大嫌いな兄を妄想しながら、触ってもないのにイッてしまった自分が物凄く汚れた存在に思えた。金縛りが解けてからも、自己嫌悪のあまりしばらく動くことができず、俺は自分に何が起こっているのか呆然としていた。  カーテンの隙間から洩れる外の電灯の明かりを浴びながら、俺は精液の大きな染みのついたボクサーパンツを脱いだ。チンポは相変わらず勃起したままで、心なしか前より少し太くなっているような気がし、Tシャツを着ている自分の上半身もまた心なしかガッチリしているように感じられた。Tシャツを脱ぐと、――心なしか、というレベルではなかった、全くないに等しかった胸筋はまだまだ薄っぺらなものの輪郭が現れ、肩幅はやや広くなり、背中にも厚みが増し、貧弱だった腕もやや太くなり、明らかに前より男らしいシルエットに変わっていた。  男らしくなったのは身体つきだけではなく、一度イッたにも関わらず収まりのつかないチンポを握ってしまう。もともと俺は性欲は薄く、一日に一度でもイけば満足する性質だったが、今まで感じたことのない居ても立ってもいられないような強烈な性欲に突き動かされ、「はッ、はッ、はッ、」と犬のような感覚の短い呼吸を繰り返しながら太くなった竿を扱いた。手を動かすごとに額の両端には電流のスパークするような快感がビリビリと走り、心臓はふたたび全身に響くような大きな鼓動を打ち始め、精液に濡れたチンポをくちゃくちゃと音を立てて扱きながら、あっという間に射精に至ってしまう。  止めたい、止めたいと思いながらも、俺は何かに乗っ取られているように自慰を止められなかった。足りない、足りない、まだまだ足りない。そんな感覚に突き動かされながら……。前髪の生え際の額の両端が徐々に熱を帯び始め、脳味噌に圧が掛かったように頭がぼうっとする。四度目の果てると同時に、熱を持った額の両端がぐっと盛り上がるのを感じ、触れると小指の爪ほどの小さな突起が出来ていた。俺は弟が隣で寝ているのも忘れて「はッ?!」と大きな声を上げてしまう。弟は音に反応して「ん――」と声を上げただけで、ふたたびすうすうと寝息を立て始めるのを聞き、はあ、と俺はため息をつく。  いったい何が起こっているんだ? 激しい性欲がようやく冷め、俺は急に冷静になって一階に下りて洗面所の鏡の前に立った。前髪を掻き上げると額の両端に灰色がかった鋭い角のような突起が生えており、俺はごくんと唾を飲み込んだ。洗面所の明かりの下では、さっきよりも筋肉が大きくなってごつごつと男らしくなった自分の身体がはっきりと見え、髭の薄い体質だったのに鼻の下と顎には短いながらも濃い髭がちくちくと揃っている。 「何だよこれ、嘘だろ……」  俺は、魔人と化した兄の逞しい身体つき、そしてその頭に生えていた灰色の山羊の角を思い出し、頭を抱えた。既に自分の身体にもその兆候がはっきりと現れている、このままでは本当に兄のような魔人になってしまうのではないか……? 殺したいほど憎んでいる兄に近づいていってしまうというのは、何という皮肉だろうか。俺は胸の真ん中にうっすらと浮かんだ蜘蛛の模様を引っ掻き、「クソッ」と独りごちてしゃがみ込んだ。日に日に兄に近づいていく自分の身体が、そして簡単に快楽に負けてしまう自分の精神が許せなかった。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。男らしくなるのは好ましいことのはずなのに、今の俺には八つ裂きにしたいくらい憎かった。  この身体の変化がいじめをきっかけに引き起こされているとすれば、俺はもう学校に行ってはいけない――。けれど、学校に行かなくなれば祖父母に心配を掛けることになる。またいつもと同じ堂々巡りにハマッてしまう。そうだ、と俺は思った。学校に行くふりだけをして、どこかで適当に時間を潰して何気なくまた帰ればいいんだ……。  朝、洗面所で電動髭剃りで髭を剃っていると、後からやってきた弟が、 「なあクズ汰、邪魔なんだよ。どけ」と横暴な態度で言った。  俺は普段なら無言で流してその場を去るばかりだったが、なぜか今日はそう言われた途端に頭にかっと血が昇り、洗面所の床を片足でダンッと蹴りつけ、「は? うるせえよ」と振り返って弟を睨みつけていた。反抗されるとは思ってなかっただろう弟は目を見開いて一瞬ビクッとたじろぎ、「な、何だよクズ汰の分際で……」とぶつぶつ言いながら洗面所を去って行った。  俺は自分のやったことが信じられず、髭を剃りながらさっきの出来事を頭の中で反芻した。自分の意思でやった、というよりは、気がつけば行動に出ていた。これまた兄に近づいているということなんだろうか? いつの間にか自分の内面まで影響されているのではないか、という恐怖が足元に這い寄り、「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……」と呟いていた。  家を出て、さてどうするものか? と考えた。補導されてしまっては意味がないから、補導されないような場所――。と、考えて、総合病院の待合が頭に浮かんだ。あそこならいくら座っていても具合が悪くて学校を休んで病院にやってきた患者だと思われるだろう。  三時間目の授業が終わっただろう頃に、玉川からLINEが来た。 『大丈夫? 今日は体調悪い? 何かさ、狩野たちが、「岡本がズル休みした。ズル休みする奴は、秘密をバラさねーといけねーなー」みたいな変なこと言っているみたいなんだけど、心当たりある? 俺は岡本が心配だよ。狩野たちのことは俺が宥めておくから、具合悪い時はちゃんと休んだ方がいいよ。』  読み終わった途端に俺は足先から血の気が引くのを覚えた。  手がぶるぶる震え、玉川のメッセージに返信を打つ余裕がない。  ――学校に行かなきゃ、バラされる。  俺は息苦しさとともに胸の痛みを覚え、椅子に座りながら前屈みになって頭を抱えた。  行きたくない。行かなきゃ。行きたくない。行かなきゃ。そんな相反する二つの言葉が頭の中で渦を巻く。学校に行ったからと言っていじめられるとは限らないじゃないかという思いと、いや絶対にいじめられるに決まっているだろうという思い。いじめられそうになったら何とかして逃げ切ればいいじゃないかという思いと、いや絶対に逃げ切れないに決まっているという思い。  俺は、のろのろとした重い足取りで、学校に向かった。  昼休みの始まる頃に学校に着いたが、俺は精神的な重圧からか教室に向かうことができなかった。  行かなければ、行かなければと思うが、なかなか歩き出せない。人気の少ない校舎裏のトイレの個室に籠もっていると、遠くからがやがやと生徒の声が聞こえてきた。昼休みにこんな場所に来る奴なんか俺以外にいるのか、と思いつつ声のする方に耳を傾ける。えッ、と思わず声を上げそうになった。忘れもしない、それは狩野と浜田と横山の声で、あと一人、別の誰かの声が混ざっていた。  ――玉川の声だった。  もしかして玉川も狩野たちにいじめられているのか?! だとしたらきっと俺のせいに違いない! 玉川が俺のことを庇うようなことをするから、そのせいで次のいじめのターゲットにされてしまったんだ!! 狩野と浜田と横山と玉川の声はだんだんとこちらに近づいて来、トイレの小さな磨りガラスの窓にぼんやりとしたシルエットが横切っていった。 「玉川って、ほんとすげェよな」という狩野の声。 「ははは。何がだよ」という玉川の笑い声。 「いや、だって俺たちだけだったら、あんな陰湿ないじめ思いつかねえもんな」という横山の声。 「陰湿って何だよ。せっかくあいつの面白いネタ握ったんだから、それを利用しないわけないだろー? あ、あいつの兄貴のことはまだ誰にも言うなよ? 俺達だけが知ってる、というところがミソなんだから」と玉川の声。 「これでもうチクられる心配なくあいつをボコれるってわけだな」と狩野の声。 「次はこのネタであいつ強請って、無理やりバイトさせればいいんだよ。それで、あいつからバイト代すべて巻き上げれば、毎月の小遣いには困らないだろ?」と玉川の嬉しそうな声。 「うわーッ、えっぐーッ、玉川って優等生そうな見た目して、ほんとやること怖いよな」と狩野の声。 「まあ、岡本は俺のこと仲間だと信じ切ってるから、そこを利用すれば簡単だしな」と玉川の声。  ――嘘だろ……。  俺は思わず小声で呟いていた。  まさか玉川が狩野たちと繋がっていて、しかも俺に対するいじめの指導者だったなんて。  いや、そんなわけが……。  会話の内容を聞いてもまだ現実を信じ切れなかった。でも、そう言われれば、玉川は俺のことをずっと励ましてくれていたが、「辛い時に何も言わずに一人で耐えるのは凄いよ。その姿勢、かっこいい。応援する」と、しきりに「一人で耐える」ことを誘導されていたような気もする。先生や教育委員会や家族にチクられたら面倒なことになるからと、玉川はいじめっ子たちを面倒から守るために俺を誘導していたのではないか? そう思うと、玉川が俺がいじめられた現場に妙にタイミング良く現れるのも頷ける……。  今まで何となく違和感を覚えていた部分に、パチパチとパズルのピースがハマっていく。 「嘘だ、でも、嫌だ、嘘だ、こんな、だって……」  だが、パズルのピースがハマって完成し、浮かび上がったのは地獄絵図だった。  昼休みが終わる頃、教室に向かおうとすると廊下で玉川と顔を合わせた。 「岡本くん! 体調悪い? 心配したよ。……あれ? 岡本くんって何か少し身体大きくなった?」心配そうな表情を浮かべてこちらに近づいてくる玉川の姿が、今日は酷く胡散臭く醜悪なものに見えた。 「いや、ちょっと、」と俺は玉川を避けて教室に入った。獲物を捕捉したような嗜虐的な笑みを浮かべる狩野たちと目が合い、それだけでまるでいじめられている時の感覚が甦り、心臓がドクドクと脈打ち始める――放課後、狩野から「バラされたくなったら、分かるよな? ××に来い」と耳打ちされ、人気のない運動公園の一隅へと連れ出された。いつから放置されているのか、ボロボロのテニスコートまでやって来ると、狩野と浜田と横山は振り返ってニヤニヤした顔で俺を見下ろした。 「なあ、提案があるんだ」  俺は相変わらずドクドクと脈打ち続ける胸を押さえながら、黙って狩野の顔を見上げた。 「お前の兄貴のことを黙っておいてやる代わりに、来月からバイトして、その給料を俺らに全部渡して欲しいわけ。お前んち貧乏だから持ってくる金があんまりねェんだろ? だったら、バイトして俺らに献上するしかないよなァ。あ、八万でいいから。優しいだろ? 最初は十万は欲しいよなって話してたけど、それじゃあんまりにも可哀想だってことで八万にしてやったんだよ。なあ?」 「……やっぱり、あの話は本当だったんだ、玉川も……」俺はボソッと言った。 「あ? お前にはイエス以外の答えはねえーんだ。分かってんのか?」俺の声は狩野には聞こえなかったらしい。狩野はそう言って俺の胸倉を掴んだ。足の裏が軽く宙に浮き、胸元が締め付けられて息が苦しい。  ――もう、疲れた……。  ――何だか、全てが、どうでもいい……。  そう思った途端に、ドックンッ! ドックンッ! ドックンッ! 俺の心臓はますます激しく脈打ち出した。胸の中心から手足の末端に向かって、ズシッ、ズシッ、ズシッ、と重い衝撃が走り、その度に身体の内側では骨や筋肉がギシギシと悲鳴を上げて蠢くようだった。喉はからからに渇き、制服の下にびっしょりと汗を掻く。兄に近づくことを激しく嫌悪していたが、それさえもどうでもいい気がした。何で俺はこんなに我慢し続けているのだろう? もともとだって俺が悪いわけじゃない。俺は何も悪いことをしていないのに! そうだ、全て狩野や浜田や横山や玉川が悪い! 兄が悪い! 家族が悪い! 俺はいつも我慢ばかりしてきた! 許せねえ、許せねえ、許せねえ、許せねえ―― 「おい! 答えろっつってんだよ! お前のイカレ兄のこと、バラされてもいいのか?! お前は俺に服従するしかねえ立場なんだよ!! なあおい!!」  狩野の声とともにテニスコートのフェンスに突き飛ばされ、ガシャッと音を立てて俺は地面に崩れた。狩野の方が圧倒的に上の立場なら、どうしてそんなに余裕のない言動を見せるのだろうとぼんやり思った。 「お前らの、せいだからな……。どうなっても、知らねえ……」俺はボソッと言った。 「あ?! さっきからテメェは何ぶつぶつ言ってんだよ! 気持ち悪ィ!」狩野はそう言って地面に倒れた俺の腹を蹴り上げた。俺は鳩尾を蹴られた衝撃に頭が真っ白になり、「ガアッ、アアアッ、」と悲鳴を上げながら蹴られた箇所を両手で押さえ、背中を丸めた。カチッ、カチッ、と狩野か誰かがライターを鳴らす音が聞こえ、薄目を開けると目前に煙草の先端が迫っていた。 「ははッ、潰してやろうか? お前の目」  そんな狩野の声が聞こえた瞬間、俺の頭の中で何かが弾けるような音がした。不思議と熱と痛みは感じなかった、気がつくと俺は目前に迫った煙草をぱっと素手で握って奪い、拳がぼろぼろになるまで狩野の顔を何発も殴りつけていた。  ――あれ? 俺、何で、何でこんなことしてんだろ……  ふとそんな言葉が脳裏を過ぎった、まるで自分の意思とは関係なく身体が勝手に動いているようだった。だが同時に、一発殴るごとに自分を雁字搦めにされた理性の箍が外れていく心地がし、それは背筋の震えるような強烈な快感を伴った。ドクンッドクンッ、という激しい鼓動とともにチンポはスラックスの下でギチギチに勃起し、先走りでボクサーパンツの濡れる感触がした。俺は、唇から流れた血で赤く染まった狩野の口に、奪い取った煙草を詰め込み、「おい、どうだ? 旨いか?」と髪の毛を掴んで唾を飛ばしていた。ごほッ、ごほッ、と激しく咳き込んだ狩野の顔を立ち上がって蹴りつけ、俺は――  ア゛ッ ア゛ッ アア゛ッ アアアアアアアアアアアアアアアアアア゛ッ ッッ!!!!!  俺は、自分の口から出たとは思えない獣じみた凄まじい雄叫びを上げながら、ビクビクと腰を震わせながらスラックスの下で盛大にイッた。てっきり浜田と横山は狩野をやられた復讐をしようと襲い掛かってくるだろうと思っていたが、叫び終わった時に運動公園の入り口の方へ逃げていく二人の背中が見えた。  顔のグチャグチャになった狩野を見てはっと我に返り、俺は何てことをしてしまったんだ、このままでは大嫌いな兄になってしまうじゃないかと恐ろしくなったが、それも束の間、電流のようにビリビリと駆ける鋭い頭痛によって打ち消されてしまう。 「イッ、イギッ、ゥァアッ、ィッ、イッ、テェェッ!!!」  今まで味わったことのない割れるような頭痛に俺は歯を食い縛って悲鳴を上げた。キイイィィィィィィィィ――――ンと耳鳴りに襲われ、平衡感覚を失って俺は地面に両手を膝を突いた。大粒の汗が髪の毛の先からぼたぼたと滴って地面を黒く染めるのが見え、ドックンッ!!ドックンッ!!ドックンッ!!と心臓が脈打つ度に胸の中心から手足の末端に向かって重い衝撃が走り抜ける。まるで筋トレをした直後のように全身の筋肉が限界まで張り詰めている感覚がした。腹の内側から内臓ののた打つようなバリバリという音が聞こえ、俺は目に涙を浮かべ身を捩りながら激痛に耐えた。ギシシッ、ギシッ、ミシッ、ミシミシッ、と全身の骨格と筋肉は歪な軋みを上げる。 「嫌だッ、嫌だッ、俺はッ、兄貴みてェにだけはッ、なりたくッ、ねェッ――!!!」  そう叫んだ瞬間、まるで願いを聞き入れてくれたように俺の肉体の変化はぴたりと止まった。  こんな簡単に止まるんだったら、最初から辞めろよな……、と思いながら自分の身体に視線を落とすと、だが、もう、手遅れだった。  まだ兄のような着衣の破れるような怪物的な変化には至っていないが、俺の身体は明らかにひと回りデカくなっており、制服のシャツが筋肉のラインに沿ってパツパツに張り付いて息苦しいほどだった。こうなれば兄と同じ道を辿るのも時間の問題かと思われた。自身の変化に対する嫌悪感とは反対に、スラックスの股間は激しく盛り上がっており、「ああッ、クソッ、」と俺は舌打ちし、ハアハアと息を荒げながら近くの公衆便所の個室に駆け込みベルトを緩め、先走りでぐちゃぐちゃに濡れた濡れたボクサーパンツごと明らかにサイズ感の増したチンポを握り、クチュクチュと卑猥な音を立てながら手を動かした。「嫌だッ、嫌だッ、兄貴みてェになりたくねェッ、のに……ッ」という台詞からは矛盾して、俺のやっていることは自分の興奮を盛り上げて兄に近づこうとする以外の何物でもなかった――欲望のまま精液をぶち撒けると脳味噌を直に刺されるような強烈な快感が走り、その快感が肉体の変化の栄養となるかのようにグッグッと筋肉が反応する。射精する度に目の奥ではちかッちかッと極彩色の光が閃き、なぜかその光が閃くと新たな感覚に自分が染まっていくような、洗脳されていくような軽い眩暈がした。「ハアッ、ハアッ、ハアッ、」俺が狩野に暴力を振った瞬間の映像が繰り返しフラッシュバックし、その快感は、ネットのアダルトコンテンツを見て抜いた時のそれとは全く違う、リアルな生々しい征服欲を伴って俺の五感を刺激した。  ――ああァ、  ――暴力って、キモチイイ……  そんな言葉が脳裏を過ぎった瞬間、俺は自身の嗜好の変化にゾっとした。…… (下巻に続く)   雑記: お待たせしました! 思うところがあり、題名は『ヒトグイ家族』から『ヒトグイ』に変更させていただきました。 「あれも書きたい!」「これも書きたい!」と、あれこれ寄り道しているうちに、予定より随分と長くなってしまいましたね……(毎度のことと言えば、そうですが)。もともと上下巻構成の予定を、上中下巻構成に変更しました。下巻ではいよいよ主人公が呪縛から解放され、本来の魔人へと覚醒し、溜まった鬱憤を爆発させます。 そろそろイラストの方も更新したいですねー。


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