四月に入ったとはいえ、まだ夜は肌寒い。 「はーあ」 テーブルに顎を載せて、俺はストーブの灯油が空になったら買い足そうかどうかで悩んでいた。 半端な時期だ、もし買い足してもすぐに暑くなるかもしれない。 いやいや、逆に買い足さなかったとして、まだしばらく寒さが続くとしたらどうだ? 財布を見て、壁掛けの温度計を見て、部屋の隅で赤々と火をゆらめかせるストーブを見て、俺は腕組みをした。 「うーん…」 その三つをせわしなく見比べる俺の目に、ちらりとテレビの上の置き時計が映る。 時刻は午後8時。 「遅いな…」 いつもならもう帰ってくる頃なのに、どうしたんだろうと俺は思った。 山ニイの奴。 まさか天狗山の裏の温泉で一杯やってるんじゃあないだろうな。 「たく…晩飯先に食っちまうぞ」 財布の口を閉じると、俺はそれをテーブルの上に置いた。 ラップを取ってこなくちゃあいけない。 「…ったく。」 俺は唇を尖らせた。動くたびにセーターの隙間から冷たい空気が入り込んだ。 山ニイが帰ってきたのは、俺が料理にラップをかけてから三十分後。 丁度テレビの歌番組で、興味の無い歌手が歌いだした直後だった。 「おおーい、帰ったぞぉー」 「帰ったぞじゃねえよ、ったく」 玄関に響く大声に、俺は渋い顔で椅子から立ち上がった。 映りの悪いテレビを消して玄関に向かう。 「遅いッ」 「玄、行くぞっ」 「はあ?」 帰ってすぐ行くのか? …行く? 俺は山ニイの言葉が理解できず、呆けたような顔をした。 見ると山ニイは満面の笑みを浮かべている。 猟銃と山菜の詰まった籠を玄関口に置くと、ぐいと俺の手をつかんで引っ張った。 「行くって、どこにだよ」 「へっへえ、ええから来い、来い」 「来いって…」 まったく意味がわからないものの、俺は経験上『こういう時』の山ニイには何を言っても無駄だってことを知っていた。 ちょっと待てよと山ニイに言い残し、一旦部屋に戻る。 ハンガーにかけておいたジャンパーをおろすと、俺はそれを袖を通さずに羽織った。 外に『出る』なら、セーターだけじゃあ心許無い。 「どこに行くんだよ」 「へっへえ」 俺の問いには答えず、山ニイはただ笑うばかりだった。 空にはピンボケ写真のような朧月。 闇の中、俺たちの足元を照らす懐中電灯。その頼りない灯りで、浮かび上がる山ニイの広い背中。 「山ニイ、寒くねえか」 「平気じゃあ」 なだらかな傾斜が続く。その坂を登りながら、俺は夜の匂いに鼻をひくつかせた。 湿った空気の匂い、伸びだした新緑の匂い、ぬかるんだ土の匂い。この山を包み込む夜。 俺たちの足音と、時折思い出したように聴こえる鳥の声。 一人ならきっと恐怖するだろう夜の闇に、俺はなぜだか安堵していた。 それはきっと前を歩く山ニイの背中がすごく広くて、大きくて、逞しいからなんだろう。 「まだかぁ?」 「もうすぐじゃあ」 山ニイが見せたいものとはなんだろうと考えながら、俺はじわりと額に浮かんだ汗を拭った。 暑い。 羽織っていたジャンパーがずり落ちそうになる。 「ああ、くそ」 俺は呟いて、ジャンパーを脱ぐと腰に巻きつけた。 夜気がスウ、と汗をかいた首もとを撫でる。その冷たさが気持ちよかった。 「はぁ」 「おお、そろそろじゃあ。玄、灯りさ消せ」 「そんなことしたら真っ暗になっちまうぞ」 「平気じゃあ、道はわかっとる。へへ、おめえを驚かしてやりてえでな」 「驚く?」 まったくわけがわからなかったが、俺は懐中電灯のスイッチを落とした。 すう。 途端にあたりを侵蝕する闇。 目の前に見えていた山ニイの背中が消え失せて、俺の中に恐怖が生まれる。 「山ニイ」 「おう、こっちじゃあ」 「あ」 伸ばした俺の指が山ニイの指に触れる。しっかりと掴んだその手を、俺は放さないようにして歩いた。 山ニイの後をひたすら俺は追いかける。灯りを消して十分くらいだろうか。 実際は二、三分かもしれないが、何も見えない暗闇の中流れる時間は俺には長く長く感じられた。 手のひらに伝わる山ニイの体温だけが、今の俺には道標だ。 「玄、目ぇさ閉じてろ」 立ち止まった山ニイはそう言うと、俺の両まぶたを手のひらで覆った。山ニイには見えているのか。 汗ばんだ山ニイの手のひら。言われた通りに俺は目を閉じる。 真の暗闇が俺の両目に舞い降りた。 微かな色も、草木の輪郭も、ぼやけた月もすべてが消え失せる。 心臓の鼓動がやけにうるさく感じた。 目を瞑って、一歩、二歩、三歩。くるりと回って。 「…まだ、かぁ…?」 「…おぉ、丁度ええ具合に…月が…」 「…なんだよ…」 山ニイの忍び笑いが聴こえる。 まぶたから手のひらが離れた。 「もうええぞぉ」 その声を合図に、俺はゆっくり目を開けた。 「…あ…!」 漆黒に。 漆黒に降る雪。いや 雪のような、桜の花嵐。 山の中、木々が作る迷路の奥底に広がる草原に、玉座に座るようにして生えていたその桜の古木は、満開の花を惜しげもなくハラハラと降らせていた。 薄雲がかかっていた空はいつの間にか晴れ上がり、シャープな月が円く輝く。 月光に照らされて、花びらは踊っていた。 「…これ、は…」 「綺麗じゃろ」 山ニイの手が俺の肩を抱く。俺たちは並んでその、幻想的な景色に目を奪われた。 「猟の帰りに見つけてなあ、おめえに真っ先に見せたくなったんだぁ」 「山ニイ」 「綺麗じゃろ」 二度目のそのセリフに、俺は頷いた。 山ニイが優しく笑う。 「明日は海彦もホムラも、神主殿も誘って来るか」 「…そう、だな」 山ニイは俺より頭一つ大きい。俺の目線に山ニイの肩がある。 その肩にはらりと乗った桜の花びらを、俺は指でつまみあげた。 「…」 淡い色合いのハート型。それを俺は口に含むと舌の上に貼り付けた。 「玄」 べえ、と舌を伸ばして山ニイにそれを見せる。 鼻で笑って、俺はくちづけた。 「ん…」 俺は背伸びをして、山ニイは少しかがんで、俺たちは唇を合わせる。 舌から舌へと、花びらは転がった。 「ンん…」 瞑っていた目を少しだけ開ける。 花びらは舞い続けている。 重厚な夜に彩りを添えて、歌うように囁くように。 ごくり、と山ニイの咽喉が鳴った。 「…飲んじまったぁ」 「山ニイ」 「…へへぇ」 ぎゅう、と山ニイに抱きしめられ、俺はいま少し寒いんだ、と思い出した。 山ニイの体温が伝わる。 …やっぱり、寒くない。 「…愛しとるぞ」 一日に最低一回は聞いている愛の言葉。 「…毎日言って、飽きねえか」 「おめえはもう聞き飽きちまったか」 「…いいや」 尋ね返され、俺は首を横に振った。 「あと百万回言われたって、聞き飽きねえよ」 夜桜が舞っている。 俺たちはキスをする。 きっと、これからもずっと。 text:旋牙闇霧 ------------------------------------------------------------- こちらも同じくコンプ特典で公開していた短編。