「真っ白だな」と俺は呟いた。俺の隣で海彦が頷いた。 狭いデッキから見えるのはモノクロの世界。 真っ白な海。真っ白な空。遠くに見える灯台の光。霧笛が聴こえる。 凪いだ海に、俺たちを乗せた漁船はぽつんと寂しく浮かんでいた。 「コーヒー、飲むか」 「頼む」 俺はインスタントコーヒーの粉を入れたマグカップふたつに、家を出る時に持ってきた魔法瓶から湯を注ぐ。 もうもうと湯気を立てて、濃い目のコーヒーができあがった。 「ほれ」 魔法瓶と同じ籠に入れていた割り箸で中身をかき混ぜてから、俺はマグカップの片方を海彦に渡した。 去年買った揃いの黄色いマグカップ。カップのふちが少しだけ欠けているのが俺の、欠けてないのが海彦のだ。 「すまん」 海彦はコーヒーを一口すすり、熱そうに舌を出した。 吐く息が白い。 「これを飲んだら、今日は帰るか」 「ん」 船体を洗う波の音だけが、ちゃろ、ちゃろんと耳につく。 顔が痛くなるような寒さだ。 座り込んで肩を並べて、俺たちは海を見た。 寒々しい、淡いグレーの海原。その上を白い霧がたゆたう。 どこか夢の中のようなその景色に、俺はポツリと漏らした。 「港を出た時はこんなに霧、出るとは思わなかった」 「天気予報でも言ってなかったんだがな」 俺たちの着ている紺色のブルゾンが擦れあって、かすかな音を立てた。 「寒いか」 「いんや、平気だ」 俺は少し強がりを言ってコーヒーを一口飲んだ。もうすでに温度が下がり始めている。 去年二人で金を出し合って買ったこの中古の漁船は小さくて、暖房設備もろくにない。 「玄」 「ん?」 「…すまん」 「なにがだよ。…別に天気が悪くなったのは海彦のせいじゃねえよ。…俺のせいでもねえけど」 「神喰の頃は、そうそう天気を読み違えることも無かったんだが…」 「…コーヒー、飲み終わったか?」 「あ?…ああ」 「貸せよ」 俺は海彦からマグカップを受け取ると、自分のカップに少しだけ残っていたコーヒーを一口で飲み干した。生ぬるく、苦い。 二つのカップを船のイケスで洗い、プラスチック製の籠に戻す。 「神喰、なあ」 久しぶりに海彦の口からその単語を聞いた気がする。 俺にとってはひと夏の、海彦にとっては十数年の、人ならざるその記憶。 あれは二年前か。…もう、何十年と昔のことのように思える。 「海彦」 「…なんだ」 「…へへ」 俺は手をタオルで拭ってから、海彦に後ろから抱きついた。 頬に触れる冷たい耳たぶ。 振り向いた海彦に俺はキスをした。 「ン…」 「……ん…」 かさついた唇にやさしく吸いつき、割れ目の奥へと舌を伸ばす。 熱く湿ったくらがりで待つ海彦の舌は俺を受け入れ、絡みつき、俺は海彦と一つに融けたような錯覚に陥る。 この味は、感触は、心地よさは。 海彦が神喰だった頃も今も、一緒だ。 「んは」 唇を離すと、俺は笑みを浮かべた。 「前言撤回。…やっぱ寒い」 「…帰るか」 「おう」 海彦は船のエンジンをかけに舵機室に向かった。 俺は再び目を海にやる。 雪を撒きちらかしたように真っ白な世界。 それはよく見ると 「あ…」 ドドド、ドドドと船が生きているように揺れだした。 海彦が俺のもとに戻ってくる。 「出るぞ。操船室に…」 「…」 「…玄?」 「…境い目が」 「…どうした?」 俺は海の彼方を指さした。 「…あ」 そこにあるはずの水平線は霧に消え、 空と海の境界は無くなっていた。 そこでは海と空が融けあって、混じりあって、ひとつになっていた。 「…」 「…なあ」 俺は海彦の手をそっと握った。 冷たい指先同士が触れ合って、やがて熱をもつ。 海彦の体温が俺に流れる。俺の体温が海彦に流れる。 …俺たちは 「俺の名前、玄って字の意味…知ってるか」 「…いや」 「……『空』って意味が、あるそうだ」 俺はもう一度、海彦にキスをした。 冬の海、どこか遠くで霧笛が鳴っている。 ひとつにとけた、ま白い世界に。 text:旋牙闇霧 ---------------------------------------------------------------------- 海専山専のCGコンプ特典で公開していた短編。 今はもうコンプ特典自体の通知や公開をしていないのでこちらで公開します。