『ボヘミアのスキャンダル』という短編小説の中で、シャーロック・ホームズが相棒のワトソン相手にこんなことを言っています。
「きみは玄関から私のこの部屋へつづく階段をしょっちゅう目にしているね」
そう言われたワトソンは「そうだね、何百回となく」と答えます。でも次に言われたホームズからの質問に彼はまともに返事をすることが出来ずポカンとしてしまう。ホームズは続けてこう聞いてきたのでした。
「ではその階段は何段ある?」
日ごろ駅やオフィスなどで階段を使う人はたくさんいると思うけれど、その階段が何段あるかなんてよっぽどの階段好きでもない限り、まず覚えていませんよね。私も階段には日々お世話になっていますが、えっと、あそこの階段、何段だったっけ?
もちろんここでホームズが言っているのは、「ワトソンくんも私の相棒を名乗るくらいならば一流の階段マニアであってくれなければ困るね、ん?」とかそういうことではありません。難事件を解決へと導くには日ごろからどんな些細な事も見逃すまいとする心構えが必要だと暗にワトソンに言い聞かせている。ポカンとしているワトソンにホームズは畳みかけるように言います━━「そういうことさ! きみは観察をしていない。単に見ているだけなんだ」と。
いつも目にしてなじみ深いと思っている物事であっても、私たちは意外なほどその本当の姿を知らないものです。それはホームズに言わせれば「だって、YOU、観察してないじゃん」ということになるんだと思いますが、私のような絵を描く人種には、これがなかなか耳の痛いお話だったりします。
たとえば私は百合SMというジャンルを扱うので、火のついたロウソクを描くことがたまにあります(aj-1でも描きましたけど)。もちろん私はロウソクというものを知っていますし、それには火がつき、素肌に垂らすと熱く、でもちょっと気持ちいい♡ということを知っています。目にしたことだってそれこそ何十回とある。何の問題もない。私はロウソクを知っている。そこで意気揚々とゴシゴシ描き始めます。
ところが途中からどうも様子がおかしいことに気づきだします。あっれー? ロウソクってこんなのだっけ? こんな形だったっけ? なんかおかしくない? 確かえっと、ここがこうで…。ん、芯ってどんなふうに伸びてる? あれ、このロウソクちょっと太すぎない? 火のついたロウソクってこれで合ってる? ロウはどんなふうに溶けるんだっけ…?
結果、描き上がったものは、ロウソクとは程遠いものになっています。不格好にどろんとした、ドラクエか何かに出てきそうな感じです。私は新種のスライムを描いた覚えはないんだけどなあ…。
私の場合こういうことは絵を描いていると時々起こることで、そのたびに、ああ、よくないなあと反省するはめになります。「知っている」といってもそれはおおまかなデータとして習慣的に知っているだけで、結局私はそれをよく知らないんですね。よく見ていないし、よく観察していない。熟知しているつもりでうろ覚えで描いてしまう。だから魔法(たぶんパルプンテ)でもかけられたみたいに、ロウソクがスライムになっちゃう。
あるいは絵描きというのは世間一般的に、何も見ずに絵を描いていると思われているかもしれませんが、そんなことはないです。もちろん何も見ずに描く・描ける物もあるはずで、私の場合、魅力的に表現できているか否かを別にすれば、人物や人体などは比較的すんなりと描くことが出来ます。でもたとえば車・建物・植物とかになると、何も見ずに描くのはちょっと気が引ける。車を描いてみた結果、車輪のついたクジラみたいな謎の物体が出来上がるという非常事態は避けたいからです。
描こうとするものがうまく描けるかどうか分からない時、私は出来るだけ参考になる資料を前もって準備するようにしています。それでも時にはなまけ心で資料もなしに描いてしまい、新種のスライムとか車輪付きのクジラなんかを生み出してしまうことがある。とたん、どこからともなく聞こえてくるのがホームズのあの言葉です━━「そういうことさ! きみは観察をしていない。単に見ているだけなんだ」
そして私は、「知っている」と「描く」との間には「観察」という行為が無ければならないことを改めて学ぶのでした。おしまい。
ちなみにですけど、ワトソンがホームズに聞かれて答えられなかった階段の数ですが、ホームズいわく17段だそうです。けっこうありますね( ◜ᴗ◝)
ノン・ラズニッシュ
2020-08-30 15:29:41 +0000 UTCノン・ラズニッシュ
2020-08-30 15:27:45 +0000 UTCゆ〜
2020-08-30 14:35:18 +0000 UTCぶっちー
2020-08-30 13:53:25 +0000 UTCノン・ラズニッシュ
2020-08-30 12:49:33 +0000 UTCak
2020-08-30 12:21:05 +0000 UTC