■あいつと文化祭 × 一路青年の洗心
喧騒が遠い。それは遥か遠い雷鳴のような、ともすれば忘れてしまう耳鳴りのような。文化祭というのは本当に騒々しい。昔から騒がしいのは苦手だった。そういった現を抜かすものに陥ることを俺は、必要以上に忌避し、何より懸念していた。
「…………」
だがそれが今は、随分と心強く感じる。俺のいる剣道場の周りは、人気もない上に水を打ったように静かで、己の動悸の激しさを思い知るには十分な静寂だった。静かな場所の方が好きだとばかり思ってきたが、その実そうでもなかったようだ。
待ち人は未だ現れない。時刻は正午前。己が指定した時間までは、残り数分もなかった。剣道着に身を包んだ俺は、道場の中央に坐したまま、目を閉じただじっと瞑想を続ける。
来てくれるかどうかは正直、半々ぐらいの心持ちではあった。文化祭の日の正午、剣道場で。送った文面を瞼の裏に思い浮かべながら、あれでよかったのかどうかを自問し続ける。不躾だっただろうか。伝わる文面だったろうか。そもそも送るべきだったのだろうか。
……誰かに自発的にメッセージを送ったのは、己の人生史上初めてのことだった。まして、誰かを呼び出すなどと。このようなこと、今まで間の抜けたこととばかり思っていたが、いざやってみればこれほどまでに神妙なものだったとは。
「…………」
正午を告げる鐘が鳴る。大学の本棟の鐘の音が、ここまで響いてきていた。それが鳴り止むと同時に、誰かの気配がする。目の前に何者かが佇む。俺が目を開くよりも早く、何かが空気を切る音がする。だから俺は、傍らの竹刀を持ち――。
――パシン、と快音が鳴った。竹同士がぶつかる音。何度も何度も、幾度となく聞いた、鼓膜にこびりついた音。目を開いた俺の視界に映るのは、己が呼び出した張本人……気さくで洒落た後輩狼、青嗣玲太。
「流石ッスね、部長」
「…………」
「……すんません、怒らないでください。部長を見ると試したくなっちゃうんス」
どういう意味だ、と思ったが、それを慮るだけの心の余裕は己にはなかった。俺と同じく剣道着に身を包んだ青嗣は、構えていた竹刀を下ろし向かい側に坐す。その湛えた不敵な笑みが何を考えてのものなのか、俺には全然判断がつかない。
「それで、部長。聞かせてもらえますか、俺を呼び出した理由」
「……あ」
「あ?」
「いや……あ、その……だな……」
視線を合わせられない。青嗣からの真っ直ぐな視線は、痛いほど己に降り注いでいるというのに。決心したはずだった。勇気もあったはずだった。何を話すかも、夜通し考えてきたはずだった。だのに本人を眼前に捉えると、脳とはこうも役立たずになるのか。
「部長……俺、無理言って店番抜けてきたんスよ。剣道部の奴ら、お茶もまともに淹れられなくて、その、だから……」
「……それはその、すまない」
「あ、いや、違うんス、別に謝ってもらいたいんじゃなくて……えっと」
青嗣は気まずそうに目を泳がせた。これほど聡明な奴の顔を困惑に歪めてしまうことが、己には堪らなく酷いことのように思えた。ああ、そうだ、そうだろう。俺はここに、謝罪のために来たのではない。目的を違えては、本懐は遂げられぬ。
「青嗣」
「はい」
「……俺と打ち合え」
「はい……えっ」
青嗣は流石に驚いているようだった。だが、俺の提案に驚愕したというよりは、まるで「本当にいいのか」とでも言いたげな、歓喜に満ちた表情。それを見てむしろ、己のほうが呆気に取られてしまった。一瞬、本来言いたかったことを忘却してしまうぐらいに。
「いいんスか、部長と試合しても」
「ああ、構わない」
「でも、試合の理由は」
「聞きたいか」
「もちろん」
「……俺が部長職を退かなかった理由は知ってるか」
「いえ。四年でまだ部長って、珍しいなとは思ってたんスけど」
「……自分より弱い輩に、部長の座を明け渡す気はなかったからだ」
「…………」
青嗣の口角が、これ以上ないほどに持ち上がる。まるでどこかで見たような、憎たらしいニヤケ面。それでいてどこかで見たような、精悍極まりない顔。足して二で割ったようなという言葉は、こういうときにあるのやもしれぬなどと俺は思っていた。
「お眼鏡に叶ったってことッスか」
「それはこれから決める……防具をつけてこい」
満面の笑みで更衣室へ向かう青嗣。己も近場に置いていた防具を、慣れた手つきで装着する。緊張はしていない。だが違う理由で、鼓動は未だ鎮まらない。深呼吸し、瞑想。頭に巻いた手拭いが、いつもより汗を吸って重くなっている気がする。
「…………」
かつてあいつと打ち合っていたときと、同じ胸中だ。あのときと完全に同じ状況というわけではないが、妙な因果を感じる。いや、正確に言うなれば、自らこの状況を作っているのか。なぜかは分からない。しかし、そうせねばならない気がした。
俺が面を着け終えた頃、防具に身を包んだ青嗣が俺の元へとやってきた。面の影響でその表情は窺い知れないが、明らかに奮起しているようだった。熱を感じる。視線を感じる。気迫を感じる。奴の息遣いが、底冷えの空気を縫ってここまで伝わってくる。
「準備はいいか」
「当然ですよ」
「……そうか」
俺も立ち上がり、対峙する。こうして見ると、出で立ちも気配も、当時のあいつにそっくりだった。審判はいない。部員もいない。見物人もいない。単なる模擬的な、試合。だが恐らくこの一戦は、俺にとってどんな公式戦よりも意味があった。
「…………」
「…………」
数秒ほど、沈黙が流れた。そのままどちらともなく一歩前に出、一礼。その後床に記された配置につき、竹刀を構え蹲踞する。その一連の所作も青嗣はあいつによく似ていた。だが、己の心に動揺などなかった。あるのはただ平穏な凪と、燻ぶった熱情のみ――。
――俺たちは同時に立ち上がった。互いに剣の先端を見据え、その先に相手を見据える。俺は吼えた。応じるように、奴も吼えた。静かで研ぎ澄まされた剣道場に、二人分の雄叫びが響き渡る。文化祭の喧噪も、もはや俺の耳には届かない。
先に仕掛けたのは青嗣のほうだった。機敏な体捌きで、俺の懐近くまで踏み込んできたかと思えば、面目掛け素早く竹刀を振り下ろしてくる。正直なところ、これほど愚直に飛び込んでくるとは予想外ではあった。が、俺も一介の剣士。すぐさま敵の竹刀を弾く。
「…………」
「…………」
またも訪れる、冷ややかな静寂。俺も仕掛けるか、と奴の竹刀の先を何度も強めに弾いてみるが、流石に動じる様子はない。並の相手ならばこれで多少なりともペースが崩れるのだが、やはりそういう小手先の技術が通じる輩ではないようだ。
様子を見ながら、少しずつにじり寄る。体格差も経験値の差もある。だから間合いに入り踏み込めば、力で押し切れる自信はあった。だが青嗣もそれを理解しているのか、なかなかこちらのペースに乗ろうとはしない。常に一定の間隔を空け、俺の全身を観察してくる。
「――ッ」
青嗣が雄叫びを上げた。応じる気はなかった。奴のほうが小回りが利くから、下手に踏み入ってはそれを利用される。額を汗が伝う。息が浅く感じる。師範である父と打ち合ったときですら、これほどの集中はなかった。
やがて青嗣のほうが痺れを切らしたらしい。再び踏み込んできたかと思えば、竹刀を器用に振るい籠手を狙ってきた。そちらは弾いた……が、奴はもう一段踏み込んできた。その勢いのまま面を狙われるが、寸でのところで躱した。俺たちは鍔迫り合いの状態になる。
別に力の限り押し切ってしまえばよかったのだが、それ以上に嫌な予感が汗となって己の背筋を零れ落ちていった。そうしてしまえば、恐らくその瞬間青嗣は俺から離れ、俺のバランスを崩させるだろう、と。
だから十数秒ほど、睨み合った。息遣い。汗の臭い。冷えた空気。競り合う竹刀。張り詰めた緊張の糸。足が床を擦る音。互いの総てが、詳らかに伝わりかねない距離。試合中でもなければ、これほど近くで顔を見ることもないだろうに。
「…………」
「…………」
互いに無言のまま、その双眸に互いを捉える。面で仕切られたその向こう、興奮で笑んだ狼の真っ直ぐな瞳に鷹が映り込んでいる。それを覗き込んだとき、初めて俺は、己も笑みを湛えていることに気が付いた。あれほど強面で、不愛想で、陰湿だった自分が……笑みを。
気が付いても、笑みは止まなかった。否、止められなかった。この試合に満ちた高揚感が、多幸感が、満足感が、どうしても俺の不敵なニヤケ面を司っていた。
だって、この頬を緩めることができるか? これほどにヒリつく経験があったか? おまけに打ち合っている相手は、俺を好きだと言っているってのに。
「――ッ」
俺は吼えた。そして、改めて玲太の顔を見定める。己の眼もきっと、己と同じような顔をした狼を湛えているはずだ。だからこそ、奴にも見せたかった。自分がどれだけいい面相をしているのかってことを。
俺は玲太を押し返した。用意していたように玲太は身体を引いたが、読み通りの動きをしてくれたおかげで次の攻撃へと繋げることができた。玲太の引く速度を超える勢いで、足を前に思い切り踏み込む。竹刀を腕の一部のようにして、その指先が相手の脳天を捉えるように――振り下ろす。
……俺は下ろした竹刀の先に、かつてのあいつの脳天を捉えていた。その影を切り裂けば、面を叩いたときのあの快音が鳴り響くはずだった。
だが、切り裂いたその先。玲太の脳天はそこにはなかった。渾身の力で振った竹刀は空を切り、代わりに小気味よい音が脳裏を揺らした。見開いた眼に映るのは……狼のしたり顔。それを見た刹那、唐突に腑に落ちる。
ああ、己はずっと、あいつにこうされたかったのだと。
馬鹿げた脳裏を揺さぶって。心地のよい音を響き渡らせて。快活で爽やかなしたり顔を浮かべて。俺の愚かな恋情を吹き飛ばすほど見事な一本を、取ってほしかったのだと。
「…………」
「……フ」
思わず笑みが零れた。恐らく俺が踏み込んでくるところまで、織り込み済みだったのだろう。負ける気など微塵もなかったが、あれほど綺麗に脳天を揺さぶられては、剣士としては潔く引き下がるほかない。
竹刀を構え、蹲踞。帯刀し、立ち上がる。互いに後ずさりしながら、所定の位置で一礼。その後防具を外す段階になったところで、面を外しながら玲太がこちらへ寄ってくる。
「部長」
「……もう部長ではない」
「……じゃあ、羽柴先輩」
「見事な面打ちだった。お前になら……この部を託せる」
「任してくださいよ、へへ」
「…………」
「どしたんスか。まさかさっきの面、強烈すぎたんじゃ」
「いや、別にそうでは……」
俺は呆れたように笑ってしまった。そういえば笑い方は似てないのだな、と思わず言ってしまうところだった。あいつはあいつで……玲太は玲太なのだ。もう初恋という亡霊に囚われる必要はない。その影は先ほど、手ずから切り裂いてやったのだから。
「……強かったな、少し前まで未経験だったとは思えないほどに」
「あ、実は小学校のときに数年だけ道場通ってたんスよね。なんか家の近くにあって」
「は」
「そこにいた狼の先輩が親戚らしくて、色々教わったんスよ。体操のほうが忙しくなったんで、中学上がったのと同時に行かなくなったんスけど」
この話を聞いていた間の己は、随分と間抜けな表情をしていたと思う。真相は不明だが、その狼の先輩があいつだとするならば、全てに合点がいった。玲太は話を続ける。
「てか先輩、俺が負けてたらどうする気だったんスか」
「……勝敗は次いでだ。どちらにせよ、部長にするなら玲太しかいないと思っていた」
「なんスかそれー……って、今先輩、俺の名前」
「む……す、すまない、無意識だったようだ」
「謝る必要ないッスよ。ほら、好きな人に認知もらえたら嬉しいッスから」
「……そうか。そうだな」
言いながら、手拭いを外す。隣の玲太も、晴れ晴れとした表情で手拭いを取った。微かに身を震わせ、跳ねた毛並みを手で粗雑に整えるその様子が、無骨な剣道場にあまりに嵌まっていた。しばし見惚れているうちに、自然と言葉が出てくる。
「……俺も好きだ、玲太」
「そッスねー、俺も先輩のこと……えっ」
時が、止まった。文化祭の喧騒が耳に遠い。耳鳴りのような、雷鳴のような動悸が、時間差で見計らったかのごとく押し寄せてくる。豆鉄砲でも食らったかのような顔をしていた玲太が、やがてその頬を露骨に綻ばせたせいで、俺は一気に気恥ずかしくなってくる。
「あの、先輩、今のもっかい」
「に、に、二度も言えるか、こんな台詞……ッ」
俺が顔を背けると、玲太は嬉しそうに声を上げて笑った。それを見て己も、笑った。本当に久方ぶりに、心の底から笑えたような気がしていた。
しゃけ
2024-11-27 15:08:25 +0000 UTCgary
2024-11-27 14:52:25 +0000 UTC