■一路青年の葛藤
「それで、どうするつもりなんだ」
夏季休暇が明けて早々、部活の顧問に呼ばれた俺は、そう言われ答えに窮した。剣道場の手前にある、古いソファの並んだ小規模のスペース。自動販売機の明かりが薄らと足元にちらついており、余計に俺は嘴を閉ざしてしまう。
「羽柴、お前も卒業が近いだろ。いい加減このままってわけにはいかない」
顧問の鷲は、紙コップ入りの緑茶を器用に飲みながら、ぎょろりとした眼をこちらに向けて言った。
「次の剣道部の部長、誰にするつもりだ」
改めて問われ、俺は思わず視線を逸らした。言われずとも分かっていた。己は既に大学四年の身。本来であれば、去年には外れていたはずの『剣道部部長』という肩書は、相変わらず俺の両肩に物憂げな顔で乗っかっている。
「あいつらは弛んでいたし、お前も望まなかったから、今の今まで看過してきたが」
正直、相応しい者がいればすんなり譲るつもりではあったのだ。だが剣道部の連中は、気概も無ければ勤勉さも無かった。朝練には参加せず、普段の練習も平気で遅刻。その上大会にもあまり出場しない、備品整理も片付けもやらないとなれば、“長”を冠する職など与えられるはずもない。もっとも、彼らは部長などやりたがらなかっただろうが。
「だがお前も分かってるはずだ。今のあいつらは、去年までのあいつらとは違う」
これでは無理だ、と部長継続を渋る顧問に直談判をし、今日この日までこの肩書を背負い続けてきた。その間、彼らの性根をどうにか正せたら、と思わない日はなかった。だが俺には困難だった。人望もなく、威厳にも愛嬌にも欠ける己では。
「これもあいつのお陰だろ、あの期待の新入り……」
顧問は一瞬目尻に皺を寄せて笑んだ。その後に出てくる名前など、重々知れている。
「青嗣玲太、だったか。突然入部などと言い出したときは、流石に訝しんだが」
「…………」
「あいつが来てから、部内の空気も随分と良くなった。剣道の実力も申し分ない」
「…………」
「贔屓目に見なくたって、次期部長に相応しいのが誰かは分かり切っている」
「…………」
「そうだろ、羽柴」
顧問の眼が、未熟な鷹を真っ直ぐに捉えた。やはり、と目を伏せそうになるが、頬を強張らせることでそれは免れる。
敢えて言われずとも、とうに理解していた。誰の目から見ようとあの狼は完璧だ。部長職どころか、あまりにも人として申し分ない。ただでさえ士気の低かったところに、己の不埒な噂で気概が地の底に落ちた剣道部を、ものの数ヶ月で見事に立て直したのだから。
そうだ、何も迷うことなどない。去年あれほど待望していた、真面目で実力もある部員が、天啓かのごとく降って湧いてきてくれたのだ。何も悩むことなどない、何も憂うことなどない、何も疎むことなど……ない。
「……まぁ、急に現れたような奴に、部長職をひょいと渡すのは気が引けるだろうが。お前もそろそろ気負わなくてもいいんじゃないか」
「…………」
「いくらお父上がこの剣道部出身だからと言って、固執するようなことじゃない。最終的に誰に継がせるかは任せるが、早いうちに話を付けておけよ」
こちらの返答を待たぬまま、顧問は軽く俺の肩を叩きその場を去っていった。途端に静寂が訪れる。薄暗い照明と、上の小窓から差し込む猛烈な夏の光。そこにちらつく塵芥の影を呆けて眺めながら、俺は傍にあるくたびれたソファに腰を落とす。
「…………」
顧問はああ言ったが、この感情は固執から来るものでは断じてない。ああ、そうだ、そうなのだ。思い悩む素振りに勤しみながらその実、己はとっくにこの胸の蟠りの正体に気付いている。
――羨望、とは。本当に妙な感情だ。俺はやはり、誰も彼もが羨ましいのだ。あのいけ好かない狼も、あまりに人が出来ている狼も。先日旅行へ連れ立った面々も、呑気に大学生活を送る同窓も。俺を腫れ物扱いしていた、部員らですらも。
それに気付いたと同時に、俺は全てが分からなくなってもいた。己が躓いていた石ころの、なんと些細なことか。誰もが平気で飛び越えていく、ともすれば蹴飛ばしていく程度の艱難に、頻りに苦しめられた己の、なんと浅はかなことか。
俺が思うほど、人は悩みはしないのだ。そして俺が思う以上に、人は器用に生きていけるのだ。現にこの学舎にも、健やかで楽しげな声色が溢れている。この目に映る何もかもが、まともで小奇麗に思える。翻って、己は、一体。
あれほど葛藤した日々はなんだったのか。あれほど苦悩した日々は。あの憂慮は。あの悲哀は。屈辱は、堅忍は、鬱憤は、憤怒は。振り返っても、もはや己がどんな石ころに躓いていたのかすら分からない。
遠くから楽器の音が響いてくる。吹奏楽か、軽音楽か。恐らくそういった部活の者どもが、文化祭を前に鍛錬に勤しんでいるのだろう。俺には関係のない行事ではあるが。
「…………」
青嗣は本当に、俺のどこを好きになったのだろうか。旅行中に俺へと向けられたあの真摯な言葉が、己の空白に上手く嵌まらない。完成しない組絵にどれほどの価値がある。そもこれほど綺麗な欠片を受け取る資格が、羽柴一路という男にあるのか。
――ガタン、と、壁に立てかけておいた竹刀が床に転げた。まるで己の自信のようだ、と思った俺は、それを直すこともせずただ静かにその様を見据えてしまった。
しゃけ
2024-09-01 11:45:31 +0000 UTC