■あいつとグランピング 暗晦
数時間前の熱気が嘘のように、草原には静けさが漂っていた。どこかぼうっとした空気が辺りを支配する中、俺は約束通りテントを出る。すぐ外で待っていたらしき豹は、俺が出てきたのを見るなり満足そうに笑んだ。
「寝てるよな、皆」
「ああ、こっちは二人ともよく寝てる。そっちは」
「訊くまでもねーだろ。ここまで聞こえんぜ、遊星のいびき」
泰利は呆れたように耳を動かす。念のため、と二人揃って残りひとつのテントのほうへ視線を向けたが、どうやら中は暗いようだった。あれなら例え誰かが起きていたとしても、俺たちがこうして抜け出していることなど知る由もないだろう。
「行くか。あまり遅くなるのも良くない」
そう告げておもむろに歩き出すと、豹は早足で隣に追い付いてきた。どこか興奮を隠しきれない子供のようににやにやと口角を上げた横顔が、視界の端でちらちらと揺れる。
「なんかわくわくするよな、こういうの。皆に黙って抜け出す、みたいなさ」
「そうなのか」
「いやほら、修学旅行で夜更かしーとか、先生にバレないように外にーとか。ちょっと憧れだったんだよな、俺」
「ふ……悪い子ムーブをやってみたかったってことか」
「そんな感じ。青春時代を取り戻す、的な」
「……いいな、そのフレーズ」
「だろ」
軽快な声色と、軽妙な歩調。心底楽しんでいるのだろうということがどの角度からも伝わってきて、俺のほうも自然と頬が綻んでしまう。
周囲には、優しい闇が降り注いでいた。ぼやけた灯りと、瞬く星の光。それだけが俺たちの道行きを照らしていた。やがてキャンプファイヤー場のすぐ側を通りがかったとき、泰利がまた感心したように声を上げる。
「すごかったよな、キャンプファイヤー。スタッフの人が想像より燃やしていくからさ、流石にちょっとビビったもん」
「泰利、見たことないって言っていたからな。申し込みしておいて良かった」
「いやマジ、めっちゃ嬉しかった。一生見れないんじゃねーかって思ってたし」
「これも刻めそうか、思い出に」
「当然っしょ。俺の人生のハイライト、ここ数日だけで充実しまくってる」
「そうか、俺も同じだ。俺の走馬灯には多分、キャンプファイヤーで変な踊りを披露していた豹の姿が映る」
「は、やめろよお前ー。どうせならもっとマシなとこ切り取っとけよな」
ひひ、と笑いが漏れる。へへ、と笑いが返ってくる。風も凪いでしまっているせいか、草木の囁く音すら聞こえない。そういう暗晦の底で、俺たちの声だけが響いている。なんだか世界に二人きりにでもなった気分で、それは存外心地がよかった。
二人分の歩は進む。小説にも描写されないほどの他愛のない話をしながら、やがて俺たちは小高い丘へと辿り着いた。青々と茂る木立も、背の高い夏草も、ここにはない。開けた視界に映るのは、星の散る空と、我が物顔で真上に鎮座する――月。
「お……」
天を仰ぐなり泰利は、口をぽかりと開けたままその場に立ち尽くした。それを見た俺も、思わずふっと笑みを浮かべて、同じように宙を見る。
綺麗だとか、美麗だとか、そういう月並みな表現を口にすることすら憚られるほど見事な満月。塗り潰された黒地にぽっかりと空いた白き大穴。言葉こそなかったが、恐らく俺たちは同じ感想を共有していた。そのうち豹の視線がこちらへ戻ってきたので、俺は口火を切る。
「ネットで調べたんだ。晴れていたらここが絶景のスポットになるって」
「すげーな悟、いつの間に……」
「俺は全知全能じゃないが、これぐらいのことはしてやれる」
「悟……」
「それに、お前の喜ぶ顔が俺は好きだからな」
「…………」
得意げに言えば、泰利は面映ゆそうに頬を緩ませて、それを誤魔化すようにまた月へと視線を移した。その表情が愛おしく、しばらく月明かりに照った横顔を眺めていると、不意にその口元が動く。
「……ありがとな、悟」
「…………」
「ずっと、嫌な人生だった。暗いし、笑えねーし、楽しくねーし」
「…………」
「でも大学来て、お前と出会って、あいつらとも仲良くなって。いやその、まさか付き合うことになるとまでは思わなかったけどさ」
「…………」
「とにかくホント、出会わなかったらどうなってたんだって、最近よく思うから」
「……そうか」
豹が眩しい顔でそう言うので、そう返すので精一杯だった。そんなこと、俺のほうも同じだ。大学最初のオリエンテーションで、偶然席が隣になった。あのときもしも、泰利が俺に話し掛けなかったなら。あのときもしも、俺がそれに返事をしなかったなら。
俺の中で諦めかけていた感情に確かに火がついたあの瞬間を、今だって鮮明に思い出せる。そしてあの日、これ見よがしに嘆いていた豹に「好きだ」と詰め寄ったことは、今だって後悔していない。流石にこれほど奇跡的な展開は、予想だにしていなかったが。
「……俺のほうこそ感謝してる、泰利」
「えっ」
「お前に出会っていなかったら、俺は今頃野垂れ死んでいた」
「そりゃその、流石に言い過ぎだろ」
「大袈裟じゃない。両親から脱却できたのも、今ここに立っているのも、全部お前のお陰だ」
「…………」
「俺には何もなかった。恋愛も諦めようとしていた。自分を本の世界に閉じ込めて、喜怒哀楽もろくに感じないまま老いていこうとしていた」
「…………」
「俺の青春は間違いなく、お前が取り戻してくれている。そう思っている」
「…………」
泰利は返事をする代わりに、どこか照れ臭そうに長い尻尾をうねらせた。よく手入れされたその毛先に、ぽつと水が跳ねた。導かれるように空を見れば、すぐにいくつもの水滴が付近に降り注いできた。
「小雨か」
「嘘だろ、こんな晴れてんのに」
「近くに休憩用の小屋があった。ひとまず雨宿りだ」
俺の先導で、泰利と共にぼろの小屋に避難する。建てられて相当な年数が経っているのか、屋根も柱も相応に腐食していたが、小雨を凌ぐぐらいは問題なさそうだった。扉を開け中に入れば、物置らしく古い器具が雑多に置かれていたので、それをいくつか退けて二人分の空間を確保する。
「すぐ止むかな、これ」
「天気雨ならすぐだろうな。一時間以内には止むだろう」
憶測で話したが、それを聞いた泰利は露骨に安堵した様子で溜め息をついた。災難だったな、でもいい眺めだったわ、あいつらには秘密にしとこうぜ――などと始めのうちこそ明かるげに話をしていた泰利だったが、徐々にその表情が曇ってくる。
「どうした、具合でも悪いのか」
「いや……大丈夫」
「そうは見えない」
「…………」
ほとんど断言するように告げると、豹は一層気まずそうな顔になって目を伏せた。埃っぽく薄暗い小屋内。音もなく降る雨のせいか、まるで世界でここだけ切り取られてしまったかのような静寂だった。ただ黙して泰利を見据えていると、やがてその口が小さく震える。
「実はその……さ、俺、まだ暗闇が……怖いんだわ」
「…………」
「上手く吹っ切った……って、思ってたんだけどな。やっぱ染みついたもんって、なかなか消えねーんだなって」
「……親、とのことか」
「まぁ、な。もう心配ないって分かってんのに、頭の片隅にいつもいるんだよな。独りぼっちで、暗くて寒い部屋の中で震える俺が」
「…………」
「変だよな、マジ。今は悟だっているのに。自分でも意味不明っつーか。このまま闇ん中に溶けて、自分がいつか消えちまうんじゃねーかって」
泰利はそう言って笑ったが、その渇いた笑いがむしろ俺には猛毒に思えた。だからこそ俺は、小さく揺らぐ豹の瞳を見据えて、言う。
「……いいな、それ」
「えっ……」
「このまま闇に消えてやろう、二人で」
「悟……」
「お前が消えるって言うんなら、俺も一緒に消えてやる」
「…………」
「例え暗がりの底だって一緒だ、ずっと」
本心だった。普段から思っていることをきちんと言葉にして伝えるようにはしていたが、今ほど素直に言葉が紡げたのは初めてだった。泰利は少しの間黙り込んでいるようだったが、そのうち俺の肩にもたれかかり小刻みに震え始めた。俺も黙って、その背中に腕を回す。
「…………」
「…………」
豹の泣き声が、静寂に小さく木霊していた。埃の臭いと、雨の匂い。世界に蔓延した土気色の闇は、思うよりも着実に俺たちの傍らまでにじり寄ってくる。だがそれでも、一向に構わないと思えた。瞬きの刹那、深く重い暗晦に投げ出されようと、全然。
「…………」
「…………」
静かだった。小雨が葉っぱに跳ねる音が、耳元まで転げてくるほどの静けさだった。どのくらいの時間が経ったのか。回した腕に熱が籠ってきた頃、落ち着いたのか泰利が顔を上げて、か細い声で言う。
「……ちょい顔見して、悟」
「あ、ああ」
少し怪訝に思ったが、言われた通りそちらに顔を向けた。瞬間、豹の潤んだ瞳と目が合う。
「大丈夫か、泰――」
――一瞬、何をされたのか分からなかった。目が合ったと思ったら、豹の顔が不意に近づいてきて、そして。呼吸の放つ温度と、早くなる脈拍。訪れた柔らかな感触に昂りを覚えながら、これは是が非でも秘密にしないとな、などと考えていた。