■あいつとグランピング 火炎
ずっと思案していた。幸せとは何かと。
ずっと思考していた。己とは何かと。
眼前の火炎は、龍のごとき煙を立ち昇らせ、煌々と燃え上がっている。キャンプファイヤーと言うらしい。酔狂の文化に疎い上に横文字は苦手だったが、田折が眼を輝かせながら語っていたのを何度も聞いたから、流石に名称を覚えてしまった。
他の奴らは、スタッフが点けた焚火の周りに集って、あれやこれやと盛り上がっていた。その楽しげな空気の中の、僅かな片隅にでも己がいるというのはそれなりに奇妙な心地だったが、すごく穏やかな気分ではあった。
だからこそ、思惟していた。燃える火を遠巻きに眺めながら、椅子に加工された丸太に腰掛け呼吸をする。暗闇に舞う火の粉。地上に揺らぐ影。響き渡る談笑。我々の他にも火を囲んでいる集団があるらしく、あちこちから喧噪が聞こえてきていた。
「…………」
生まれてこの方、これほど己の人生を疑ったのは初めてだった。剣道一家の倅として生を受け、清廉潔白たる精神を鍛え、師範として道場を継ぐ。傍らには見合いか何かで結婚した女性――あの親の気に入るような――がいて、そのうち子を成して、また次の世代へ。
そういうレールの上を判然と歩くだけなのだろう、と。正直な気持ちを言えば、別にそれでも構わんと思っていた。自身の生き方に、実のところ、然程興味がなかったのかもしれない。脳裏を空にして、竹刀さえ振るっていれば、それでいいのではないか、と。
だが実際には、そう簡素な話でもなかった。俺の心には、思いもよらなかった感情が芽生えてしまった。それは臆している間に肥大し、やがて手の付けられない怪獣と為って、今だって己を苦しめ続けている。
「…………」
恋とは、なんだ。愛とは、なんだ。化膿した傷口にぬるりと滑り込んできた、あの憎たらしい狼へ向いていた感情も、今となってはなんだったのかも分からない。己の総てが暗がりに落ちて、何一つだって見えはしない。
そして、汚泥の渦でみっともなく藻掻いていた俺に、あろうことか好意を向けてくる後輩。お前の眼には一体、どんな俺が映っているというのか。自分の眼ではもはや、何も捉えられやしないというのに。
火の気が散る。爆ぜる音が鳴る。風が吹く。昂って踊る犬と豹。呆れる猫と兎。冷やかす馬と猿。見守る熊。朱く照った彼らの表情は、遠巻きに見ていても鮮やかで、俺は惨めにも羨望の念を抱いてしまう。俺は心から笑ったことが、はたして一度でもあっただろうか。
「…………」
恐らくは、そろそろ気を遣った誰かが俺のことを呼びに来るのだろう。無粋極まる辛気臭い鷹がどれほど宴の腰を折っているのか、流石の己でも自覚していた。適当に理由をつけてテントに戻ろうか、という矢先、ふと足元に影が伸びてくる。
「……部長」
「む……」
呼ばれた方向を見やれば、そこには青嗣が立っていた。普段の温和な雰囲気ではなく、冷徹に尖った剣客の気迫を纏った状態で。かと思えば、首が取れるのではないかという勢いで彼が頭を下げたので、俺は唖然とする。
「すんませんホント、変なこと言って。部長の心を乱すつもり、無かったんスけど……」
「…………」
「そんなこと言っても……難しいッスよね」
俺の顔つきを見て何かを察知したのか、青嗣は小さな声でそう言った。逆光のせいか、相手の表情は上手く読み取れない。言うべき言葉が見つからずいると、再び声がする。
「俺も以前、似たような経験があったんスよ。相手からの好意に困って、どうしていいか分からなくて。だから……同じことを部長にしてしまったこと、めっちゃ反省してます」
「…………」
「告白って、大変ッスね。想いを伝えたこと、後悔はしてないんスけど。やっぱこう、どうしても一方的なものになりがちッスから……」
「…………」
「あの、とにかく、部長。嫌なら嫌って言ってくれて、俺は全然気にしない……いや、なんかこれも押し付けっぽい……スかね」
「…………」
「でも、自分のせいで部長が暗い顔してるのは、俺……」
「……そう、では……ない」
「え……」
「嫌ではない、のだ」
俺の返答に、青嗣は驚いた様子だった。言った後で、自身も酷く驚いてしまった。だが、思わず口にしてしまった言葉が、実は何よりも真意を含んでいるのではないか、とも思えていた。だからこそ、なのか。俺は心のまま喉を震わせてみる。
「嫌なことなど……何も、ない。むず痒くはあるが、その、純粋に嬉しい、と、思っている」
「部長……」
「ただ、なぜ俺なのだ、とも思うのだ」
「…………」
「お前ほどの者が、どうして俺のような奴を好くのか。それだけが、どうにも……」
言っているうちに、青嗣の纏う雰囲気が濁っていくのを感じた。やはり俺は、どうしようもないほどの口下手なのだろう。好ましく思う相手に、このような物言いをされて愉快なはずもないことは、流石に理解してるつもりだった。眼前の狼が、口を開くまでは。
「……部長はカッコいいッスよ」
ムキになったような口調で、青嗣はそう告げた。とんでもない台詞に俺は目を見開く。
「鋭い目。雄々しい声。厳格な性格。逞しい身体」
「な……」
「精悍な精神。白く整った鳥毛。生真面目な態度。一歩引いて物事を俯瞰できる慎重さ」
「お、おい……」
「そんでその、嘴も……手入れしてるのがギャップでイイというか……」
「……っ」
無意識に口元を覆った。体験したことのない感情が一気に押し寄せて、それが見る間に全身から噴き出してしまいそうだった。一体今の俺は、どれほど間抜けな顔をしていることだろう。こうも淡々と称賛の言葉を浴びせられては、面映ゆさで居た堪れなくなる。
「とにかく、自分をどう評価してるか知らないッスけど、部長は十分カッコいいんスよ」
「いや、俺は……」
「俺のことはどうでもいいッスから、ホント、もっと自信持ってください、部長」
「むう……」
なぜ俺は、『羽柴一路がどれほどカッコいいか』を後輩に力説されているのだろうか。青嗣の語る“羽柴一路”と、ここでむず痒さに悶えている矮小な鷹は、本当に同一人物か。煌びやかな己との乖離があまりに酷く、眩暈すら覚えそうだった。
炎が遠くでちらつく。淡く照らされ、垣間見える青嗣の表情は、まるで何かの怒気すら孕んでいるかのようだった。俺の不甲斐なさに腹を立てているのか、あるいは自身の強みを認めない俺に呆れているのか。俺の無言は続いてしまう。
「…………」
「…………」
青嗣のほうも物言わず、ただこちらをじっと見据えていた。お前のその幽玄な瞳に、どうしてそれほどまでに立派な鷹が映ってしまうのだ。よもや、俺とは違う世界が見えているのか。むず痒さがとうとう首元までやってきて、堪らず視線を逸らした。
「……すまない、青嗣。一人にしてくれないか」
「…………」
「恐らく俺には……時間が必要なのだ、時間が……」
譫言のように伝えれば、青嗣は「俺、ずっと、本心ッスから」とだけ残し、宴の輪の中へと入っていった。火の気、爆ぜる音、風。熱を上げてゆく喧噪を、相変わらず遠巻きに眺めながら、俺は静かに瞑想に耽る。
テントに戻るつもりではあった。だが、そうしなかったのは。心のどこかに、輪の片隅にでも籍を置いておきたいという厚顔さが残っているのだろう。それは己の弱さゆえか、それとも心境の変化ゆえか。
幸せとは何か。己とは何か。あの真っ直ぐな双眸に、真摯な物言いに、愚直な態度に、俺はどう応えてやれば。広原の夜は思うより優しく垂れ込み、がらんどうの己という器を、少しずつ満たしていくようだった。
しゃけ
2024-02-18 12:39:07 +0000 UTC