■あいつとグランピング 夏影
夜の露天は相応の静けさが支配していた。吹き降りる風、山の草木の香、雲間に覗く二日月。立ち昇る湯気に紛れ、俺は露天の端に坐して目を瞑る。他者の気配は然程感じられない。日頃の瞑想をするには、悪くない状況ではあった。
この旅行に来てから、雑念が激しかった。楽しくないわけではない。辛苦も艱難もありはしない。ただくだらない孤独感と、しようもない劣等感だけが己の中に渦巻いて、それが何をするにも自身を苛めてくるのだ。だからこそ、こうして、独りで。
「…………」
風が毛先を滑ってゆく。一人は気楽だ。これまでそう思って生きていた。だが己の孤独は、単に世界から疎外されているだけのような気もしていた。むしろ自らその道を辿っているだろう自覚もあった。だが今の己は、そのままではいけないということを本能で感じている。
それで、ゆえに、だから、だが。あれこれと考えないためにこんな場所で瞑想を始めたはずが、脳裏は既に混沌に侵されていた。息を吸う。整える。思考をまっさらな雪原へと追いやる。それでもなお、悩みは湯水のごとく湧き出ずる。己とは、これほどまでに不出来であったか。どうにも辟易し――。
「――ッ」
殺気。正確には、何者かの気迫を背後に感じた。咄嗟に身を翻し、頭上へやってきた一撃を間一髪のところで押さえる。手に握り込んだそれの正体は、精悍な手。その感触に動揺していると、腕の先から声がする。
「いやー、流石先輩ッスねー」
「……青嗣か。何の真似だ」
「何の真似も何も、呼びかけようと思ったら先輩が掴んできたんですよ、俺の手」
「む……」
思いの外強く青嗣の手を握っていることに気付き、俺は慌ててその手を解放した。次いで――湯浴み中なのだから当然のことではあるのだが――青嗣のあられもない姿が視界に入りかけ、自分でも分かるほどに狼狽する。
「なんで先輩が恥ずかしがってるんスかー」
けらけらと笑う青嗣は、楽しそうな笑顔を張り付けたまま俺の隣に腰を下ろした。相変わらずこいつの考えていることはよく分からない。振り返り、ガラス戸越しに中で他の面子が騒いでいるのを確認して、溜め息をつく。
「あっちはいいのか。何も俺に構う必要もあるまい」
「いやなんか、不破先輩の悪ノリに田折先輩が便乗しちゃったんスよ」
「……はあ」
「そんで、なんかケツ揉み大会みたいなのが始まっちゃって」
「…………」
奴らのやりそうな話だ、と俺は半ば呆れがちに首を振る。幸いこの温泉は施設内に併用されたもので、客も疎らだった。多少騒いでも問題ないとは思うが。人目も憚らず騒げる彼らが、俺には羨ましくも思えた。
「お前は、参加しないのか」
「そッスねー。言うて俺みたいなのがベタベタ身体触るの、なんか申し訳ないんで」
さらりとそう言ってのける狼の横顔を、あまり直視できなかった。考えてみればそうだ、俺だって同じ選択をする。俺は己の浅ましい口ぶりを恥じた。
「……それでも、遠巻きに見てるなりすればいいだろう」
「何言ってんスか。そもそも俺、先輩の様子見に来たんスよ」
「別に、俺に構う必要などない」
お前はお前で楽しめばいい。そうするだけの胆力も言動も資格も、俺以上に備わっているのだから。そういうつもりで発した言葉だったが、存外それは冷たく露天に反響した。青嗣は目を丸くして、そののちニッと口角を上げる。
「素直じゃないッスねー、先輩。そんな淋しそうな背中しておいて」
「そ、そうだろうか……」
「あっちで皆盛り上がってんのに、ぼっちで瞑想なんかしちゃって。水臭いッスよホント」
動揺する俺を尻目に、青嗣も瞑想の姿勢を取った。伸びた背筋、しなやかな筋の導線、先ほどと打って変わった静謐に満ちた表情。どうしてか目を逸らせなくなっていると、その横顔が些細な笑みを浮かべる。
「それとも迷惑ッスか、こういうの」
「……いや、そんなことは」
「じゃあいいッスよね、俺がここにいても」
「…………」
瞑想を始める青嗣に対し、俺は何も言えなくなった。疑問と、戸惑い。減らしたかったはずの雑念が、またひとつ増える。これほど出来た奴が、なぜわざわざ俺なぞに構うのか。他の面子と絡んでいたほうが、よほど有意義であろうに。
青嗣はそれきり、何も言わずただ静けさの中に身を投じていた。俺の視線を気にするでもなく、柔らかな呼吸を繰り返す。裸の後輩、狼。なんだか奇妙な状況に、何ゆえか胸はざわついてしまう。だから俺も、息を整え、同じように瞑想に耽る。
「…………」
「…………」
背後のほうで湯水を打つ音がする。子供がはしゃいでいるのか、老人が肩でも流しているのか。硫黄の臭いが鼻をつく。山風で湯気が霧散する。俺ははたして、どうしたいのだ。一体どうなりたくて、この旅行に同行したのだ。
瞑想を始めて数分、俺の集中力は無様なほどに途切れていた。脳に渦巻く全てが、拭っても散らしても消えやしない。ちらと隣を窺えば、颯然とした横顔が余計に己の劣等感を煽ってくる。この利発な後輩は、こんなくだらない懊悩とはきっと無縁なのだろう。
「……凄い奴だな、お前は」
気付けばその感情は、口から零れ出ていた。途端、見開いた瞳がこちらを窺ってくる。俺の口は止まらない。
「剣道部でもこの旅行でも、お前はすぐに馴染んでみせた。剣道の上達も早く、俺が見る限り聡明で、だというのに嫌味な部分も感じない」
「先輩……?」
「こうしてここへ来たのも、孤独な俺を気遣ってのことだろう。実によくできた奴だ、本当に……本当に」
柔らかな視線を感じる。だが俺は、その眼差しに返すことができない。精一杯に目を伏せ、ただぼそぼそと己の醜態を晒す。
「俺はあまり、他者と交流するのが得意ではない。顔色を窺うことも、言葉を尽くすことも、好意を態度に示すことも、昔から苦手だった」
「…………」
「だがそれも、自身の個性だと信じていた……いや、信じざるを得なかった。厳格に、勤勉に振る舞うことこそが、己であるのだと」
再び湯気が立ち込めてくる。誰かが出入りしたのか、背後のほうから熱気が漂ってくる。青嗣は黙ったまま、俺の話を聞いているようだった。この大学生活で起きた様々なことを思い起こしながら、俺はなおも囀る。
「……だがそれは、誤りなのだと知った。俺はそういう己を笠に着ることで、自身の欠点から目を逸らしていただけだった」
本当の俺は、実のところ随分と、寂しがりなのかもしれん。孤独に胡坐を掻いてきた日々が、俺を仲間に含めてくれる彼らとの日常が、あの最悪な狼と過ごした一夜が、俺の本性を表層に暴き出した。ゆえにこそ、俺はこの旅行への参加を決めたのだから。
「しかし……気付いたところで、すぐに変われるわけもなかった。分からないのだ、どうすればいいのか。どうしたらみなと同じように、俺は振る舞える。誰もが出来ていることが、俺には酷く難しい……難しいのだ、実に」
「…………」
「こう言われたら困るかもしれんが……お前が羨ましい。己の出来損ないぶりが本当――」
「――先輩」
「む……」
不意に青嗣が口を開いた。それで我に返った俺の視線は、そちらへと吸われていく。
「綺麗ッスよ、月」
「あ、ああ……」
思わずそちらを仰ぐ。月が綺麗かどうかなど、考えたこともない。だが宙に浮いた白い空白が、このときはやけに輝いて見えてしまったことを、俺は否定できなかった。底から湧き上がってきた負い目のようなものが、俺に口を開かせる。
「す、すまん……今のはその、忘れてくれて構わない」
「……知ってますか、先輩。月の裏側って、この星からじゃ見えないらしいッスよ」
「む……き、聞いたことはあるが」
「それと同じだと思うんスよね、俺。誰しも見えないところがあるんじゃないかって」
「…………」
「先輩は俺のこと、買い被りすぎッスよ。羨ましがられるほど、立派じゃないッスから」
「いや、しかし……」
「俺、先輩のこと好きです」
一刻、時が止まる。一体今俺は、何を言われたのか。脳がそれを正しく理解するより早く、青嗣が二の句を継ぐ。
「旅行に厚かましくついてきたのも、こうやって先輩に絡むのも、そういうことなんスよ」
「な……」
「まー、やっぱキモいッスよね。でも先輩がそうやって俺のこと評価してくれてるのに、黙ったままでいるのはフェアじゃないかなって思ったんで」
あっけらかんとした態度で言って、青嗣は苦笑した。どうして俺に近づいてくる狼はこうなのだ。平然と己と向き合って、こちらの価値観を粉々にしてくる。色々な感情が押し寄せて、ひたすらに困惑する。なぜ俺を。なぜそうも。青嗣の言葉はまだ続く。
「惚れてる奴の妄言かもしれないッスけど、先輩も多分、自分でも見えてない部分がたくさんあると思うんス」
「見えていない、部分……」
「きっといいところも悪いところも、いっぱいあるんスよ。だから先輩、自分のこと出来損ないなんて、言わないでほしいッス」
「青嗣……」
何か言おうとして、何かが胸に詰まった。初めての感覚だった。俺が言葉に詰まっている間に、タイミングよく――この場合は悪く、だろうが――他の奴らがやってくる。田折と赤木、それと不破、だったか。
「先輩、玲太も。ここサウナあるんすよ、サウナ」
「お、いいッスねサウナ。俺結構好きッスよ」
「泰利が入ろう入ろうってうるせーもんで。こいつ絶対、おいにレースで負けたん根に持ってるじゃろ」
「はー、ほぼ同着だったのにお前がごねたんだろ。ここで真の決着といこうじゃねーか」
「け、臨むところじゃ。おら、玲太も横の先輩も、ぼさっとしとらんで行くぞ」
「む、いや、俺は……」
咄嗟に断ろうとしたところ、一足先に立ち上がった青嗣が「先輩も行きましょ」と手を差し出してきた。その手をつい握ってしまったとき、はたと気付く。
俺は今さっき、人生で初めて告白をされたのだ、と。