■あいつとグランピング 山風
幼い俺がいる。背丈的には多分、小学校低学年ぐらいの頃。俺は走っていた。背の高い草が膝を切るのも厭わず。石ころの多い道を履き潰したスニーカーで。それを俯瞰するように、背後からぼうっと今の俺が見ている。
山道を駆ける。風を切って走る。新緑の中をただ征くのが心地よくて、夢中で走ってしまう。でもふと我に返って、すぐに後ろを振り返る。そうしないと、置いていっちゃうから。
「善ちゃーん、こっちこっち」
坂の下のほう、ふらふらと息を切らしてこちらを見上げてくる、不機嫌な目。それを見て、本能的にマズいと思った。多分あれ、マジのやつ。俺は慌てて駆け寄る。途端に飛んでくる息の上がった恨み節。
「お前なあ、ホント、さっさと行きやがって、この」
「ごめんって」
「そもそもなんなんだよ。うちに来るなり俺のこと引っ張り出して、こんな山に……」
悪態を途中で切り上げた善ちゃんは、溜め息を零して黙り込んだ。家から数十分ほど歩いた先にある、小高い山。善ちゃんが不機嫌なのも当然だった。このときの俺は確か、特に理由も告げずにここまで連れ出したのだから。
「ごめん、ホント。でももう少しだから」
そう言って申し訳なさげに腕を取れば、善ちゃんは不服そうにしつつも頷く。今にして思えば、随分小狡いことをしていた気がする。別の友達に同じことをしていたら多分、ついてきてすらくれない。
善ちゃんなら来てくれる。そういう確信が、当時から俺にはあったんだと思う。
無意識に手を繋いで、俺たちは林道を進む。一応目的地までは道なりになっていて、多少方向感覚の鈍い俺でもどうにか辿り着けそうだった。そろそろかな、と思ったところで、善ちゃんが口を開く。
「で、結局何を見せたいんだよ」
「この前さ、バスケの友達に聞いたんだ」
「何を」
「それは……あっ」
やがて開けた場所に出て、俺は思わず声を上げた。一際高い木の枝の先。空を仰ぐように指差し、善ちゃんの腕を勢いよく引く。
「ほら、あれ、あれ」
「あ……」
赤と緑の入り混じった果実。小学生の俺たちにはかなり高い位置に実った、小さな粒。それがいくつも枝にぶら下がり、青々とした葉っぱの隙間で静かに揺れている。二人で精一杯首を持ち上げ、俺たちは揃ってそれを見据える。
「りんご、だ」
善ちゃんが小さく呟いた。俺はなぜか得意げになって、その横顔を見ながらふふんと鼻を鳴らす。少し見開いた眼が、不思議そうにこっちを見た。
「大智、これ……」
「友達が森を探検中に見つけたんだって、野生のりんごの木。すげーだろ」
「……すげーけど、もし迷子になったらどうすんだよ。たくさん歩いたぞ」
善ちゃんの心配ももっともだったけど、実際この山は大して高さのあるものでもなかった。なんなら近所のじじばばが散策ルートに使ってるぐらいだったし。
「でも友達が大丈夫だったんだし、俺たちも大丈夫っしょ」
「そうかなぁ」
「それに、善ちゃんがいれば大丈夫だって思ったし」
「……意味わかんねえって」
呆れて物も言えない善ちゃんに対し、俺のほうは興奮気味になってその場で飛び跳ねた。その衝撃か反動か、近くにあった石の陰から虫が飛び立ったのが見えて、驚いた俺は尻もちをつく。
「あっ、いってぇ……」
痛みを堪え立ち上がろうとした瞬間、今度は鼻先にその虫が現れて、俺は「ぴ」と変な悲鳴を上げながら善ちゃんに飛びついた。そういえば昔から、虫は割と苦手だった。
「ぷ、はは」
さっきまで仏頂面だった善ちゃんが笑う。それで俺も、良かった、なんて内心安堵していた。当時の大智少年もきっと、そう思ったのだろう。膝についた土を払って、同じように笑った。一頻り笑ったあと、仕切り直しとばかりに拳を上げる。
「よし、じゃあこっから探検だ」
「は」
「俺たちもなんかすごい発見しようぜ。そんで友達に自慢する」
「何言ってんだよ。宿題も終わってねえし、早く帰んないと」
「えー、善ちゃんもどうせ夕飯までやらないじゃん」
「それはまぁ、そうだけど……」
「よし、まずはあっちのほうな」
「待てって……うわっ」
あ、と思ったときにはもう遅かった。地表に露出した木の根に足を取られたのか、善ちゃんはその場で盛大にひっくり返ってしまう。すぐに起き上がりはしたものの、足首を挫いたらしく痛そうに目尻が歪んだ。俺は焦る。
「あ、あ、大丈夫、善ちゃん」
「大丈夫だって、多分。一応歩けるから……」
そうは言うも、善ちゃんは顔を顰めていた。焦りが最高潮に達した俺は、咄嗟にその場に屈み込み、思いついたままに提案する。分かりやすく困惑する猫。
「乗って、背中」
「え、は」
「早く、善ちゃん」
まだ今ほど大きくもない、小さな背中。俺から見たって正直頼りない。それを見て善ちゃんは、何を思ってくれたんだろうか。戸惑いを隠せない表情のまま、若干照れ臭そうにして、善ちゃんは俺の背中に負ぶさる。
「大丈夫、俺が連れてく。すぐ家まで帰っから」
両脚にぐっと力を入れ、俺は覚えてる限りの帰り道を駆け出す。善ちゃんはそれほど重くはなかった。それでも同い年の幼馴染を背負って走るなんて、どう考えても無謀だった。だけど俺は、なんとかしなくちゃって気持ちだけで走り続けた。
だって、悔しかったから。目の前で怪我をされたことが、すごく辛かったから。そんで、助けられなかった自分に、すごくムカついたから。
そういえば、そのときだったような。善ちゃんのこと、俺が守らなくちゃって。子供ながらどうしてかそんな風に思ったのは。
◆
「ん……」
柔らかい風が鼻先を撫でる。夏の光が白いテント内に差し込んで、まだ寝惚けたままの眼に眩しい。少し窮屈な腹部を擦りながらむくりと起き上がると、声が聞こえてくる。
「起きたか、大智」
「……善ちゃん」
「散々昼飯食い倒した挙句、皆で旅行中に呑気に昼寝とかいいご身分だな」
「あ……」
昼間の失態を色々と思い出し、思わず後頭部を掻いた。そのとき、片手が塞がっていることに気付く。俺の手の中には、善ちゃんの手。
「あれ、手……」
「……お前が握ってきたせいで、俺トイレにも行けなかったんだけど」
恨みがましく言われ、俺は慌てて手を離す。誤魔化すように周囲を見回せば、善ちゃんの他には誰もいないようだった。皆は、と俺が口にするより先に、善ちゃんが言う。
「みんなアスレチックに行ったぞ。後は俺とお前だけ」
「あ、アスレチック。マジで」
「マジだよ。泰利と悟もお前が起きねえから、さっき行っちゃったわ」
「そっか……でもあれ、善ちゃんは残ってくれたん」
「…………」
善ちゃんは無言で口を尖らせると、俺の肩をばしと叩いてテントを出ていってしまった。俺も急いでその背中を追いかける。外に出れば、照り付けるような日差しがぼやけた脳裏を焼き付けてきた。香る山風が、少し湿った手の中を駆けていった。