■あいつとグランピング 湖畔
「はー、食った食った」
遊星は少し膨らんだ腹を擦り、既にシーツの撚れたベッドにどさりと腰を下ろす。その奥では、玲太――電撃参戦した狼の後輩――が食後のストレッチをしていた。ベッドの上で柔軟体操をするその姿は、ぶっちゃけ軟体動物めいていて見ていて面白い。
「なんじゃそれ、見せつけとるんか」
「え、ああ、これっすか。なんかクセでやっちゃうんスよね」
「クセって」
「俺、中学卒業ぐらいまで器械体操やってたんスよ」
「ほー、キカイタイソウ」
しなやかにシーツへと沈む玲太とは対照的に、遊星はオッサンくさい背伸びをしながら欠伸をする。俺も遊星も種族柄、多少身体は柔らかいほうではあるはずなんだが。目の前でうねうねと動く物体に、俺はどうにか笑いを堪える。
「それ、今はやっとらんのけ。確か剣道部入っちゃ言うとったが、辞めたっちゅうことか」
「あー……その、なんか疲れちゃって。親に言われてやってただけでしたし」
「辞めるとき、親はなんて」
「まー、うるさかったッスね。勿体ないだのなんだのって」
「そんな言われるって、めっちゃ将来嘱望されてたんじゃん」
「どうなんスかねえ。当時のコーチは、インターハイ確実とか言ってましたけど」
これまでにこやかな笑顔を崩さなかった狼の顔に、微妙に翳りがかかる。何があったのか気にはなるものの、過去を詮索されることがあまり気分のいいものでないことは知ってる。訊き出したそうな顔の遊星の言葉に被せるようにして、俺も声を発す。
「てかさ、どうやったらそんな身体柔らかくなれんの。俺こんぐらいしかできねーけど」
そう言って俺がそれなりの前屈を披露すると、遊星が鼻を鳴らす。
「おう、自慢け。おいなんか足もまともに開かんぞ」
今度は遊星が座ったまま開脚する。と言っても、九十度そこそこぐらいしか開けていない。俺たちの様子を見ていた玲太は、脚を百八十度開いた状態で上半身を床に伏せる。俺と遊星は揃って「うっわ」と半笑いで小さく悲鳴を上げてしまった。
「それやっべー。なんか動画とかでしか見ねー光景……」
「骨あるんけ、お前」
「もしかしたらないかもしんないっッス、へっへ」
「楽しそうだな」
狼の軟体っぷりに盛り上がっていると、テントの入口から声がかかる。振り返ると黒馬が立っていて、微笑しながらこちらに寄り自然な流れで俺の肩に手を乗せた。
「穂積先輩、赤木先輩は……」
「善人にキレられながら横になってる」
「そらあんだけ食ってらあな」
遊星は尻尾をうねらせて呆れる。俺と悟も顔を見合わせて苦笑した。昼のバーベキュー、大智はドン引きするぐらいの速度で飯を食っていた。焼いた側から食材が消失していく恐怖。慣れてる俺たちですら絶句するほどだった。
善人に「少しは遠慮しろボケナス」と叱られてからはようやくペースが落ちたのだが、それでも食った量は相当だった。隣で「これがフードファイターか……」と呟いた羽柴先輩の唖然とした表情を思い出し、俺は誰にもバレないように小さく噴き出す。
「少し値は張ったが、食べ放題プランにしておいてよかった。読み通りだな」
「だなー。流石にあんなに食うとは思ってなかったけどさ」
「でも大丈夫なんスか、赤木先輩。ヤバそうな顔してましたけど」
「あー、大丈夫だろ。ぶっちゃけいつものことだし」
「そういや食堂で『メガ盛りカツカレー』が出おったときも、毎日食っとったな」
「すげー、文字通り大食漢ッスね」
ようやく柔軟を終わらせた玲太が、呑気にそんなコメントをする。どうやら俺たちの会話から全てを察したらしい。そっちの柔軟性もあるのか、こいつ。
「大智は善人が見てるからいいとして、俺たちはどうすっか」
「次の予定って夜じゃろ、それまで自由時間か」
「あ、じゃあアスレチック行かないッスか。俺、ちょっと気になってて」
「お、ええな、他の奴らも誘っとくか」
「じゃー俺も……」
二人の提案に乗っかろうとすると、肩に乗った手の力が強くなる。怪訝そうに見上げれば、琥珀色の澄んだ眼がこちらを覗いた。悟の口が開く。
「俺らは後で行く。大智も行きたがっていたからな」
「おう、そうけ。んならそっちは任したわ」
数分もしないうちに支度を済ませ、二人はテントの外へと出ていった。残った俺は悟のほうを見るが、悟は無言のまま外に出ようと俺に促した。俺たちも外に出る。青々とした高原。晴れ渡った空をふと見上げた刹那、悟が口火を切る。
「近くに湖があるんだ。行ってみないか」
「え、湖」
「ああ」
そう言った悟に、さりげなく手を取られる。周囲には誰もいなかったが、少しドキッとしてしまった。見据えれば返ってくる、不敵な笑み。最近慣れてきていたせいか忘れかけていたが、そういえばこの黒馬はこういう憎らしいことを不意にしてくる奴だった。俺は頷く。
「行こうぜ。案内してくれよ」
ふ、と微笑んだ悟は、俺の頬を擦ったのち歩き始めた。先導する悟の後について、草原に伸びた多少舗装された道を歩くこと十数分。監視役らしきスタッフに案内されつつ雑木林を抜けると、澄み切った青緑の湖畔が視界いっぱいに広がる。
山中にぽっかりと空いた、空色の穴。柵の近くまで寄れば、その全体像がより鮮明に映り、俺は風に吹かれながら無意識に声を漏らした。
「すっげー……」
「いい景色だな」
しれっと隣にやってきた悟が、俺と同じように柵に手を乗せる。左手と、すぐ側にある右手。わざとなのか敢えてなのか偶然なのか、俺には判断がつかないぐらいの絶妙な距離。別に何も言われちゃいないのに、勝手にどぎまぎしてしまう。
「前にもあったよな、二人で」
「え……ああ、海んときか。海食洞っつったっけ」
「ああ」
「あんときも確か、悟に連れ出されたんだよな。今みたいな感じで」
「皆で来てたのにな」
「自分で言うか、それ」
けらけらと笑えば、悟も笑う。風に毛先が靡く。辺りには他にも見物客が何組かいたが、誰も俺たちのことなんて気にしちゃいなかった。無邪気な子供の声がする。水の揺らめきに光がちらつく。暑苦しい太陽が燦々と照り付けて、木陰にいるのに額に汗が滲んだ。
広大な自然の中にただ突っ立っているだけなのに、なんだか不思議な浮遊感がある。こんな風に世界の綺麗な面をいくつも見られるなんてさ。過去を思えば予想だにしないことで、まだどこかなんとなくこの幸福を信じられない自分もいた。
「…………」
「…………」
俺の空気を察したのか、それとも同じ気持ちでいるのか。悟は俺に合わせ何も言わなかった。年甲斐もなくはしゃいでもよかったけれど、感動を静かに噛み締められるぐらいには俺たちはもう大人だった。すっかり生え変わった頬毛を擦り、俺は意を決する。
黒いその右手に、自分の左手をくっつける。俺から仕掛けるのは、我ながら珍しいことだった。悟は少し驚いたような表情をしたが、すぐに俺の手の上に自分の手を重ねてこちらを見た。目が合った。俺もそっちを見ていたから、必然だった。悟の口が不敵に開く。
「これ以上は人目があるから無理だな」
「何言ってんだよ、いつも気にしねーじゃん」
「そうだな、確かに」
悟のマズルが俺の口元に寄った。一瞬の感触だった。俺たちのことなんて誰も気にしちゃいなかった。きらきらと光の跳ねる水面を眺めながら俺は、なんだか照れ臭くなってきて顔を伏せた。手の甲がただ、やたらと熱かった。