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明くる日、大学へ向かった友太を待っていたのは、助教授からの叱責であった。なぜ大事な講義を欠席しているのか。他の者の気概まで削がれるではないか。不真面目な態度で臨まれては困る。その他あれやこれやと訳も分からないままに小言を投げつけられ、友太は謝罪も口にできず顔を蒼くして立ち尽くした。
老獪の説教から解放されたのは、始まってからかれこれ数十分も後だった。苦々しい気分で大学の廊下を歩けば、しんとした静寂すら耳障りに思えてくる。どうして自分が。これまで休まず出席してきたのに。それこそさっきの講義だって、他にも休んでる連中はいたはずだ。そいつらだって呼び出されてなけりゃ、おかしいじゃないか。そういう手合いに強く出られないからって、鬱憤の捌け口にしやがって。
……なんで、自分ばかりこんな。
焦燥と後悔、そして僅かな憤懣を抱えながら彼は、ふらふらと構内を彷徨った。こういうとき、どうしていいか分からない。こういう鬱屈とした気分をどうしていいのか、彼には分からない。胸中に渦巻く悪態とは裏腹に、平然とした学内の様子を眺め、目尻に皺を寄せる。
実はさ、この前彼女ができて――。
今度の金曜に合コンがあるんだけど――。
この後あいつら誘ってカラオケでも――。
友太は顔を顰めた。無意識だった。幸福な他人を羨もうと、潤沢な人生を畏怖しようと、己の処遇が変わるはずもないことは知っている。だがそれでも、当てつけのように廻る世界がどうしても、好きになれそうもなかった。
……あの男のせいだ。
ふとそういう思考に至った刹那、友太は首を振る。あの男も別に、自分に助けられたくて助けられたわけではないのだ。勝手に気になって、勝手に巻き込まれただけ。勝手に面倒を見て、勝手にこうなっただけ。何よりここで彼を憎んだところで、先ほど友太に八つ当たりを仕掛けた老獪と同じ穴の狢だった。腕時計の時間を確認し、彼はその場を立ち去る。
講義を受講する。レポートを書く。大学図書館で調べ物をする。昼食を摂る。講義を受講する。空き時間に端末を弄る。ぼうっと窓の外を見る。講義を受講する。構内のソファに座り時間を潰す。講義を受講する。レポートを書く。大学を出て帰宅する。
単調な大学生活だった。昨日もそうだった。一昨日もそうだ。先週も、先々週も、その前も。そしてきっと、明日も。何も変わらない、彩りもない、ひたすらに緩慢とした日々が続くだけの毎日。はたして自分がここに在る意味は、どこに転げているというのか。ただここに、一人にも満たない程度の空白がある。もし世界の容量がいっぱいになったとしたら、真っ先に消されるであろう空間。死ぬ理由がないだけで、別に生きる理由もない。願いも望みもない。すぐそこにある絶望が、いつ足元ににじり寄ってくるのかを待つ人生。
電車の車窓には、代わり映えのしない風景が淡々と流れていく。向かい側に座るまだ小さな子供が、その景色を食い入るように見つめている。親は脱ぎ散らかされた靴を申し訳なさそうに拾いながら、「きちんと座りなさい」と小声で子供を叱りつける。それでも少年は、窓に張り付いたまま動かない。友太はなんとなく心がざわついて、少年と同じように外を見据えてみた。だがやはり、何ら代わり映えはない。ざわつきを押さえられないまま目的の駅に着いて、友太は足早に電車を降りる。そうして家路を急ぐ友太を、唐突に呼び止める声。
「よお、学生くん」
そちらを見て、彼はぎょっとした。彼を呼んだのは、あの男であった。昨日と変わらぬよれたスーツ姿で、アパート前のコンビニで煙草と戯れている。露骨に頬を強張らせる彼をよそに、中年の狼は軽快に手を振る。
「いや良かった、会えないかと思ったぜ」
「……何の用ですか」
「暇だから来ただけ」
「帰ってください」
「冷たいな。仕事って体裁で出てきたから、そんな早く帰れないんだよ」
「まだ言ってないんですか……」
「もう何年もろくに口利いてないんだぜ。久々に話す言葉が、会社クビになりましたーって、いくらなんでも悲しいじゃん」
「……そう言って、家族に見捨てられるのが怖いんじゃないですか」
言いながら、友太の視線は徐々に男から逸れていく。今のは明らかに言い過ぎたと、自分でも分かっていた。だが男のほうは、ただ目をぱちくりとするばかりで、特に機嫌が悪くなる風でもない。
「あーまぁ、そうか。それもあるんだろうな」
男の返事は、どこか要領を得ないものだった。気まずそうに佇む友太に対し、狼は吸殻を捨てて向き直る。その口角が僅かに上がったのが見えて、友太はよからぬ気配を感じた。
「で、学生くんさ、ちょっと付き合ってくんね」
「え……」
間抜けな声が駐車場に転げ出る。昨日知り合ったばかりの、歳も離れた輩をどこに連れようというのか。第一、友太には今日だってバイトがあった。提案を受ける理由などない、と彼は素っ気なく返事をする。
「俺、これからバイトですから」
「そんな顔で、か」
「どういう意味ですか」
「シケた面だって言ってんだよ。大方接客業だろ、その顔で対応される客の身にもなれよ」
「……余計なお世話だ」
彼は静かに憤慨した。失礼な奴だ、と。せめてもと思い、言葉遣いだけでも敬っていた自分が阿呆にすら思えていた。友太の表情を窺いつつもなお、男は無神経に口を開き続ける。
「顔に書いてんだよな、人生つまんねーって」
「……何を、そんな」
「見てみろよ」
そう言って狼は、近くに停車していた白の軽自動車のほうへ友太を促す。釣られてそちらを向けば、その瞬間、車の窓にひどく憔悴した顔が映り込んだ。それが反射した自分の顔だということに、彼は一瞬気付かなかった。
眉は下がり、目元は垂れ、口角は引き攣って、毛はボサボサ、皮膚は張りがなく、今にも高架橋の欄干に手をかけそうな。誰がどう見たって、ひどい顔だった。必死で笑顔を試みるが、錆びついた機械人形のように、どうしてもぎこちなさが残る。隣で「な」と鼻を鳴らす男が憎たらしいが、自分でも驚くほど疲れ切った顔つきをしているのは事実だった。
「今日は休んどけ。人には休暇が必要ってな」
「……そういう、わけには」
「あー、もしかして自分が行かないと駄目だとか思ってんの。やめとけそういう考え方、自分が滅びるだけだぞ」
男の指摘はもっともらしく聞こえた。友太は無言になって口を噤む。
「一人抜けたぐらいで回らなくなる職場なんて高が知れてんだ。責任感なんて便利な重石に惑わされちゃいけねえ」
「…………」
彼は先日と同じく、この男を言い訳にしようとしていた。近頃バイトが億劫になっている彼にとって、悪魔のような誘惑に違いなかった。行って真面目に働いたところで、裏で喋りながら適当にだらけているあの軟派な犬と、稼げる金額は一緒だ。
……ああ、駄目だ。
困ればいいと思った。普段自分がどれだけの労力を費やしているのか、自分がいなくなることで、思い知ればいいと。そうすれば、少しぐらい彼らの態度も変わるのではないか。そんな淡い期待が胸を掠めてしまったせいで、気付けば彼は電話をかけていた。
「もしもし、瀬上君」
「あ、あのっ」
店長の声で我に返るも、口が先に動いた。上手く言い繕おうとして、挙動が不審になる。
「その、店長、今……大丈夫ですか」
「まだ人少ないから大丈夫だけどー、なに、どうかしたの」
はきはきとした口調が、友太の胸を刺す。しかし数秒の迷いは、自分を覗き見るような男の眼差しが消し去っていった。試されている、なぜかそう思えた。
「実は今日……えっと、体調が悪くて。だから、バイトをお休みできないかと」
「ええー、そうなの。参ったな、困るよ急に」
それはそうだ、と彼は俯く。例え責任感などという重石を投げ捨てたところで、そこには代わりに罪悪感が収まるだけだった。とはいえもう、後には引けぬのだ。仮に、今更訂正してしまえば、却って相手の心証は悪くなるに違いなかった。ならばここは、嘘を押し通すほかない。
「本当、すみません、以後気を付けますので……」
「うーん、いやまぁ、あー……はい、はい。いいや、今日は」
「……申し訳ないです」
「いいよ別に。でも明日は来てね、頼むから」
「ありがとうございます」
何かしらブツブツと言われる前に、電話を切った。これでいいんだろ、と視線を飛ばせば、男はひゅうと口笛を鳴らし不敵に笑む。
「なんて言われたよ」
「今日はいいけど、明日は来い……って」
「へぇ、可哀想だなお前」
藪から棒に何を。突然可哀想呼ばわりされて、流石にいい気はしない。友太はムッとして男を睨む。
「お前、そこのバイト頑張ってんだろ。なのに体調不良って言っても、労いひとつくれねーじゃねえか」
「それは……」
どうしてこの男の言うことは、いちいち自分を傷付けていくのか。それが図星というものなのだと彼が理解したときには、燻ぶった怒りは憂いに変わっていて、それ以上何の言葉も湧き上がってこない。
「駒だよ駒。いいように使われてんだよ」
「…………」
なんとかこの男の弁を否定しようと試みるも、そのための材料が自分の中にない気がした。所在なさげに彼は俯く。
「まぁ乗れって。おっさんといいとこ行こうぜ」
へらへらと薄ら笑い、男は手前の軽自動車に乗り込む。この狼のものだったのか、と一瞬驚いて、友太もぶっきらぼうに助手席側に坐した。固く角ばったシート。咽ぶような甘い煙草の臭い。それを掻き消すために置かれたはずの消臭剤は、既にその中身を空にして埃を被っている。後部座席に投げられたジャケットと鞄は異様にくたびれており、隣でケッケと笑う狼の生き方を感じさせた。
……なんで俺は、誘いに乗ったんだろうか。
既に後悔の二文字が脳裏を過ぎっていたが、もはや彼の心境は自棄の境地に達していた。募りに積もらせた鬱憤を、この男がどう解消してくれるというのか。ただそれだけに興味があった。彼がシートベルトを着用したのを見届けると、男は満足げに二本目の煙草に火を点け、エンジンをかけた。
昼下がりの喧噪でごった返す市内を抜けて、山道を数十分ほど行った先。車は海沿いの国道を走っていた。その間、男は口から吐いた煙を車内に拡散させるばかりで、何も話はしなかった。友太のほうも、特に何を話そうという風でもなかった。ただ横から漂ってくる、甘ったるい香りが与えてくる妙な安心感に、むしろ居心地の悪さを覚えていた。
首を少し回して、風景を見る。元々海に面した町だとは彼も知っていたが、こうして見に来るのは初めてだった。濁った空の鈍色が海に溶け込んで、水平線に近づくにつれて色を失っていく。雲がなければ、その境目が分からないぐらいだった。
やがてフロントガラスの端に灯台が見えてきたあたりで、男は路肩に車を停める。肩を回しながら車を降りる男に続いて、友太も車を出た。冷えた潮風が鼻をくすぐる。何も言わず海を眺める男に苛立って、彼は少し離れてそこに立った。
「それで、なんで海に」
「来たかったんだよ、海」
「はぁ」
「今年も来れなかったなぁ、って思ってさ」
「……誰と」
彼の問いに、男はうなじを掻いて応じた。
「さて、誰だろうな。俺の頭には、広大な海のうねりしか浮かんでなかったから」
「それだけですか」
「ん、それだけ」
……呆れた。
男の弛んだ表情には、あろうことかそれ以上の理由はないとはっきり書いてある。その事実に、彼は軽い片頭痛を覚えていた。いいところへ行こう、の真意がこれか。こんな淀んだ海へわざわざ、先日会ったばかりの大学生を連れてきて、蓋を開ければ大した目的もない。
「馬鹿にしてんのか」
「そんなつもりないない。ほら、いいじゃん、海」
「……家に帰せよ」
駄目だ、この男と話していると頭痛が酷くなる。そう思って、彼は助手席のドアを再び乱暴に開けた。甘い香りが車外に漏れ出して、海風に攫われていく。男はどうこうする様子もなく、依然として枯れた海を見据えていた。
「見たかったんだよ、誰かと」
「だから、誰と」
「正直、誰でもよかったんだ。でも、お前しか浮かばなかった」
「は……?」
驚いて、彼は男のほうへ振り向いた。すると、狼の虚ろな眼差しと視線が交差する。友太は喉元の苦々しさを思い出し、軽く咳き込んだ。
「俺、友達いなくてよ。付き合い悪いから」
男はもう随分短くなった煙草を地に転がして、火を踏み消した。遥か以前に光沢を失ったであろう革靴が、彼の足元で悲しくくすんでいる。
「うちのとは、早くに結婚してさ。最初は父親として家庭も、男として仕事もって感じで、器用に生きていこうとしたんだけどな。結局どっちも中途半端に終わっちまって」
友太は車のドアを閉めて、再び男の側へと戻った。どこか遠くを望むその瞳には、海の鈍色が小さく反射している。
「気付けばうだつの上がらない、哀れな中年男の出来上がりーっつーわけだ。面白いだろ」
どうだ、とでも言いたいのか、男の口角がにんまりと吊り上がる。友太は迫る頭痛を押し殺して、無表情で返した。
「全然」
自称したように、男はなんとも哀れであった。哀れさを自嘲していた友太ですら、捨てられた飼い猫に向けるそれと同じく、男に憐みの念を抱いていた。だからこそ――それこそあの晩のように――放っておけなかった。
……別に、一緒に海を見てやるぐらい。
同情だった。だが、この男へと向けていた鋭利な刃めいた心持ちが、ものの数分のうちにひどく錆びついてしまったように感じた。仕方なくぼうっと潮風に包まれていると、再び甘い香りが漂ってくる。
「いいのか、それ」
「ん」
「煙草。吸いすぎは体に毒だろ」
友太は老婆心ながら言う。コンビニ前で一本、海までの道中に二本、これで四本目だ。恐らく、午前中にもいくらか吸っているだろう。とすると、嗜みと言うには数が多い。男は溜め息ついでに煙を吐いて、しゅんと肩を落とす。
「家内みたいなこと言うのな、お前。気遣いどうも」
「別に」
「まぁ、俺の体のことは俺が一番分かってるよ」
男は遠い目でそう言うと、また煙を宙に霧散させた。友太にそれ以上、男のことをあれこれ詮索する気はなかった。例えその身体が煙にまみれていようと、どこかしらに腫瘍や大病を抱えていようと、自分には関係ないのだから。
「そういやお前、名前は」
「……友太」
「なんて書くの」
「友達の友に、太……だけど」
思考の外から急に問いかけられて、自然と口が滑る。よもや名乗るほどの関係になるとは思っていなかったためか、彼は言った後で微かに動揺した。
「へえ、友太ね、友太」
男は鼻を鳴らしたきり、再び静かになってしまった。それが友太を更に動揺させる。
「え、あんたは言わねえのかよ」
「ああ、知りたい? やっぱ知りたい?」
年甲斐もなく無邪気に声を弾ませる男に、彼は内心辟易し始めた。どうしてこの男は、ここまで恥も外聞もなくはしゃげるのか。全く以って理解できない。理解はできないが、奇特な人もいるものだ、と。彼は息を深く吸って、静かに吐き出す。
「……別に、興味ないし」
「ええ……あ、そうなの」
しょげる男の態度がおかしくて、友太は頑なだった口角を少し綻ばせた。男は油断した彼の表情を目ざとく覗き込んで、ケッケと笑みを浮かべた。
「なんだ、ちゃんと笑えんじゃねえか」
「勝手に見んな」
「笑っとけ笑っとけ。よく言うだろ、笑う門には福来るって。笑ってたほうが人生上手くいくってもんよ」
「……上手くいってないだろ、あんた」
「あれ、マジだ。おっかしいな」
……おかしいのはあんただよ。
「笑顔が足りねえんだな、きっと」
お道化る狼が滑稽で、友太はまた笑みを零す。これがどういう気持ちであるのかは彼自身にも分からなかったが、少なくとも多少は気が晴れたように思えていた。
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試し読みはここまでです。
本編は来る『けもケット13』にて頒布予定です。
よろしくお願いします。