生の残照
1
電車には酒臭さが充満していた。飲み会帰りのサラリーマンの集団が、あちこちで上機嫌に仲間内に口上を垂れている。隅の座席では、酩酊した獣人が壁にもたれいびきをかいていた。別の車両は大学生の集団が織り成す中身のない会話で、俄かに騒々しくなっていく。
この環境に、瀬上友太は思わず顔を顰め、一瞬乗車を躊躇った。だがこれは、最終電車だ。しかも彼の家はここから数駅も離れたところに位置している。つまり、これを逃せば帰る手立てを失うのだ。込み上げた溜め息を飲み込んで、彼はふらりと電車に乗り込んだ。
疲れた。流れゆく街灯りを眺めながら、そう思った。急用でバイトに来られなくなった同僚の代わりに、いつもの倍近い時間働いたのだ。おかげで、週一の早上がりのはずが、終電で帰る羽目になってしまった。安物の腕時計を一瞥し、飲み込んでいた溜め息を一息に吐ききった。途端に、耳にはっきり飛び込んでくる、車内の声。
ホントだって、娘が可愛くってさ――。
そういえばこの前うちの親父が――。
彼氏から電話が来ちゃって――。
まだ飲み足りないけど、嫁さんがねぇ――。
電車の賑わいを友太は無表情で眺めた。彼らは自分を待っている人のために帰るのだ。ならば、自分は。
友太は家族とほぼ絶縁状態だった。嫌味を繰り返す両親に嫌気が差して、大学入学と同時に家出同然で生まれた町を飛び出した。こうしてバイトに精を出しているのも、学費、はては生活費のためだ。自分の力で生きてみせる。荷物を提げてあの冷え切った我が家を出たとき、そう決めたのだ。だからこそ泣き言も言わず、今日まで過ごしてきた。
それでも、あの暗いアパートの自室に帰るとき、少しばかり寂しさを感じてしまうことはあった。整然とした白いベッドと、生地の褪せた中古のソファと、無機質な机。色味のない質素な部屋。大学とバイト先とを行き来して、寝に帰るだけの場所。そこには無味乾燥とした空気があるだけで、他には何もない。
だから友太は時折、何のために生きているのかを考えてしまうことがあった。自問は虚空を舞うばかりで、自答に変わることはなかったが。
不意に向かいの自動ドアが開く。騒いでいた連中の一部が、挨拶もなあなあに降りて行った。後に続くように、会社帰りらしき女性が気だるげに降車していく。
再び動き出した車内は疎らになっていた。友太は空いた席にゆっくり腰を下ろして、小刻みに揺れる吊り革をぼうっと見つめた。
うつらうつらとしていると、終点のアナウンスが鳴った。残った乗客が列を成して、前方車両にいる車掌に切符を手渡し、次々に家路に就いてゆく。友太もその列に並ぼうと立ち上がるが、横目に眠ったまま動かない中年の酔っ払いがちらついて、それがどうにも気になった。別に何の変哲もない狼獣人だ。いつもなら無視するというのに。
「あの」
近づいて声をかける。アルコールの臭いが彼の顔を歪めさせた。獣人専用のコロンの匂いも混じっているせいか、嗅覚が鈍いとされる人間の鼻にも不快感を覚えさせる。口で呼吸をしつつ、更に続ける。
「もしもし。終点、着きましたよ」
「んあ……?」
酔っ払いは曖昧な返事をしたあと、もごもごと何か話し始めた。しかし、呂律が回っていないらしく、友太にはそれを聞き取ることは出来ない。仕方ない、と改めて前方を目指す友太の背中に、立ち上がった酔っ払いが思い切りもたれかかった。
「え、あの」
そこへ――彼にとってはタイミングが悪いことに――車掌が駆け寄ってくる。
「お連れ様、大丈夫でしょうか」
「いや、別に連れじゃ……」
「すみませんが、本日の運行はこれで終了ですので」
事務的な車掌の雰囲気に気圧され、特に何も言えないまま友太は電車を降ろされた。肩には、見ず知らずの酔っ払いの狼。ここは市内からも外れており、付近はかなり寂れているため、タクシーは近くを走っていない。しかも秋も近まってきたこの時節、駅に置き去りなんてできるわけがなかった。何より、それでこの中年狼が何かしら犯罪に巻き込まれでもしたら、下手に関わってしまった分後味が悪い。
結局、彼は不肖の酔っ払いを担いで、自宅へ向かうしかなかった。
◆
「ふぅ……」
部屋に着くなり、思わず息が漏れる。大の男を一人携えてアパートまで歩くのは、なかなか骨が折れる作業だった。終始ぶつぶつ唸っている酔っ払いを丁寧にソファへと横たえると、途端に疲れが押し寄せてきた。そのまま、ふらりと布団へ倒れ込む。
……何をやってるのだろう。
ふと、居酒屋のバイトのことを考えた。今日来られなかった犬獣人の同僚は、本当は友人らと遊び回っているだけだということを、彼は人づてに聞いて知っていた。
正直不愉快だった。だというのに、この心中は羨望で満たされている。自分のほうが真面目に生きているはずなのに、そいつのほうがいい人生を歩んでるように思えてしまう。そいつだけじゃない、客で来ていた頭の悪そうな大学生の団体も、夕方から一人酒に溺れていた老人も、痴情のもつれで別れ話になっていたカップルも、自分なんかよりよっぽどマシな人生を送っているように思えた。
思えば、親への反骨精神だけが原動力だった。弾みで家を出たはいいものの、これといった目標なんてない。大した趣味もなく、淡白な性格が災いしてか友人もろくにいない。潤いのないさもしい人生だ、などと嘲るように自負しても、この鬱憤はいつも思想に暗雲をもたらしていた。ただ自らの生を永らえるためにあくせく働いて、得た金銭は泡のように消え、手元には枯れた自分だけが残っている。
ならば、俺は、どうして生きているんだっけ。降って湧いた疑問は脳裏を素通りして、部屋の隅へと転げていった。
……やめよう、疲れてるんだ。
彼は鼻で笑うと、ゆっくり瞼を閉じた。仕事で汗ばんだシャツがにわかに蒸れて気持ち悪いが、そんなことはどうでもよかった。気分は沈もうが朝は来る。それならば、明日に備えて眠ったほうがいい。男の薄い寝息を耳に、電灯を消すのも忘れ彼は眠りに就いた。
朝方彼が目を覚ますと、男は体勢を崩しソファから転げ落ちているところであった。小奇麗なカーペットに突っ伏しながら、うーうーと喉を鳴らしている。スーツはよれ腰の辺りでしわになって、青みがかった黒い毛並も唾液でべたつき、歳でくすんだ毛色の尾は、彼が喉を鳴らすたびに小刻みに痙攣していた。
……だらしのない。
上辺では目の前で醜態を晒す男を非難するが、男の指に銀の指輪が光ったのが見えたせいで、頭の片隅にまた例の劣等感が見え隠れし始めた。首を振るって思念を追い出すと、彼は男の肩を揺する。
「起きてください」
何度か熱心に呼びかけるが、起きる兆しはない。時計を見れば、そろそろ準備を始めなければまずい時間であった。
「あの、すみません」
焦りからか声を荒げる。すると、不意に狼が立ち上がり、ふらふらと玄関に向かっていく。ようやく話が通じたのかと後を追うと、狼は玄関先に置いてある傘立てにそのマズルを突っ込んでいた。そして――。
「あ、ちょ、ちょっと」
――吐いた。傘立てのおかげで吐瀉物そのものは見えなかったが、部屋に充満する胃酸の臭いが、嫌でも鼻に突き刺さる。どうしたって、この無様な男を放っておくわけにはいかなかった。
……ついてない、ホント。
舌打ちを押し殺し、男の介抱に向かった。背中を擦りつつも、ちらちらと時計を気に掛けたが、願い虚しく時間はただ判然と過ぎ去っていく。
……大学、今日は休もう、仕方ない。
現状そうするほかなかったが、気軽に話せる友人のいない彼にとっては、ひとつ休んだだけでも死活問題である。休みたくはなかった、だが一方で、この男を言い訳に、一日ぐらいいいか、などと思っている彼も存在していた。それがひどく後ろめたいことに思えて、男をソファに引きずりながら、彼は人知れずひどく自己嫌悪に落ち込むのだった。
◆
一通り処理を終えた友太は、男の傍らに座り込んでその様子をちらちらと窺っていた。介抱の途中、ぼそりと静かに水を要求したきりで、起きる気配はない。時刻は正午を回ろうとしていた。おもむろに、ハンガーに掛けてやったスーツの上着を見やる。今日は平日だった。この男、仕事はいいのだろうか。それに、家族は。
……そうだ、こいつの家族だ。
思いついたように彼はスーツの上着を漁る……が、ない。ならばと男のスラックスのポケットを今度は恐々探った……あった。しかし、端末を取り出し画面を覗くも、期待通りの結果は得られなかった。ロックされている上に、特に何らかの通知もない。妙な違和感に襲われていると、男が目を覚ましたようだった。上体を起こすなり頭を抱えている。
「……あ、いってえ、頭ガンガンする」
「大丈夫ですか」
「ん……? お前、誰だ……」
「わけあってあなたを介抱した者です」
「んだよそれ……てかどこ、ここ……」
「俺の自宅です」
「……あ、そう、そうなの」
男はどうでもいいとばかりに適当な返事をして、再び横になる。そして硬そうな体を丸めて、小さく「ごめんな」と呟いた。彼は「あ、いえ……」と遠慮がちに返す。自分の部屋だというのに、まるで自分の部屋ではないような居心地だった。
それから少しして、男は多少体調が戻ったのか、虚ろな顔で友太に向き直った。甲斐甲斐しくも拭いてやった口元が、まだそれなりに湿っている。
「なんで俺を……」
「別に、大した理由は」
実際、巻き込み事故みたいなもんだ、と彼は思った。なぜあのとき、声をかけたのか。後悔だけが脳の端を漂っていく。
「あぁそう、ふうん……」
気の抜けた返事。腑抜けた表情の男に、友太は問いかける。
「それより今日、平日じゃないですか。仕事とかは」
「ねえよ」
「え?」
「この前クビ切られた」
あまりに淡々としているので、むしろこっちが気後れしそうであった。同時に、あれほどみっともない風だった男の事情を知って、彼は殊更哀れな気持ちになる。
「もう長いこと勤めた会社だったのに、別れ際って意外とあっけないもんだな。大学んとき付き合ってた女みてーだったわ」
何がおかしいのか、男はそう言ってケラケラと笑うが、友太は笑えなかった。男の笑いは彼がする自嘲とは違い、吹っ切れたような、広原を駆ける風のような爽やかなもので、それがどうにも理解しがたかった。
「あーあ、どうすっかなぁ。この歳で新しい職場探すとか絶望的だしよー」
男はどこからか煙草を取り出して咥えた。咄嗟に声が出る。
「あの、うち、禁煙なんで」
「……あ、そ」
わざとらしく煙草を口元から外す男に対し、友太は湧き上がっていた違和感を口にした。
「帰らなくていいんですか」
「どこに」
「自分の家に」
「ああ、自分の家ね……」
『自分の』の言い方がやけに苦々しい。友太はさっきの簡素な携帯の画面を思い出していた。浮かんだ言葉が口から漏れる。
「仲悪いんですか……奥さんと」
「なんでそう思う」
「だって、その、夫が一晩帰ってこないのに、連絡のひとつもないなんて」
「見たんだ、携帯」
「すみません……」
「いいって、そんなの」
男は指先で煙草をいじりながら、部屋の隅に目を移した。
「まぁ、奥さんどころか子供とも上手くいってないよ」
「お子さん、いらっしゃるんですか」
「二人。上が男の子で下が女の子。どっちも奥さんの配下だけどな」
「……嫌じゃないんですか」
「嫌だよ」
当然だろ、とでも言いたげな口調。あっけらかんとした様子に、友太は一瞬妙な質問をしてしまったと思ったが、それでも男の態度にはある種開き直った感じが見られた。
「じゃあ」
「無駄だって」
彼が何を言おうとしたのかを見透かして、男はその言を遮る。
「もう糸が切れちまってんだ」
「糸?」
「よく人との関係を縁の糸って言うだろ。つまりな、紡ぐのには大層な時間が要るのに、思ったより簡単にほつれたり千切れたりしちまうってことさ」
外が曇り始めたのか、部屋が翳り出した。男の明るい表情に暗い影が落ちる。
「で、俺とあいつらの糸はいつの間にかぷっつり……って話。今じゃ戸籍だけの関係だ」
「家族、なのに……」
言いながら、どの口が言うんだ、と彼は思った。家族との関係を隔たっているのは、自分だってそうだというのに。
「ただの枠組みだよ。自分は自分、他人は他人ってな」
友太は自分とこの男はどこか似ている、と思った。だが、それを言葉に出すのは流石に憚られた。彼は自ら枠を出て行ったのに対し、この男は締め出されたのだ。そこには深い溝がある。だから下手に同情などしても、目の前の惨めな男が更に惨めになるだけだった。
「家族どころか会社にまで切られるんだもんなぁ。なに間違ったんだろうな、俺」
男は机に置かれたままだった水を、一杯呷った。口の端から垂れた飲み零しが、皺のついたワイシャツに数滴シミを作る。
「どう思う」
「どうって、聞かれても」
「別に深く考えなくていいよ。俺も考えてないから」
軽い頭痛に見舞われて、友太は混濁する。なぜこの男は悲惨な実情をこうも他人事のように話せるのか。聞いているこっちは、気まずさで胃が混ぜ返っているというのに。
「ま、それも人生。セラヴィってやつ?」
火の点いていない煙草を吸うフリをしながら、飄々と男は語った。せめぎ合う感情を鎮めるように、友太は大きく息を吐く。思ったより長く男の話を聞いてしまった。
「事情はともかく、その、いつまでもここにいられたら困るんです」
「帰れってか」
「……はい」
「どこに」
「だから……」
言いかけた言葉は、肺に詰まった。突然の息苦しさに思わず咳き込む。男があまりに儚げな表情でこちらを見るので、自分が酷なことを強いているかのような錯覚に陥った。かと思えば男は、くく、と低く笑って、「冗談、冗談」だのと宣ってくる。
「そんな目で見なくたって帰るよ。自分の、家にな」
「…………」
「じゃ、世話になった」
勢いをつけて立ち上がると、男は後ろ手を振って玄関を出て行った。見送る気にはなれなかった。どこか現実味がない気がした。昨晩から今までにかけてのことは、全て変な夢だったんじゃないかと思うぐらいには。だが、机上に置き去られた一本の煙草が、あの男の滞在を律儀に物語っている。
「糸……」
独り言がひとつ、部屋に零れた。彼はしばらくよれたソファの凹みを見つめたまま動けなかった。雨が降り出したのか、外は雨音で満ちている。徐々に冷えていく室内で、家族のことを思い出していた。夏期休暇中のある日。自身の恥部について詰問された、雨の咽び止まぬ午後の話。
――欠陥品。
動悸が激しくなるのを感じ、彼は思考を止める。悲愴と、苦悩。そして微かに残る、苛立ち。奴らとの繋がりを思うだけで身の毛がよだつぐらいだった。
……忘れよう、俺は糸を切り捨てたんだ。
気分を落ち着かせ、瞼を静かに開ける。そうして目に入った時計は、既に夕刻を指していた。あの男が去ってから、大分時間が経ってしまっていたらしい。
「あ、バイト……」
誰に言うでもなく呟いて、友太は支度をする。陰気な雨に辟易しながらアパートを出れば、電車が出るまであと数分というところだった。
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試し読みはここまでです。
本編は来る『けもケット13』にて頒布予定です。
よろしくお願いします。
日永
2023-04-30 21:56:17 +0000 UTCウート
2023-04-30 12:42:24 +0000 UTC