■一路青年の朱夏
先輩もどうすか、と声を掛けられたのは、数日前のバイトの後だった。どうやら以前旅館に行ったときの面子で、今度はグランピングとやらに行く計画を立てている最中らしい。
誰もいない大学の剣道場の中心で、俺は一人坐して息を吸う。開け放たれた窓から、眩い朝焼けの光が、歪に傷のついた畳や床に静かに差し込んでいる。静かに目を閉じ、散らかった思考を整理すべく息を吐いた。
「…………」
正直なところ、俺は迷っていた。旅館の宿泊に同行したときもそうだったが、やはり己がこのような娯楽に興じていることに、何かしらの違和感を覚えてしまう。大した理由などなくただ、己が異物のように思えてならないのだ。
心の底から楽しめない、とでも称せばいいのだろうか。常に何かを裏切っているような心地が邪魔をして、意味もなく焦燥感に駆られる。性格のせいもあるのだろうが、厳格な両親による教えが根底にこびりついているのか。
大学受験をわざと失敗したあの日から、俺を見る両親の眼はまるっきり変わったように思う。剣道一家の一人息子として振る舞い、期待に応えるべく生きて、その始末がこれとはなかなか。我ながら滑稽とも言える。
「…………」
卒業後、俺は次期師範として実家の道場の跡を継ぐ。両親からすれば道半ばで躓くような軟弱者を継がせるのは忍びないのだろうが、先祖代々の道場を他者の手に渡すことはそれ以上に苦痛らしい。
俺が末代だと明かしたら、それこそどんな反応をされるか。過去に一度、黙っているのは不義理だと考えて話そうとしたことはあった。だがどうしても気が咎めた。俺はこの生き方しか知らない。剣を振り、己を律し、ただ当然と決められた道を征く。
……俺は明らかに焦っていた。両親を失望させた負い目。しようのない恋情に振り回される引け目。開放的にもなれず、禁欲的にもなれず、中途半端な堅物感を醸し出す割に、心のどこかで孤独な己を恐れている。
そういう態度が、どれだけ他者を遠ざけてきたか。よく思い知っているというのに。
「素直じゃねーな」
ハッとして目を見開き、慌てて周囲を見回す。しかし視界を満たすのは悉く、長閑な早朝の風景。動揺のあまり立ち上がっていたことに気付き、己の愚かさに溜め息をつく。
有り得ない、幻聴を聞くなど。あの狼は今頃、どこぞの国を飛び回っているのだ。たかだか数ヶ月で大学に舞い戻ってきているはずもない。何を血迷っている、よもや引きずっているとでも言うのか。己で己が分からない。
「部長」
「……ッ」
背後に立つ気配に、咄嗟に振り向きざま竹刀を振るう。しかしそいつは俺が突き出した竹刀を竹刀で颯爽と受け止め、一拍遅れて笑みを浮かべた。
「ひえー、危ないッスよマジ」
「青嗣……」
「すんません、後ろから話しかけちゃって」
「……いや、俺のほうこそすまない。気が立っていたようだ」
「にしても早いッスね、ホント。まだ朝六時ッスよ」
そう言って笑った青嗣の格好は、肩に担いだ竹刀が不釣り合いに感じられるほどラフなものだった。今は夏季休暇期間な上、今日は朝練もない。なぜここに、とこちらが問うより先に、青嗣は理由を語り出す。
「一人でこっそり自主練しようと思って来たんスけど、やっぱ部長いたんスね」
「…………」
「てか俺、部長に殺気向けられるのこれで二回目ッスね、へへ」
なぜそれで嬉しそうなのか。相変わらずこの後輩の考えていることは分からない。
「あ、そうだ。夏休み中に部メンで海行こう的な話出てるんスけど、部長もどうスか」
「いや、俺は……」
「なんか予定でもあるんスか」
「実は、な。グランピング……だったか」
行くかどうかも決めていない予定の話を、体のいい断り文句にしてしまう。とはいえ、その海の話とやらは俺には来ていないのだから、行ったところで気まずいだけだろう。先ほどの動きで乱れた剣道着を整えていると、青嗣は露骨に残念そうな顔をする。
「うーん、そッスかー……」
青嗣は急に黙り込み、何かを考え出した。そこはかとない嫌な予感が嘴の先に掠り始めたところで、意を決したような表情になった狼の口が開く。
「それ、俺も行っていいスか」
「な……いや、なぜそんな」
「俺、海より山派なんスよねー。まあ、無理なら全然大丈夫なんスけど」
「……どう、だろうか。他の奴らに聞いては……みるが」
そう返したはよかったが刹那、はたと気付く。この展開この言い方では、さも俺自身行くことが決定しているかのようではないか、と。
「お、やった、いいんスか。言ってみるもんスねー、へっへ」
「…………」
無邪気な子供のような笑顔。先ほど凛々しい顔つきで、俺の一振りを受け止めていた奴と同一人物なのだろうか。着替えのため部室に向かっていった青嗣の背中を見据えながら俺は、今し方見た表情をただ、胸の内に幾度も思い起こしていた。