■一路青年の拙走
「狼ばっかじゃねぇか、履歴」
「むおっ」
静かだった大学の渡り廊下に、俺の間抜けな声が響く。咄嗟に周囲を見回すが、早朝だったせいもあってか人通りはほとんどなかった。内心安堵しながら振り向いて、声を掛けてきた白虎の顔を見上げる。
「大学で出会い系なんざ見るもんじゃねぇぜ。俺みたいのが覗いてきたらどうすんだ」
「……そもそも覗くべきではないと思うのですが」
「声掛けようと思って近づいたら見えちまったんだ、不可抗力だろ」
そう言って隣にやってきた虎の表情には、悪気の欠片も見当たらない。とはいえ偶然見られてしまう可能性を考えれば、こんな公共の場で覗かれて困るようなものを見ている不用意な己にも、それなりに非はあった。俺は静かに画面を消す。
「で、首尾はどうよ」
「…………」
俺は返答に窮した。出会い系アプリに登録しておきながら誰ともやり取りすらしていないというのは、流石に滑稽すぎるのではないか。そういう後ろめたさが喉を詰まらせていた。
「ま、そんな簡単にゃいかねーか」
励ますように言う虎の声で、余計に情けなさが加速する。半ば自棄になって白虎の口車に乗ったはいいが、実際経験の薄い己にとって、出会いだのなんだのという話は想定していたよりも敷居が高く感じられていた。
「やらせといてなんだが、別に無理して続けなくてもいいんだぜ。放置してる奴も多しな」
「む……」
「俺もヤリ目程度にしか使ってねぇし」
「ヤリモク……?」
「あー……まぁ、何も大真面目に利用するこたねぇって話よ」
白虎はへらへらと笑う。俺もそういう風に割り切れたなら、もう少し気楽に生きられているのだろうが。毒とも薬ともつかぬうちに放置というのは、あまりに味気なく感じられた。
「おっと、話し込んでる場合じゃねーんだった」
何を急いでいるのかは言わず、白虎は俺の背中を叩き足早にどこかへと立ち去っていった。画面の消えた端末を手に携えたまま、俺は人気のない廊下で一人、朝日に溶ける構内をぼんやりと眺める。
いざ一歩踏み出そうとしても、狼種族ばかりに気を取られてしまうのは。やはり己の中でまだケリがついていないことの証左なのだろう。剣の鈍りも無くなった。あれほど心を乱すことも無くなった。だというのに、俺はまだ、奴の持つ雰囲気を忘れられない。
あいつは今、どこで何をしているだろうか。あの日以来、奴に関する情報はできるだけ遮断してきたから、風の噂程度の情報すら俺は知らない。だが今は、それを少し後悔している。
こうして己の特性と向き合うことになってから、改めて焦がれる羽目になるとは。可能性がないことなど分かり切っているのに、今でも奴と向き合って剣を振るえることを期待してしまう。あるがままの己で、ただそこに在れんと。
「…………」
そろそろ、時間だ。剣道部の朝練は自由参加にしていたせいもあって、なかなかに参加率は悪かった。本来ならば部長として、また武道に携わる者として、部員の怠慢を多少なりとも叱責すべきなのだろう。
だが今の俺に、その資格があるようには思えなかった。少なからず、どうにも歯切れの悪い症状を抱えた俺に、他者の堕落を正すことなど。
◆
朝の道場は、ただ静粛としていた。音もなく、風もない。剣道着に身を包み、抜けぬ汗と畳の香る空間に坐し、ひっそりとこの凪を堪能する。
案の定、と言うべきか。朝練の参加者は俺一人しかいなかった。今日は大学のテスト期間、課題の提出週間と被っており、間が悪かったせいもあるのだろう。加えて、今朝は軽い小雨だった。ただでさえ士気の微妙な部員らが来ない理由としては、十分すぎる話だった。
仕方なしと瞑想を始めたところで、建付けの悪い道場の扉がガタと音を立てた。その瞬間、誰かが入ってくる気配がする。やがてその気配が俺の背後まで来てふと立ち止まったため、瞑想を中断し俺は振り返った。途端、息を呑む。
「な……」
凛とした佇まいの、狼。道場に差し込んだ淡い光のせいか、一瞬目が眩んだように錯覚する。朧気だった輪郭が徐々に詳らかになるより前に、その狼と目が合った。その口が開く。
「剣道部って、ここッスか」
「あ……ああ」
声を聞いてようやく、ぼやけていた視界が確かになる。そこにいた狼の姿は、俺が浮かべていた奴とはそれほど似ているわけでもなかった。なんと、己が実に愚かしい。全くの赤の他人に、件の相手を重ねて幻覚を見るなどと。
「それで、君は……」
「自分、経済学部二年の青嗣という者なんスけど」
経済と言うと、宗谷梓馬と同じ学部。それを聞いた途端、なんだか奴の面影も混じって見えてきて、若干冷静さを乱しながらもどうにか立ち上がった。なるだけ平静を装って「用件はなんだ」と尋ねれば、青嗣はにこやかな表情で言う。
「入部希望ッス、剣道部」