■磨かれた嘴
「先輩、なんか今日機嫌悪いっすね」
「…………」
厨房での皿洗いの最中、俺を未だに律儀に“先輩”と呼ぶ豹を視界の端に捉える。分かっている、流石に終始無言で眉間に皺を寄せながら皿をがしがしと洗い続ける輩がいれば、気になって仕事も手に着きづらいだろう。
だがそれでも、俺はこの苛立ちを押さえることができなかった。
「あの、羽柴先輩」
「……なんだ」
「え、あ、なんでもないんすけど、えーと」
ぶっきらぼうに返したせいで豹の困惑を招いてしまい、内心猛省する。ああ、いかんいかん。この人の良い豹に一切の罪はないのだ。鬱憤を溜め息にして吐き出し、焦りのせいか皿を整理する手が覚束なくなっている豹に声を掛ける。
「その……すまない」
「へ」
「なんだか八つ当たりのようになってしまった。俺の機嫌はお前には関係ないというのに」
「いやまぁ、それはいいんすけど……なんで機嫌悪いのか気になって」
「…………」
水道の水を止め、手を拭く。ステンレス製のシンクに反射した、歪んだ自身の肖像が、朧になりながらもこちらを見据え返してくる。そうだ、別に俺が不機嫌に陥る理由なんてないはずだ。無駄に磨き上げてしまった嘴を擦り、できるだけ声色を明るくして返事をする。
「大したことではない。ただ……」
「ただ?」
「……ほんの少し、思うところがあるだけだ」
◆
『宗谷梓馬が海外に渡った』という話は、奴が渡航したらしき日から数日後には既に、学内に瞬く間に広まっていた。
奴の知名度の高さというか、顔の広さというか、悪名高さというか。あちこちで噂にされている辺り、どこかへ去ってすらも話題性に尽きない奴だったようだが。
まぁ奴がどこへ旅立とうが、それにどんな理由があろうが、正直どうでもいい。しかし何が腹立たしいかって、剣道部連中がしていた噂で耳にするまで“俺もそのことを知らなかった”ということだ。
「あいつ知ってるっしょ、梓馬」
「あー、あのガチホモ。なんか留学したって聞いたわ」
「いやー、うちの部の奴も何人か手出されたらしいし、もしかして部長も……」
「おいおい、どっかで聞かれてたらどうすんだよ。羽柴部長おっかねーんだぞ、特に機嫌悪いときの面打ちなんかキョーレツ」
「げ、そうじゃん、さっさと着替えて帰ろうぜ」
剣道部と柔道部、共用の更衣室で部員が面白半分にしていた話を偶然立ち聞きした俺は、慌てて出ていくそいつらに見つからないよう物陰で静かに立ち尽くした。部長としては軽口を咎めるべきだったんだろうが、事実を言い当てられては説得力もない。
だがそれよりも奇妙だったのは、胸に湧き上がってくる苛立ちと、その底で疼く微かな痛みだった。傍らの姿見に、光沢を帯びた嘴が虚しく光っている。
あの夜は……それなりにいいものだった。あの狼は存外優しかったし、俺も存外素直だった。今だって思い出せる……というか、思い出してしまうのだ。まとわりつく熱を、漂う肌寒さを、ともすれば溺れてしまいそうな視線を。
本当に、最後までいけ好かない狼だ。あれほど容易く人の心を打ち破っておきながら、その上居座っておきながら、何事もなかったかのような態度で行ってしまうなどと。挙句、俺に何も告げずに。
「…………」
そこまで沈思黙考して、はたと気付いてしまう。俺も数多の連中と同じように、奴に惹かれていたのだと。どうしようもないほどに、あの夜が胸に染みついてしまったのだと。
そして同時に、俺は察してしまった。あの狼にとって俺は、奴に焦がれた数多の連中の内の一人に過ぎないのだと。行先も、旅立つことすらも告げないような、その程度の関係性でしかないのだと。
何とも取れぬ感情が、喉元へ背繰り上がってくる。堪らず俺は、狭い部室から練習用の打ち込み台を夕に暮れる道場へと出し、竹刀を構えた。人気のない室内、降り注ぐ静寂。今日は騒音を撒き散らす軽音楽部も休みらしく、水を打ったごとき粛然がただ在った。
「……ッ」
声にならぬ怒声を上げ、打ち込み台に備わった面目掛け竹刀を叩きつける。刹那に唸る、地響きと聞き紛う轟音。寸刻遅れ、風が場内を駆け抜けたかと思えば、再び冷ややかな空気が舞い戻ってくる――。
――ガシャン、と打ち込み台が倒れたことで、ようやく俺は我に返った。血の上った脳裏が急速に醒め、ふらりとその場に膝を折る。
「…………」
なんとまぁ、みっともなく情けない、馬鹿げた話だ。とうとう行き場を失った感情を抱え込んだまま、畳の上に寝そべり力なく顔を覆う。
そうか……ああ。失恋、したのだな、俺は。