■君に触れ
朝七時。アホ犬の腕の拘束から逃れるべく、どうにか動く片手で鼻をぎゅうと覆ってやる。
「む、んぐ……」
こうすれば大智は、両腕の力を緩め呻きながら腹を掻く。その隙を突きぬるりとベッドを出るのが、このところの俺の朝の処世術だった。まぁ、パンツに手を突っ込まれてたら簡単には出来ない技ではあるんだが。今日はラッキーだったらしい。
朝七時十分。薄ら残る眠気に辟易しながら、どうにかフライパンでバターを溶かしパンを焼く。トースターは数日前まであったが、調子が悪くなったのか焼けてないパンが飛び出してくるだけになったので、先日廃品回収に引き取ってもらった。
朝七時三十分。一通り朝飯の準備が終わったので、放っておくと無限に寝倒しそうなアホ犬を起こしに向かう。もう二十歳も過ぎたんだから、少しは自力で起きる努力をしたらいいってのに。部屋を覗けば、暗がりに目覚まし時計の音が虚しく鳴り響くだけ。
「おい、大智」
呼びかけながら身体を揺する。いつもなら数分は粘らないと起き上がりすらしないのだが、今日は珍しくむくりと上体を起こしこちらを見た。半開きの眼が俺を見据えてきたので、若干ぎょっとする。
「お、はよう」
「……おはよー」
「できてんぞ、飯。いつものやつ」
「うん」
朝七時三十五分、朝食。スクランブルエッグとバタートースト、あとざっと焼いたソーセージ。以前に比べたら手の込んだものを作ることは減ったが、大智は何を作ろうと美味そうにそれを頬張るのでそこまで気も咎めない。
色違いの、揃いのマグカップでホットミルクを啜る。ルームシェアを始めたときに、ふらりと立ち寄った雑貨屋で購入したものだったが、今ではすっかり生活に溶け込んだ頼れる相棒のひとつだった。
朝八時、バスに間に合うように家を出る。朝の日差しが目に眩しい。道中、隣を歩く大智がふわと大欠伸をかましたので、俺も釣られて欠伸をする。
「おっす」
「眠そうだな、二人とも」
バス停に着けば、割かし早起き組の豹と馬が人だかりの中から声を掛けてくる。
「そっちは相変わらず朝強いな」
「悟が早寝だからなー。バイトから帰ってくるなり布団に潜り込んで即寝すんの」
「優しい誰かさんが布団を温めて待っててくれるからな」
「あー、その、な。はは」
あからさまな照れ笑いを浮かべるも、誤魔化しきれていない泰利。すっかりまっさらになった頬が優しく穏やかに歪んだのを見て、思わず「へ」と鼻を鳴らす。
「就活は順調なのか、そっち」
「朝から気が重くなるような話振るなよなぁ」
「いつ言っても変わんねえだろ」
「いやまぁ、そうなんだけどさ」
軽く世間話なんかをしてる間に、バスがやってくる。それを伝えようとして振り向くと、少し離れたところで大智が神妙な顔で悟に話し掛けているのが見えた。おい、と呼びかければ、二人ともこちらに気付きバスに乗り込む列に混ざり始める。
「何話してたんだ」
「特に。別段大した話じゃない」
「…………」
無言で俺を見据える大智に内心首を傾げるも、悟に押し込まれる形でバスに乗り込む。
「…………」
「…………」
相変わらず過密極まりないバスの中、密着する大智の体温を背中に覚えつつ、やけにこいつが寡黙な理由を考える。バスが揺れるごとに時折耳先を掠める、あいつの温い息。妙なこそばゆさに心を支配されながら、腕に抱えたリュックをぎゅっと握り締めた。
◆
午後、七時。大学から帰宅するなり大智の腹が軽快に鳴ったので、サラダと炒飯を作って食卓に並べる。一通り用意し終え席に着けば、向かいに座ってくる真面目な顔つきの大智。
「どうした大智、今日なんか変だぞお前」
「うん……いや、うん」
全く要領を得ない返答。空返事ってこういうものを言うんだろうか。十中八九また何か考え事でもしてるんだろうが、突然こういうモードに入るからこっちとしては面食らってしまう。
「…………」
「…………」
無言、ひたすらに無言。だが皿に盛られた飯はすごい速度で平らげられていく。態度や様子から見るに、俺が何かやらかして怒ってるだとか、そういうわけじゃないとは思うんだが。
いずれ気にしても仕方ない。大智のことだ、俺が思うよりしょうもないことで悩んでいる可能性もそこそこある。今は腹を満たすことに集中したほうがよさそうだ。なぜかしら、大智はちらちらとこっちを窺っているようだが。
午後十一時。夕飯の片づけと、大学から出た課題レポートの作成、そして就活サイト巡りをしていたらもうこんな時間になってしまった。ノートパソコンの前に座り通しだったせいで、身体の節々が強張ってる感じがする。
結局あれから、大智は一言も喋らなかった。食べ終わった皿をシンクに運ぶなり、すっとソファに座り込んで、口元に手を当てて考え込むポーズに入る。その所作があまりに似合わなくて思わず笑ってしまったが、大智はこっちを一瞥するだけでまるで気にしていないようだった。
「なんだってんだ一体……」
軽く伸びをしつつ、溜め息をつく。考えても仕方ないと理解しちゃいるものの、普段と違う雰囲気のあいつを見ていると、こっちまで落ち着かない気分になってくる。
「…………」
シャワーでも浴びるか。どうせレポートもろくに進んでいないんだ、さっさと寝て明日に備えたほうが良さそうだ。このところネットサーフィンが捗って、つい寝るのが遅くなっていたし。
畳んであった衣服から適当に着替えを見繕い、部屋を出る。大智も自室にいるのか、ドアの向こうから物音がしていた。声でも掛けようかと思ったが、掛ける言葉が見当たらないのでそのまま風呂場へ向かう。
午前十一時……半。時刻を確認したのち、端末を棚に置いて、服を脱ぐ。今履いてるズボンはよく尻尾が引っ掛かるから鬱陶しい。順当に脱ぎ進め、パンツを洗濯かごに抛ったところで、なぜか風呂場の引き戸が開く。
「えっ」
慌てて脇にあったタオルを腰に巻き、振り返る。そしてなぜかそこにいる、真面目な顔の大智。
「…………」
「え、待、ちょ」
俺の制止も聞かず狭い脱衣場に押し入ってきた大智は、後ろ手で扉を閉めると、俺のほうをまじまじと見据えてきた。物言わず佇む大智と、裸にタオルで立ち尽くす俺。ドキドキしないかと言われたら嘘になるが、それでもこいつのこの行動は解せない。
「な、んだよお前、どうしたんだマジで」
「……善ちゃん」
「用なら後で聞く……っつーか、俺、シャワー浴びっから」
「…………」
またも黙り込む大智。いい加減訝しんでいると、大智はおもむろにパーカーを脱ぎ始め……って、は、なんでこいつ、え、え、え。
「お、おい」
狼狽してる間に、大智はシャツも脱ぎ捨て上裸になる。久々に見るこいつの身体はやたら雄々しく思えて、無意識に目が泳ぐ。
「あー、えっと。もしかして大智、先に風呂入りたかった、的な」
「…………」
「じゃあ俺、その、外で待ってっから、うん」
動揺のあまり服を着直すのも忘れ、大智の脇をすり抜けようとする。が、大智は立ち塞がってそれを阻止すると、今度は手早くズボンを脱ぎ始めた。声を上げる間もなくトランクスも脱ごうとしたため、流石にそれは腕を掴んで留める。
「お、おおおおい、大智、お前、何考えて……っ」
「なあ、善ちゃん」
「へ」
「善ちゃんは……俺に触りたい?」
「……ッ」
咄嗟に顔を背け、手の甲で口元を押さえた。なんでこいつ、今このタイミングでそんなこと訊いてきやがるんだ。今日はいつにも増して行動が読めない。
「ずっと考えてたんだ、俺。あの狼に煽られて、教授に諭されて、悟に相談して」
「…………」
「今もすげー、頭ん中ぐちゃぐちゃしてるけど。でも、とにかく前に進まねーとって思って」
頭上から声がする。いつもの間の抜けた声じゃなく、精悍な男の声。あまりに現実感のない状況のせいか、胸の鼓動がじわじわと勢いを増してくる。
「だから、俺、やってみたい」
「やる、って、何を」
「善ちゃんに……触りたい、ちゃんと」
「…………」
「ダメかな、へへ」
返事に窮する。伏せているから恐らくバレちゃいないが、多分今、すごい顔をしてる。なんだそれ、なんだそれ、なんだ、それ。いや確かに、そういう風な関係を望んでいたのは事実だけど。だってそれを望んでたのは、まさかそんな日が来るなんて思ってなかったからで。
「……ダメじゃ、ねえ、けど」
激しくなる動悸を吐き出すように、言葉を搾り出す。昂りと、戸惑い。ともすれば狂いそうな感情のせめぎ合いに、背筋が震えていく。
「無理しなくていいんだぞ、別に。俺が望んでるかもしれねえからってそんな」
「無理なんかしてない。ただ俺が、確かめたい……から」
「確かめる……?」
「え、いやなんか、身体の相性……的な? 悟はそう言ってたけど」
何を相談したんだか知らんが、案の定余計なことを吹き込まれてるらしい。いつもの調子で諫めようと思うも、俺の口角は無意識に吊り上がっていて、上手く機能しなかった。
「いいのか、大智」
「えっ」
「俺、あちこち触る……かも、しれねえんだぞ、お前のこと」
「そりゃまぁ、俺も触るわけだし」
「そうじゃなくて……だから。こっから先はマジで、ガチ……っつーか」
「分かってるよ、善ちゃん」
ノータイムの返事に、心臓が跳ねる。あの、能天気に輪をかけて呑気なあいつが。この先を理解した上で、俺と、そうしたい……って。
「上手くいくかは正直分かんねーし、知識とかもあんまりないけど」
「…………」
「でも俺、絶対、善ちゃんのこと好きだし」
言われた途端、身体に潜んだ内なる熱がみるみる膨らんできて、今にも破裂しそうになる。情欲とか下心とか、そういう意味合いで語ってるんじゃないことは分かってる。単なる好奇心とか探求心とか、興味本位の可能性もある。
でもそれ以上に、本心で話してるって、分かっちまうから。
「…………」
腰に巻いていたタオルを取り去って、棚の上に抛る。狭い脱衣所に、裸の猫とほとんど裸の犬が、一組。随分と改まってやってきた状況と、明らかに注がれてくる視線のせいで、流石に恥じらいが勝ってくる。
「……勝手にしろよ」
どうにかそれだけ呟いて、ガラと風呂場の戸を開けた。ノズルを捻り、シャワーから温水を出す。鳴り響く水音の裏、聞こえてくる物音。
それから、十数秒後。僅かに立ち昇っていた湯気が、背後で開かれた扉から一斉に霧散していく。毛並みを濡らしながら振り返って、入ってきた裸の黒犬を見た。あの丸い瞳と、目が、合う。頬に触れてきた手が、ほんのり温かい。
午前……多分、零時ぐらい。きっと……いや、絶対、俺の人生史上、最も忘れられない夜になる。湯気の中でマズルの先と先が触れ合ったとき、俺はそう確信したのだった。
どんどん粉
2022-01-12 22:55:26 +0000 UTC戒厳(水)
2022-01-05 15:22:41 +0000 UTCアルビオン
2022-01-05 11:34:32 +0000 UTCANIMA
2022-01-05 02:51:12 +0000 UTC黒澤 誠
2022-01-05 01:12:10 +0000 UTC