■決断
「君は実に分かりやすいな」
春も終わりつつある頃の、ゼミの終わり。教授室に呼び出された俺は、用意された椅子に小さくなって座るなり、丹山教授に淡々と述べられる。
「なんでも明け透けに表情に出るのはよろしくない。何より他の学生にも影響が出る」
「はい……」
「とりわけ君は、その傾向が強い。影響力の面で言っても、だ」
「…………」
教授に言われるまでもなく、いくら鈍い俺でも気付いた。俺の発表中、みんなは終始苦笑いで。丹山教授は眉間の皺を一層深くさせてたし。坂東先輩に至っては、頬杖になってあからさまに「やれやれ」と言いたげな顔をしていた。
「とはいえ、個人のもたらす空気感がこれほど伝播するとは。興味深いと言えば興味深い」
「……すんません」
「謝罪はいい。君としてもこのような状況は不本意だろう」
積み重なっていた資料の山を脇に避け、強面の獅子は机上で手を組んだ。眼鏡の奥で主張する鋭い眼光に射抜かれて、俺は思わず背筋を伸ばす。
「それで、本題だが」
「…………」
「今度は何を悩んでいるのだ、君は」
「…………」
何も言えず俯けば、殊更に喉元は閉まっていく。脳裏に響くのは相変わらず、あの狼の言葉。俺の謝辞を蹴り飛ばし、ただ颯爽とこの地を去っていったクソ狼が残した、『決断』という名の置き土産。
「その……」
胸に溜まった泥を掻き分けるように言葉を探りつつ、俺は先日の夜のことを思い出す。誰もが寝静まった世界、善ちゃんの温もりを腕に覚えながら、狼の置き土産を独り紐解こうとした夜を。
◆
目が覚めたら夜だった。時計はあんまり見る気がしなかったが、外の気配から察するに、相当な深夜。
こんな時間に目が覚めるなんて、俺にしては珍しいことだったはずだけど、最近はそうでもなかった。寝惚け眼のまま寝返りを打とうとして、腕に絡みついた熱に気付く。
「…………」
覚悟。決断。意志。狼に言われた言葉とともに、そんなワードが俺の胸中をぐるぐると回っていく。俺だって、このままだらだらと過ごしていいなんて思っちゃいない。でもその一歩が、途方もない距離にすら思えていて。
「……ん」
俺の腕を胸元に抱え込みながら、寝息を立てる猫。手持無沙汰な指先で、その小さな顎をわしゃわしゃと弄り、静かに息をつく。
ただ触れるだけならば、こんなにも簡単だってのに。俺は……俺たちは、これよりも先へ進まなくちゃいけない。それを善ちゃんが望んでいるのなら、尚更。
空いているほうの手で、頬を撫でる。そのまま肩や腕を擦り、手の平を揉む。首元に鼻先を埋め、匂いを嗅ぐ。あの林檎に近い香りが胸いっぱいに広がって、これ以上ないくらいの安堵感に包まれる。
これだけでも十分、幸せだって思えるけど。おもむろに姿勢を変え、捲れたシャツの裾から躊躇いがちに手を入れる。へそ周りの毛が俺の指に絡みついて、さわさわと優しい感触を伝えてくる。
「ん……」
腹部を撫でた瞬間だけ、腕を掴む力が強くなる。それを愛おしいって、ちゃんと思えるから。俺は今日も自分の中の勇気を、少しだけ奮い立たせる。
「…………」
撫でていた手を、徐々に下のほうへ持っていく。相手が寝ている間にそうするのは気が引けるけど、それでも。
パンツのゴム部分に、指先が入る。多分、もう僅かでも先に行けば、触れてしまえるぐらいの距離。流石の俺でも、動悸を感じるくらいには緊張してくる。
「…………」
いつもここまで来て、手の速度が止まる。あちこち錆びついてしまったみたいに、身体がぴたりと動かなくなる。今日こそは行けるって、行けるかもしれないって、寸前までは思ってるのに。
でもこの先を知って、もし何も感じなかったら。善ちゃんの望むものが、俺の中にないと分かってしまったら。互いに傷ついてしまうような結果を、もたらしてしまったら。
結論が出てしまうことへの恐怖が、この先を躊躇させる。たくさんの奇跡を積み重ねてここまで来れたからこそ、次の奇跡に期待が持てない。
能天気な黒犬にだって、大事なものを失いたくない気持ちぐらいある。そんならもう少しぐらい悩む時間があってもいい、なんて甘えた考えを持ちつつあったのを、あの狼には見透かされていた。
覚悟。決断。意志。憎たらしい言葉たちが、体中を駆け巡っていく。自分を責め立てるように、あちこちをひりつかせて燻ぶっていく。
そうして、段々と、悩むのにも疲れてきて。そのうち、俺は、寝――。
◆
「――いいんでしょうか、俺」
一頻り逡巡したのち、ようやく言葉を捻り出した。それを聞いた教授は、ただ僅かに眉を持ち上げる。
「いい、とは」
「……アセクシャルかもしれないのに、誰かを好きになっても」
そう答えると、教授は眼鏡を外し息をついた。暗がりの室内に、埃がちらちらと舞う。
「ふむ。以前にも、結論は早々に出すべきではないと述べたとは思うが」
「そう……なんです、けど」
前に教授と話したときのことを思い出しながら、無意識に背中を丸める。いくらそう言われても、あんなにしっくり来てしまう言葉が見つかってしまっては、簡単に脱ぎ捨てられるわけもない。
「君がアセクシャルに属しているというのは、あくまで現時点での、暫定的な話だ。性質などというのは往々にして、環境や情勢に左右される。言わば流動的なものである、と」
「あの、えっと」
「要するに、自身の都合で枠組みを移動しようと構わない、ということだ」
「移動……って」
「君は別にアセクシャルで居続ける必要はない、と言っている」
「あ……」
簡単なことだ、とでも言いたげにさらりと述べる教授に、若干呆気に取られてしまう。ひたすら目を丸くする俺に対し、教授はただ二の句を継いでいく。
「ひとつの枠組みに固執する必要性はない。むしろ感情などと曖昧極まりないものを、居場所を決めて据えてしまおうなどと考えるほうが不自然だろう」
「…………」
「君がその枠組みに属することで、君の中に違和が生じるのであれば。そこには変化があって然るべきではないかね」
滾々と諭されて、俺は黙り込んだ。そんな風に考えたことはなかった、けど。言われてみれば確かに、あのときとは違う気持ちが、俺の胸にはちゃんと植わっていて。
「性的少数者の大抵は、そうやって迷うものだ。あちらこちらと渡り歩き、時に居着き、時に離れ、やがてどこかへと落ち着く。場所がなければ、作る者もいる」
「…………」
「迷っていいのだ、青年よ。君の心が落ち着けるまで、何度でも」
思わず胸に手を当てて、目を伏せる。まだ不安はある。憂慮もある。だけどさっきまでよりずっと、希望がありそうな気もしてる。
だから、あとは。必要なのは多分……『決断』だけ。
「第一、君は既知の情報に安易に飛びつき過ぎだ。不勉強にならぬよう、以前に資料を渡したはずなのだが……どうやら目を通していないようだな」
「あ……す、すんません」
「面倒に思うかもしれないが、見ておきなさい。知識は時に、その身を救うのだから」
「……はい」
「では、用件は以上だ。資料をまとめたレポートを来週までに提出するように」
しれっと課題を追加されたことに口を尖らせつつも、俺は教授室を後にする。いつも通り去り際にもらった辛い飴玉を指先で転がしながら、研究室の自分の席に戻って、一息。
辺りを見回せば、俺以外の奴らはとっくのとうに帰ってしまったようだった。そこそこ広めで雑多な研究室に、黒犬がぽつんと一人だけなんて、今じゃもう慣れてしまった。ふと椅子に斜めに寄りかかれば、視界の端に置きっぱなしの資料の山が映る。
「…………」
ここまで来て読まないのも気が引けてきて、資料を漁った。探している最中、肘を引っ掛けて山が崩れてしまったが、そのお陰で教授の言っていた資料が出てくる。目ぐらい通しておくか、と数枚捲ったところで、気になる言葉が目に留まった。
「デミセクシャル……?」
日永
2021-12-22 13:25:40 +0000 UTC黒澤 誠
2021-12-22 06:36:05 +0000 UTC