■『旅立ち』part5
「ん……」
時刻は……時計を見る限り、夜九時過ぎ。大学から帰宅するなり、夕飯もそこそこに、電気も消さず眠りこけてしまっていたらしい。床でクッションを枕に横になってしまったせいか、肩回りが微妙に重い。寝落ちの類いはそれほどしたことがなかったのだが。
「…………」
整頓され、少し閑散とした自室を見回して、「へ」と尻尾を揺らす。そう感傷に浸る大した理由もないはずなんだがな。これもある意味、身体は正直ってことか。
感情というやつは、つくづく面白い。何の未練もないからこそ、この地を去ろうとしたはずだってのに。
雨の音がする。一体いつから降っていたのか。寝てしまう前から降っていたような気もするし、今し方降り始めたようにも感じる。全てが滲んでいくような、あるいは全てに溺れていくような。妙な感覚だ。
窓を叩く雨音に触発され、やけに喉が渇いてくる。まぁ、寝起きなせいもあるか。立ち上がって水道まで出向く途中、傍らのゴミ箱に無造作に捨てられた茶封筒を見て、ようやく眠気が覚めてくる。
ああそうだった。あまりにも自然な流れで捨てたから、すっかり頭から抜け落ちていた。
俺を未だに縛り続けようとする、義姉からの呪詛。こんなものに効果がないことぐらい、流石に気付いていそうなものだが。やはり引っ込みがつかないのか。
自分が“宗谷梓馬”という完全無欠にとっての、唯一の傷でありたいから。その立ち位置こそが、今のあの人をあの人たらしめているから。
特段憐れとも思わない。ただひたすらに鬱陶しい、闇雲に視界を飛び回る羽虫に対し覚えるような感情ばかりが、俺の頭上でぶんぶんと喚き散らしているだけで。
しかしまぁ、いくら気にしていないと嘯こうと、現状どこか逃げた心地がしているのも事実だった。未練と呼ぶほど大したものがあるわけでもないが、腐りかけの生ごみを放置できるほど自堕落でもないのだ。
「…………」
沈黙が木霊する。有耶無耶にしたままのあの日が、今も遥か遠くで俺の尾を引き続けている。解決も解消もできないものが、世に多く蔓延ってることも知ってはいる。自分がそのひとつを背負っていることだって、とうに理解してはいたが。
とはいえ、だ。あの人の暴走を放置したまま、遥か遠き異国の地へ向かったとして。帰ってきたその瞬間、ポストが忌々しい封筒の山で埋まっている様を想像すると、流石の梓馬くんでも背筋に悪寒が走る。
「…………」
やはり、やらねばならないか。こちらから手を出す気は更々なかったのだが、発つ狼だって極力跡を濁したくはない。溜め息混じりに引きだしのほうへ出向き、用意してあった刺繍糸を取り出す。
もし妄執に囚われた義姉が、嬉々として茶封筒を入れに来て、ポストを開けたそのとき。
そこに、義弟からのミサンガ(贈り物)があったなら。
目には目を、歯には歯を。呪いには、呪いを。義弟が自身より格下であることを殊更に願い続けている義姉からすれば、この程度で十分面食らうだろう。
そして思い知るはずだ、嫌がらせの手腕ですら義弟に勝てないことを。
行き場のなくなった鬱憤を抱えたあの人が突貫してくる可能性もあるにはあるが、その頃俺は遥か遠い異国の地。要は、灸を据えるには絶好の機会だった。
何より今の義姉には、表向きの幸福がある。夫があり、子がある。世間的な体面や、温かいはずの家庭がある。それらを破壊してまでこちらに実力行使を施すことなど、臆病なあの人にはできるはずもなかった。
だってその幸福は、義弟の尊厳を踏みにじってでも縋りたかった矜持。それをそう簡単に裏切れるわけもない。
冷めた空気の中、思わず苦笑する。さっさと俺のことなんか忘れて、どっかで勝手に幸せにでもなってりゃいいのに。血のつながりのない赤の他人をつついてしょぼい優越感を得るより、眩く飛ぶ青い鳥を堅実に追いかけていたほうが何千倍もいい人生になるだろうに。
正直それに関しちゃ、俺も人のことはとやかく言えねーかもだけど。
「…………」
あれこれと思考を巡らせながら、手元でちまちまと糸を撚る。最後に編んだのは小学校時代だったと思うが、意外と身体は手順を覚えているらしい。そうして半分ほど出来上がったところで、静かだった室内に呼び鈴が響く。
時刻は大体夜十時過ぎ。なんかしらの勧誘員やら配達員やらが訪問してくるには、あまりに遅い時間と言えた。来客の予定もない。そもそもうちを知っているのは、割と限られた人物だけなのだが。
居留守でも使おうか迷ってる間に、二、三度呼び鈴が鳴り響く。やけにしつこい訪問客だな、これは。少し辟易しながら玄関口に向かい、覗き窓から外を覗いたところで、思わず鼻が鳴る。
ああ、全く、最後の最後までイレギュラーな野郎だ。俺の想定の範疇をこうもあっさり超えられては、どうしたって疎まずにはいられない。夜の静けさに凛々しくぶら下がったアホ面に免じて、扉をすいと開けてやる。
「よお、犬っころ」
「……話がある」
藪から棒にそう口にした黒犬は、普段とは違う気色の眼差しをこちらに向けてきた。マジで意味分かんねーなお前、と言いそうになるのを堪え、代わりにいつもの表情を浮かばせる。
「こんな夜半に突然やってくるなんて、随分と不躾じゃねえか」
「お前に不躾とか言われたくねーよ」
「だろうな」
「…………」
「マジさ、お前に睨まれてもそそんねぇから。さっさと言えよ、用件」
煽りつつ外に出て、殊更不愉快そうなデカブツの隣をすり抜けアパート横の路上へと移動する。まともな来客なら家に上げるのもやぶさかではないが、生憎アホ面の犬っころにくれてやるスペースなど我が城にはない。
「聞いてやるだけ感謝しろよ。梓馬くん、忙しいんで」
「……行くんだろ、お前」
いつの間にか背後のほうへと気配を移していた黒犬が、やけに低めの声で言う。
「善ちゃんから聞いた。留学のことも、出発が明日だってことも」
「…………」
「だから来たんだ、お前のところに」
「……へえ、何のためにわざわざ」
振り返り鼻を鳴らせば、あの犬はいつもよりマシな顔で言い放つ。
「お前と、ちゃんと話すため」
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『あいつとシェアハウス 特別編』の先行公開はここまでになります。
続きは書き上がり次第pixivのほうに公開いたしますので、それまでお待ちいただければ幸いです。