■マズルを持ち上げて
「どうした泰利、不貞腐れた顔して」
昼下がりの研究室。気怠い午後の陽気がカーテンの隙間から差し込んで、室内は微妙に暑かった。そんな蒸した空気の中、不機嫌そうな目の友人は優雅にコーヒーブレイクをキメながら俺の不機嫌を指摘する。
「べっつにー。特になんでもねえっつーか」
「んだよお前、絶対なんかあったろ」
作業が一段落したのか軽く伸びをして、訝しげな視線をこちらに注ぐ善人。俺のほうもレポート用の資料をまとめ終わったため、頬杖をつきつつその眼差しに応じる。
「その顔でなんもねえって、無理あんだろ」
「…………」
友人の容赦ない論破に対し、口を尖らせ抗議する。いやまぁ、あからさまな表情をぶら下げてた俺が悪いっちゃ悪いんだけど。吐き出すべきか否か、数秒ほど頭を悩ませた結果、善人のなんとも言えない顔を見てとうとう観念する。
「いやその、実はさ」
室内に俺と善人しかいないことを確認し、俺は椅子を善人のほうに軽く寄せる。そして身を屈めれば、向こうも察したのかいつもの猫背を更に丸めて応じた。背後に、いない黒馬の気配を感じながら、神妙な面持ちになって呟く。
「……悟に、その、一泡吹かせたい……っつーか」
「は?」
返ってきたのは、案の定な声色。そりゃそうだ、自分でも何言ってんだって思うぐらいだから、善人からすれば余計に意味不明に聞こえるに決まってる。でも俺にとっては、かなり大事な話でもあった。
「喧嘩した……ってわけでもねえよな。昼飯んときは普通に喋ってたし」
「いやまぁ、そうじゃねーんだけど……」
「なんか歯切れ悪いな、泰利」
「あー……」
後頭部をがしがしと掻く。観念したとはいえ、いざ口に出そうとすると、やっぱそれなりに恥ずかしかった。考えてみれば、誰かに話すような話でもないように思えてくる。でも目の前にいる猫の怪訝を解く方法も、特段思いつきそうにない。
「……悟に誘われたんだよ、あいつの誕生日に」
「誘われたって、何を」
「いやその……アレだよ、アレ」
「あ……」
善人の察した声で、殊更恥ずかしさが押し寄せてくる。これやっぱ絶対、誰かに話す内容じゃねーって。なんで周りの奴らは、カフェだの往来だの飲みの席だのでべらべらこんな恋愛話できるんだよ。しかも男女問わずって、意味わかんねーっつの。
「んでその、アレがどうしたって」
「いや、だから……」
「だから?」
「……あいついっつも、なんか余裕そうっつーか」
「…………」
「んで、だから、たまには俺も鼻を明かしてやりた……って」
「…………」
「お前この、何笑ってんだよ善人」
俺が指摘した途端、善人は浮かべた薄ら笑みを更に歪めて口を手で押さえた。そのせいで余計に照れ臭くなってきて、思わず俺も頬杖用についていた手を口元に移す。
「いやなんか、友人のノロケって結構楽しいもんだなって」
「面白がってんじゃねーよ」
「お前だって、俺んときはよくやってんじゃねえか」
「……ちょっと反省した」
「でも、鼻を明かすったってなぁ。正直この段階で照れてるようじゃ微妙だろ」
う、と息が詰まる。どうして今日のこいつはこうも俺の図星をザクザク突いてくるんだ。半ば諦観気味の俺に向け、善人は言いづらそうに口火を切る。
「……あいつに訊けば、ほぼ間違いなく正解が返ってくるとは思うが」
「あー、梓馬か」
脳裏をよぎる、不敵な狼のニヤケ面。確かにこの系統の悩みには、間違いなく適任だとは思うものの。
「でもあいつ、忙しいんじゃねーか。相談乗ってくれっかなー」
「大丈夫だろ、多分。あいつ、なんだかんだお節介だしな」
言いながら善人は鼻を鳴らす。色々忙しそうだからって、無意識に相談相手から外してはいたけど。というより、まともな助言が来なそうだから敬遠していたけど。
「…………」
善人の温い視線の中、意を決してメッセージを送る。悟の誕生日までもう日がない。俺や善人――大智は端からアテにしていない――が必死こいて策を講じたとしても、悟のあのクールぶった態度を崩すことは難しいに違いなかった。
「まぁやっぱ、こういうのは専門家に頼むのが一番だわな」
「で、返事はどうよ」
「いやー、今送ったばっかだし流石に……」
へらへら笑んでいると、手元の端末が不意に微動する。まさか、そんな早いわけ。そう思って画面を見れば、表示されていたのは期待通りの名前と、短めのアドバイス。
「なんて来たんだよ」
「あ、ちょ、見んな」
野次馬のごとく画面を覗き込んでくる善人に背を向け、勢い任せにメッセージを開いた。書いてある文面を読み下し、俺は目を丸くする。
「……マジ?」
◆
それから数日後の、四月十六日。俺は普段より一時間も早く起き、かれこれ三十分以上も自宅で精神統一に励んでいた。九時には悟が呼び鈴を鳴らしにくる。それまでになんとしても、覚悟を決めておかねーと。
梓馬曰く、勝負は早いほうがいい……らしい。色々タイミングを計ることも考えたが、そうこうしてる間に勘付かれたら全てが台無しだ。となれば、狙うは開幕、これしかない。
助言を胸に、深呼吸をする。やがて静かな室内に、呼び鈴の音が転がり込んでくる。窓から差し込む朝日で、背中が熱い。尻尾をしならせ立ち上がり、耳をぴんと張って鍵を回し、扉を開いた。そして、馬の顔が視界に飛び込んでくるなり、悟の服の襟を掴んで引っ張った。
「……っ」
バランスを崩した悟が声を上げるより先に、俺の口が奴の頬に触れる。梓馬のアドバイスではマウストゥマウスだったんだけど、俺にはまだこれが精一杯だった。きょとんとする悟の顔を見て、間髪入れず叫ぶ。
「悟、誕生日、おめっと」
「え、あ……ああ」
「そんで、えっと」
ここまでやっておいて、急に気恥ずかしさが襲ってくる。でも逆に、ここまでやった以上今更撤退するわけにもいかない。両足に力を込め、あの狼さながらの面相でセリフを発す。
「きょ、今日は俺のこと、好きにしていいぜ」
「…………」
表情筋がろくに動かない黒馬の、あからさまに面食らったような顔。確かに梓馬仕様のアドバイスの効果は抜群らしかった。なんか俺が望んでた感じと違う気もするが、正直悟が普段見せない表情を見せたというだけで、それなりに満足感もある。
「……泰利、お前」
今日は勝った。そう思ったときだった。俺の肩を掴んだ悟が、部屋に足を踏み入れながら低い声で言う。
「お前それ、意味わかって言ってるんだよな」
「あ、え、いや、そこまで深くは……」
妙に強い気迫。たじろいだ俺は、気圧されるがまま部屋の隅まで追い詰められる。
「いいよな、俺の好きにして」
「ちょ、さ、悟」
悟の大きな手が、俺の尻尾をふわりと擦る。いつものやつだ。背筋にピリピリとした感覚が押し寄せて、思考が急激に鈍ってくる。
「正直不安だった、どこまでやっていいのか」
「へ……?」
「こうやってお前をいじくり回してるのも、俺の独り善がりなんじゃないか、って」
頬、首筋、肩、胸、腹。優しい手つきが徐々に下がってきて、脳裏が痺れてくる。別に嫌じゃない。こいつの独り善がりなんかじゃない。そう言ってやりたいけど、快感で口が上手く回らない。変な呼気だけが喉の奥から漏れてくる。
「でも……いいんだよな」
「…………」
手つきが止まる。これまで一度たりとも触られたことがなかった、腹部の……下。どれだけ気分が昂ろうと、絶対に手を出されなかった不可侵領域。俺たちに残された、多分、最後の壁。
「……泰利」
最終確認。こんな展開になるなんて、正直思っていなかった。ちょっと気取ったこと言って、ちょっと悟を驚かせてやれればそれで、程度に思ってたのに。意図せず悟のスイッチを押しちまったみたいだ。
でも思えば、俺からこういうアクションを起こしたことはほとんどなかった。それこそずっと前、悟を空港で引き留めた後日、大学のトイレで意表を突いたあのときぐらいで。
悟が不安がるのも無理なかった。実際今までの俺たちは、親友とも恋人とも取れないような二人だったんだから。
そろそろ、答えが必要だった。この曖昧な関係に。鈍い麻痺のような昂りに。
琥珀色の眼差しが、俺の朧な視線と交差する。顔が近い。少しマズルを持ち上げれば、間違いなくできる距離。前回も、今日も、頬にしかしたことなかったけど。マウストゥマウスなんて、それこそ一度も。
「…………」
少し、マズルを持ち上げる。躊躇いも恥じらいもなかった。ただ、当然すべきことのように。ただ、その眼差しに応じるように。
「…………」
「…………」
さっきより面食らったような顔をした後、悟はニッと頬を綻ばせた。だから俺も、してやったり、なんて顔をして。
そっから先は……まぁ、俺たちだけの秘密ってことで。
日永
2021-04-28 10:23:05 +0000 UTCgargantuan
2021-04-28 07:40:49 +0000 UTC日永
2021-04-28 06:18:39 +0000 UTCED
2021-04-28 02:13:29 +0000 UTC