■『旅立ち』part4
その日、義姉はあからさまな泣き顔を貼りつけて帰宅した。こちらと視線を交わさず、無言で自室に閉じこもった義姉を見て、すぐに理解した。ああ、例の男と別れたのか、と。
義姉を盲目にさせていた恋の黒魔術も、とうとう効果が切れたんだろう。何があったのかは知らないが、正直訊くまでもない。義姉を慰めるべく俺は階段を上がって、奥にある義姉の部屋へと向かう。
「…………」
扉一枚隔てた先にある、沈んだ気配。外は義姉の心情に寄り添うかのように、しとしとと重苦しい水滴を地上に降らせていた。やれやれと溜め息をつき、声を掛ける。
「姉貴」
「…………」
返事はない。代わりに、ドアをガンと殴る音が返ってくる。その間俺はいつものごとく、持ち前の観察眼と嗅覚を駆使し、何がベストな慰め方かを思案していた。
「大丈夫か」
「……るさい」
扉の隙間から転げてくる、か細い涙声。だがそれでも、抛ってはおけなかった。両親は共働きで、中古の一軒家には俺と義姉の二人きり。曲りなりにも義弟として、耳に痛いすすり泣きを放置するには忍びなかった。
うちは子連れ同士の再婚だったから、お互い血は繋がっていない義理の関係。それでも俺は、編んでもらったミサンガを足首に付けるぐらいには、ひとつの関係性を感じていた。だからこその行動でもあった。
「なあ、姉貴」
「……話しかけないで」
泣き声が止んだかと思えば、中からぼそりと聞こえてきたのは、明確な拒絶。今ならここで引くことができたと思うが、自分の力を過信するマセた少年は、義姉のテリトリーへ無粋にも侵入する。
「そう言うなよ、心配ぐらいしたっていいだろ」
言いながら、義姉を振った例の男のことを考える。洒落っ気づいた義姉と歩く、高身長でモテ筋の鹿。一度見た程度の見識でしかないが、見るからに優男めいた風貌に、俺はよからぬものを感じていた。
そいつが何股も掛けてるような輩だと知れたのは、それから数日も経たない日のことだった。まぁ肝心の義姉は、愛しの彼氏が別の女とホテルから出てきたところを目撃しても、何かの間違いだと自分の目のほうを疑う始末だったが。
「あんな奴のために泣くことねえじゃんか」
「……何それ、まさか励ましてんの」
「俺は……そのつもりだけど」
とはいえ、そういう心情も理解はできた。ずっと“持たざる者の側”だった義姉にとって、誰もが羨むような彼氏は、何にも代えがたいステータスだった。
言ってしまえば、受け容れたくなかったのだ。自分が憐れなピエロだと、自覚させられるのが途方もなく嫌で。
「姉貴だって気付いてたんじゃねえの。最近なんか、無理してた感じだし」
「…………」
義姉は昔から己の存在意義に懐疑的だった。顔は可もなく不可もなく、成績は中程度、運動神経は人より悪く、取り立てて特技も趣味もない。
中高とバスケ部に所属するも、実力はレギュラーとベンチのちょうど中間ぐらい。友人もそれなりにはいたようだが、特定でつるめる相手はなし。常にありとあらゆるグループの末席にいて、自分の知らない内輪ネタに適当に相槌を打って暮らす。
要するに――仮にも義理の姉をそう評するのは気が引けるが――いてもいなくてもいいような存在だった。欠けたところで何の支障もなく、消えたところで困ることもない。
義姉は、そんな自分が心の底から嫌いだった。
そして義姉のそうした劣等感や疎外感の矛先は、自然と家族に向いた。
具体的に言えば、俺に。
――いいよね、お前は。
それが義姉の口癖だった。大方、自分とは対照的な俺に、嫉妬寄りの羨望を抱いていたのだろう。他人に依存することでしか自己を確立できない義姉にとって、自分がまるで世界の中心にでも在るかのように振る舞う義弟の存在は、疎ましい以外の何物でもなかった。
事ある毎に比較され、ひたすらに憐憫の眼差しを向けられる。他人が実際に秤にかけていたかどうかは問題じゃない。俺と居るだけで常に、義姉にはそんな気がしていた。それだけで、この人が俺に薄暗い感情を抱くには十分。
そんな義姉でも、唯一他人を見返せる術があった。それが、恋愛。詳しく言えば、良い人と出会って、良い付き合いを経て、良い結婚をし、良い家庭を築くこと。茫漠とした輝かしい未来図だけが義姉の支えであり、生き甲斐だったのだ。
しかしその価値観こそが、義姉の視野を酷く狭苦しいものにしてしまった。藻掻いて、足掻いて、みっともなくしがみついて、必死に死守していた愛の牙城がついに今日、呆気なく崩れ去ってしまうまで。
俺としても、もっと早く手を打ってやれていればとそのときは思っていた。今考えればそれが、マセたガキの自惚れそのものだということが嫌でも解るのだが。
「まあでも、よかったと思うぜ。最低な男と別れられたんだしさ」
「……良くないから、全然」
「そりゃ姉貴からすれば、そいつの隣が居場所だったかもしれねえけど」
「…………」
「もっといい奴なんて、それこそいくらでもいんじゃねーの」
当時中坊だった俺にしては、十分すぎるほど気の利いた励ましの言葉だった。実際これが…………例えば失恋した一同級生へ向けたものだったなら、いいサポートになっただろう。
「……あー、あー」
だが俺の慢心は、最も大事なことを失念していた。
「ほんっと……あー」
この励ましは…………俺が行うべきではなかった、ということを。
「……ムカつく」
明らかな敵意を孕んだ義姉の怒声。想定外の事態に、思わず頬が強張る。
「お前って、ホント不気味」
「……えっ」
「よくそんな、人の心ん中に土足で踏み込めるよね」
そこまで聞こえたところで、不意に扉が開く。そこに立っていた義姉は、思いの外ぐしゃぐしゃの格好で。衣服の乱れや毛並の跳ね方を見れば、義姉があの男に最後に何をされたのかは想像に難くなかった。こちらを見降ろす鋭い目つきに、思わず身じろぎしてしまう。
「楽しい? そうやって高いところから私のこと見下してさ」
「俺は見下してなんか」
「いいよね、お前は。何でもやれて、何でも持ってて。どれか一個失くしたって、何にも痛くないもんね」
「あ、姉貴……?」
「でも私は違う、違うんだよ、なあ」
これ以上ないほど、明瞭な悪意。怖気づいたときにはもう遅く、俺の身体は義姉の部屋へ引き込まれ、そのまま奥のほうへと突き飛ばされていた。扉が乱暴に閉められ、暗い室内は義姉の放つ怒気で満たされていく。
「お前さあ、私がどんな気持ちか分かってやってんでしょ」
「ちょっと、落ち着けって」
「中坊ごときに生半可に同情される筋合いだってないんだよ、なあ」
「俺は別に、そんなつもりじゃ……」
「あーあー、ホント、ほんっと腹立たしいったら……」
また一段階、義姉の声色が薄暗いほうへ傾く。徐々に身の危険を感じ始めたところで、ようやく予感が働いた。無論、悪いほうに。
「……あ、そう、良いこと思いついた」
劣等感に苛まれる義姉が、疎ましい義弟に一矢報いる手っ取り早い方法。それは。
「ホントに私に同情してるって言うなら、私のこと慰めてよ」
俺に、消えない傷をつけること。
「……ッ」
いよいよ声が出なくなる。ボロボロの身なりで、粛々とこちらに詰め寄ってくる義姉。こんな状況で、冗談とも思えなかった。抵抗しようにも、中学生と大学生ではいくら男女でも力の差は知れている。しかも相手は、これ以上失うものがない“無敵の人”。
「いいでしょ別に。血、繋がってないんだし」
「…………」
「何その顔、自分が招いたことでしょ」
ただの励ましのつもりではあった。だが間違いなく、出過ぎた真似をした。後悔やら反省やらを脳裏に並べ立てたところで、その失態が覆せるわけもない。
よく考えれば当然だ。親の再婚で突然現れた義理の弟は、自分より遥かに優秀で。自身に引け目を感じさせるだけの存在なんて、うざったいに決まっている。その上その相手から、分かったような口で励ましの言葉なんか貰った日には。
「いいからほら、早く脱――」
――そこから先は、雨の音がうるさくてよく覚えていない。だがこれが、万能だった“宗谷梓馬”の喪失の全て。いつまでも焼き付いて離れない、失敗の、記憶。