■おめでとうは言わない
「多分怒ってるよな……これ」
高三の冬、二月。ノートにごちゃごちゃと数学の問題を書き出していた俺は、シャーペンの芯が不意に折れたタイミングで椅子の背もたれに思い切り体重を預けた。
大学受験までもう日がない。勉強しなくちゃいけない。だというのに、どうにも気掛かりなことがひとつあった。もう何周もしてボロになった問題集を雑に閉じ、カーテン越しに善ちゃんの家のほうを見て溜め息をつく。
俺の集中を乱す原因。それは昨年の十二月、夜遅くに塾から帰ってきた俺の端末へ届いていた、善ちゃんからのとあるメッセージ。
『お前……忘れてたろ』。
一瞬、何のことか分からなかった。そのときの俺の頭の中は、塾から返された結果の芳しくない判定テストのことでいっぱいだったから。何のこと、と返事をしようとした瞬間、今日の日付が目に入って、俺は焦る。
十二月、二十一日。他でもない善ちゃんの、十八の誕生日。
やべ、と思ったときには既に、深夜零時を過ぎる頃だった。慌てて「おめでとう」やら「ごめん」やらの言葉を打ち込もうとする俺の元に、追い打ちをかけるようにやってくる簡素なメッセージ。
『まぁ、別に気にしてねえけど』。
……絶対気にしてるって分かった。鈍感と名高い俺でも、こればっかりは間違いなく当たってる自信があった。普段よりぶっきらぼうな口調。妙に早い送信速度。そして極めつけは、いつもなら直接言ってくるのに、なぜかメッセージで間接的に済まそうとする感じ。
埋め合わせと称して次の日の昼飯を奢ったものの、やはり善ちゃんの顔つきはどこか晴れないままだった。その後も、表向きは普通に会話したり遊んだりしてくれていただけに、忘れていたという罪悪感は日増しに募っていく。
「…………」
ふと椅子から立ち上がって、ベッドにどさりと飛び込んだ。自分が全面的に悪いってことは、頭では理解してるけど。忘れていた理由も一応あるにはあった。高二の冬休み明け、校内に展示された大学のパンフを眺めながら、善ちゃんとした会話を思い出す。
「志望校どこにすんの、善ちゃん」
「まぁ、やっぱここかな」
善ちゃんが顎で指した先を見て、俺は思わず口角を下げた。自宅からかなり離れた場所にある、偏差値もなかなかの大学。そういえば前に善ちゃんが話していた。近くの大学は費用が高いところばかりだから、一人暮らししてでも学費安いところに行きたいって。
「……お前はやっぱ、あそこか」
「…………」
「しょうがねえよなぁ、こればっかりは」
そっぽを向いて言う善ちゃんの横顔を見て、愛想笑いすらできなかった。俺と善ちゃんじゃ学力が違う。そうなれば当然、進路も違ってくる。
でもそれは、つまり、善ちゃんとの別離を意味していた。
お互いそのことは分かってる。ずっと二人並んで生きていけるはずもないってことも、十二分に理解してる。だけどそれを簡単には割り切れないってことも、俺たちは分かっていた。
「まぁ、いつかはそういう日が来るしな。俺たちもそろそろ大人になって……」
「……間に合うかな」
「え」
「善ちゃんと、同じ大学」
「…………」
「今から猛勉強すれば……行けっかな」
正直、世迷言に近い言葉だったって自覚はあった。でも俺は本気だったし、たとえ駄目元だろうとやりたかった。何もしないで離れるなんて、納得できそうもなくて。
それに何より、俺がそう口にした瞬間、善ちゃん目つきが緩んだから。
「…………」
ふと、部屋の壁に貼り付けた大学のパンフレットを見る。そしてベッドから起き上がり、机に向き直って、再びシャーペンを走らせた。書き込みでボロになったノート。黒ずんだ消しゴム。積み上げた参考書。いつも躓く問題と、未だに使い慣れない頭。
母さんは、無理しなくてもいいのよ、と言った。クラスの連中にも、無茶だろ、なんて笑われた。学校の先生に至っては、赤木には大変じゃないか、とさえ。
とにかく必死だった。誰になんと言われようと、立ち止まる気なんかなかった。実際それで、共通試験のほうはなんとかマシな結果を残せた。合格に、ギリギリ掠れるぐらいには。
だけどその代償に、大事なことを失念した。必死になりすぎて、この体たらく。むしろ本末転倒じゃんか。もう何度目かの後悔が込み上げてきて、また書く手が止まる。
「…………」
椅子を回し、枕元に抛ったままの、冷えた端末を見据える。やっぱもっとちゃんと、謝罪するべきか。でも気にしてないって言われた以上、しつこく詫びるのも気が引ける。悶々としたわだかまりに辟易していると、不意に端末が震え出す。
着信元は、あの不機嫌な猫。
「あ、ぜ、善ちゃん……」
慌てて出たせいで、声がひっくり返りそうだった。そんな俺の様子を知ってか知らずか、善ちゃんはいつもの調子で声を上げる。
「窓開けろ、大智」
「え、窓……?」
「いいから早く」
言われた通りカーテンを開き、窓を開ける。そして目線を上げれば、向かい側の窓から、同じように顔を出す不機嫌な猫がいて。まだ寒い夜風に、思わず毛先を震わせる。
「開けた、けど」
「…………」
一瞬口を真一文字に結んだ善ちゃんは、急に振り被るような動作をしたかと思うと、俺の顔目掛け何かを投げつけてきた。ギリギリ届かなかったそれを、窓から身を乗り出してキャッチする。
「えっ」
受け取った“何か”の正体は、丁寧にラッピングされた、手作りのチョコレート。
「善ちゃん、これ」
「誕プレじゃねえから、勘違いすんなよ」
誕プレ、という単語が電話口から飛び出してきて、俺は面食らう。まさかと思い振り返れば、棚の上のデジタル時計は、二月十四日の午前零時過ぎを示しており。
「人の誕生日忘れる奴に、おめでとうなんて言わねえからな」
吐き捨てるような物言いと、宵に浮かぶ猫の横顔。ぶっきらぼうにも投げつけられた想いに、頬が綻びそうになる。自分の誕生日まで忘れてた、なんて、言えないぐらいには。
「大智」
ありがと、と俺が口にするよりも早く。チョコレートを眺める俺に、善ちゃんから呼びかけが飛んでくる。
「来年も欲しいなら、死ぬ気で合格しろ」
真っ直ぐに突き刺してくる視線。膨れ上がった憂いを、一瞬で融解させる言葉。贈り物を持つ手に、ぐっと力を込める。
「受かるぞ、一緒に」
「……おう!」
返事を聞き届けるなり、電話が切れる。家の中に戻っていく善ちゃんに、思いっきり手を振った俺は、寒空の下しばらく夜風に吹かれた。熱を帯びていた頭が、程よく冷えていく。
「……おっし」
部屋に戻り、人知れず意気込む。そうして机に向かえば、さっきよりもかなりスッキリした気分で問題集と向き合える気がした。やるぞ、と問題に取り組む前に、チョコのラッピングを丁寧に解く。
来年も、欲しいなら。その言葉とともに、貰ったチョコを噛み締める。すべては、一緒に大学へ行くため。そんで何より、これからも善ちゃんの隣にいるために。
残すは、大学の二次試験だけ。俺はシャーペンのグリップをぎゅっと握ると、また勉強を再開した。
受かるぞ、一緒に。
その言葉だけを信じて。