■『旅立ち』part3
つくづく、生意気なガキだった。
幼少期から不思議と、他人の考えていることが分かった。まぁ正確には、勝手に知れてしまうのだ。表情、抑揚、声色、身なりや手振り、僅かな視線の流れ、息遣いの機微ですら、俺が意識せずとも思考回路にぬるりと入り込んでくる。
そして、その先で。ふと理解が及ぶ。相手が望んでいること、求めていること。どんな言葉を与えれば、どう行動してやれば。満足させる方法は、喜ばせる手立ては、気分を揚げてやる術は。
他人の持つ喜怒哀楽のすべてが、俺の頭の内にあった。脳裏上の盤面に駒を並べ立て、あれこれ画策しながらベストなタイミングで発火させる。そうして、狙い通りに事が運ぶのを眺めながら、小癪な狼はほくそ笑むのだ。
それこそが、俺の楽しみであり、喜びだった。
要するに宗谷梓馬という存在は、他人に付け入るのが極端に上手かったのだ。他者を惹きつけ、感情を起こさせ、ある程度意のままに操る。まるで一種のシミュレーションゲームのように状況を転がしていき、自身に有益な舞台を作り上げ、結果に愉悦する。
そのときから既に、俺にとっての幸福は他人の中にあった。他者から評価されること、他者に感謝されること、他者の記憶に刷り込まれること。それこそが俺自身の喜びであり、人生のすべてだった。
これを“生意気”と形容せずして、なんと言えばいいやら。とにかく当時の俺は、自身の恵まれた才覚をひけらかすことに青春を費やしていた。今顧みれば、なんとまぁ邪気に満ちた所業なんだと嘲ることはできるが。
悲劇か喜劇か、幸か不幸か、天運か神の悪戯か。しゃらくさい狼には、他人を誑かすための別の才覚も備わっていた。
初体験は確か、中学生のときだったか。
端的に言えば、ワルいオトナとの戯れ。平日の夕方、スーパーのトイレでなんて、思い出にするにはロマンもへったくれもないようなシチュだったが。
欲に駆られた輩をむやみやたらに惑わすこと。ひねたクソガキの暇潰しとしては、それはあまりに優秀で。あまりに……魅力的で。
正直言って快感だった。他人の心を掌握すればするほど、自身が万能である気がしていた。特に性欲なんて、抗い難い玩具をちらつかせるのは、思春期のやさぐれた支配欲を満たすには十分過ぎる威力を持っていたから。
表向きは金声玉振の優等生。裏では雄の性衝動を徒に引っ掻き回す伊達男。自分に与えられた才を振るって、世界を動かしていくことのなんと面白いことか。ヴィヴァ・ラ・ヴィダの響きの意味を、うら若き梓馬少年は享楽のままに噛み締めていたのである。
しかしそれが、途方もない慢心であったこと。あの雨の煙る宵時、俺は辛うじて残っていた幼心に、思い知ったのだった。