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あいつとシェアハウス 特別編part2

■『旅立ち』part2


 食堂の隅に設置された、いくつかの一人席。設計上余った空間を無理くり座席にしたかのような、そういうしがないスペースで少し遅めの朝食に勤しんでいると、疎らな人集りを掻き分けて陽気な豹がやってくる。


「よお、梓馬」


「どうした、やっすん。こんな辺鄙なとこ来ちゃって」


「いやほら、偶然お前がいるのが見えたからさ」


 マズさがウリの売店のコーヒーを適当に机に置きながら、豹は近場の空席に座る。相変わらず嘘が下手な奴だ。こんな奥まった場所、偶然に見えるわけもない。


「探してたんだろ、梓馬くんのこと」


「……やっぱ分かるかー」


 変に凝り固まっていた顔が、照れ臭そうに歪む。これほど楽しい瞬間はなかった。初めは居場所作りに齷齪していたような奴が、今ではあまりにも自然に笑うんだから。


「これもあいつの賜物ってわけか」


「ん」


「いんや、独り言」


 仮面を張り付け、背伸びして、慣れない足つきでふらふらと自分の価値を模索していたやっすんが、ようやく見つけた立ち位置。それがあの無垢で捻くれた馬の隣とは。人生とはこれだから面白い。


 思えば悟も、随分成長した。読み切れぬほどの本に囲まれて、静けさの中壁を作って世の総てを憂えていた黒馬は、もうどこにもいないのだ。やさぐれた日々の底に煙るあの図書室は、今やどこにも。


「もう行くんだろ、梓馬」


 おもむろにコーヒーを手にして、やっすんはさもなんでもない風に声に出す。やはりその話題か。どうにも皆、嗅ぎ付けるのが早いらしい。


「黙って行こうってんだから水くせーよな、マジ」


「怒ったか、やっぱ」


「怒ってはねーけど、一言ぐらいは欲しいだろフツー」


「へえ、なんで」


「なんでって……友達がいなくなるって聞いたらそりゃ、気になるもんじゃん」


「……くはっ」


 この偏屈な狼を屈託なく“友達”の枠に突っ込んでくれる豹に、思わず笑んでしまう。自分でも少々意地の悪い質問だったとは思ったが、こうも真っ直ぐ返されては形無しだ。


「あ、おま、なんで笑うんだよ」


「さあてな」


 適当に誤魔化すが、漏れ出たニヤケ面は隠し切れそうもなかった。こちらの表情を窺うなり、やっすんも「へ」と口角を上げる。


「つーか驚いたぜホント、急に本屋のバイト辞めちまってるんだから」


「元々そんな入ってなかったけどな」


「でもお前さ、なんで本屋だったわけ。梓馬なら居酒屋でも塾講でもなんでも行けたろ」


「ああ、それ」


「そういや訊いたことなかったなーって」


「別に、理由とかねーけど」


 そう口にすると、豹は意外そうに目を丸くする。まさかお前に限って、とでも言いたげな眼差しを、やれやれという顔で迎え撃つ。


「そんな驚くかねえ」


「いやだって、天下の梓馬が理由もなしってのは」


「納得できねぇって?」


「そういうんじゃねーけど……意外に行き当たりばったりなところあったんだなって」


 言い終えるなり、バツが悪そうにコーヒーを啜る豹。行き当たりばったりと称されるほど大雑把に決めた覚えはないのだが、かと言って反論できるだけの理由も大して覚えてはいなかった。仕方なしと鼻を鳴らし、机に抛っていたそこそこの量の資料へ目をやる。


「それ、留学用のやつか」


「まあな。読むだけでも大変だってのに、書くものまで多いときやがる」


「……マジで行くんだな、お前」


 背後から不意にしんみりとした声が聞こえ、思わず目を伏せた。参ったな、実に。こういう空気はどうも、梓馬くんは得意じゃない。


「善人から聞いたときも正直、半信半疑だったんだよな。梓馬のことだからてっきり、また何か……うん、俺たちの予想だにしないような何かを見せてくれるんじゃねーかって」


 振り返り、顔を見る。そこに浮かぶのは、声色とは対照的な笑み。妙にひんやりとした資料の手触りを肌に感じながら、友人の吐露に耳を傾ける。


「残り一年もいい感じに過ごして、卒論に追われながらたまに遊び行ったりして、そんで皆で卒業迎えて……って」


「…………」


「学部はちげーけどさ、なんとなく最後まで一緒だろとか思ってたんだよ、俺」


 語るうち、徐々に豹の笑みが崩れていく。真剣、神妙、アンニュイ。如何とも形容しがたい顔つきを傍観するのも忍びなく、萎びたマズルの先にひょいとマズルを近づける。


「そんな顔すんなよ、やっすん」


「あ……」


「揃いも揃って辛気臭い顔しやがってなぁ。そんなに梓馬くんをご所望か」


「……わりぃ、水差したりして。お前にとっちゃ門出だもんな」


 申し訳なさげにこちらを見て、豹はぎこちなくも笑う。まぁ、門出という表現は大袈裟なのだが、特段指摘する必要性もない。知らせるまでもないのだ、海外渡航の理由など。


「そうそう。笑って送り出してくれたほうが、梓馬くんとしても本望ってわけよ」


「……そうだな」


「つーかほら、やっすんには笑顔が似合うって、愛しの黒馬くんも言ってたろ」


「へ、いや……あー」


 露骨に目が泳ぐ。しかも思い当る節があるらしく、強張っていた頬が急速に緩みを帯びていく。揶揄い甲斐があるのは結構だが、こうも分かりやすいと悪い虫でも寄り付きやしないか老婆心が働きそうになる。


「その様子じゃ、卒業後もよろしくやっちゃう魂胆かね」


「よろしく……は意味わかんねーけど、卒業してからの話は悟とたまにしてんな」


「へえ、どんな話よ」


「いやそりゃ、就職とか生活のこととか色々」


「つーことは何、同棲でもすんの」


「あー……まぁ、そういうことになんのかな」


 豹は首を窄め、照れ臭そうに後頭部を掻く。一見満更でもなさそうなのだが、返事に妙にキレがない。やはり別れの言葉を言うためだけに、わざわざ会いに来たわけではなさそうだ。


「不安か」


「えっ」


「気にしてんだろ、男二人で暮らすこと」


 口を真一文字に結び、垂れた尻尾を彷徨わせる豹。やっすんの性格から考えれば、このぐらいは容易に想像がついた。持ち前のエスパーを活用するまでもない。


「やっすん、そういうとこ真面目だよな。気楽に構えてりゃいいってのに」


「そうは言うけどよー」


 やっすんは苦笑すると、まだ中身の残るコーヒーカップの淵を弄り始める。どこか遠くを見るような表情で薄い黒の液体を眺めるその横顔は、恐ろしいほど素直に光の中へ沈んだ。


「やっぱ色々考えちまうんだよな。悟も善人もお前も、苦労してきたの知ってっからさ」


「へ、一丁前に語るじゃねえか」


「なんつーかまだ、そういう生き方に対して、心の準備が出来てねー感じで」


「無理もねーさ。やっすんにしてみりゃ、突然舞い込んできたようなもんだし」


「……でもぶっちゃけ、不安っつっても、悪い意味じゃねーんだ」


 ぽつりとそう言われ、饒舌気味だった俺の舌が止まる。エスパーする気は大してなかったとはいえ、少し予想外な発言だった。


「大学入り立ての頃とかはさ、なんかテキトーに、周りに溶け込んでフツーに生きれりゃいいとか思ってたんだけど」


 言いながら頬を擦る泰利。トレードマークだったはずの朱の二本線は既に色が剥げ始め、あとは薄らと輪郭をそこに残すのみとなっていた。確か以前言っていたな、就活には邪魔だから、と。


「色んな奴と出会って、色んなもんに出くわして、色んなこと知って。フツーに生きないことだって、何も特別な話じゃねーって分かったっつーか」


「…………」


「上手く言えねーんだけど……俺って今、すげー世界の入口に立ってるような気分」


 ひ、と笑ったその顔が、どれほどの輝きを持っているのか。その価値をこれから知り続けるのが、あの無骨だった黒馬となれば、梓馬くんとしては口角を上げるしかなかった。


「あ、てめ、なんでまた笑ってんだよ」


「さてねえ」


 はぐらかしたところで、食堂の時計が周囲に鳴り渡る。途端に「あ」と漏らしたやっすんは、慌てて飲みかけのコーヒーを一気に煽り、そのまま立ち上がる。


「ゼミか、次」


「まだ時間あるんだけどな。院生の先輩に発表資料見てもらわねーとだから」


「そっちはそっちで忙しいねえ。梓馬くんはそういうの、一年先送りにしちまったし」


「…………」


 一瞬無言になったやっすんは、空になったコーヒーカップを握り締めると、再び俺の目を真っ直ぐ見降ろした。はてさて、言われる言葉とは、恐らく。ひたすらに優しい眼差しを、今度はやれやれという顔で迎え入れる。


「ありがとな、梓馬」


「…………」


「あの大雨の日、お前が空港まで送ってくれたこと。一生忘れねーよ、俺」


「……そら、どういたしまして」


 得意気になって見上げた顔は、不格好な笑みに染まっていた。高くなりつつある陽が食堂を燦然と照らし、光の面積を増やしていく。フツーでも特別でもない奴らの、まだ覚束ない足元のほうまで、粛々と。


「でも梓馬、なんでそこまでしてくれたんだよ」


 近場のゴミ箱へ紙コップを抛った泰利が、向き直って尋ねる。


「ずっと分かんねーんだよな。悟と付き合ってた義理……ってのも変だし」


「ああ、それ」


 似たようなフレーズをさっきも口にしたな、などと思いつつ、再びそれを声にする。


「別に理由はねーよ」


「あ、てめ、今更そりゃねーだろ」


「いんや、分からんぜ。梓馬くん、意外と行き当たりばったりだからな」


「んだよそれ」


「お前が言ったんだろ、やっすん」


 そう言ってニヤけてやれば、向こうも同じように笑んだ。そのまま「またな」と去っていく泰利の背中を見ながら、過ごしてきた日々を徒然思い起こす。


 ああ、理由なんざ大して重要じゃない。ただ俺がそうしたかったから、そうしただけ。眩いばかりの光が無為に闇間へ転げ落ちていくのを、見過ごせるはずもなかっただけ。


「…………」


 あいつらはいつか、“梓馬くん”では辿り着けない光景に辿り着く。その刹那、奴らの心の奥に、風変わりな狼が僅かでも居たとしたなら。


 こんな俺でもきっと、同じ景色が見えるんじゃねえかって。


 

あいつとシェアハウス 特別編part2

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